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深緑の森 5

「今後の天候と、できましたら商売繁盛の祈祷をお願いできないでしょうか」

 宿屋の主人、トウマが遠慮がちな上目遣いで部屋を訪れたのは、やたらと豪勢な夕食が下げられた後だった。就寝にはまだ早いが、わざわざ日が暮れてから祈祷を依頼しに来たのは、気が引けるほどのもてなしで依頼を断りにくくするためだろう。やり方はいささか気に食わないが、うまい交渉術だと捉えることにしたアーサーは、喉元まで出かかった嫌味を飲み込んだ。

「わかりました。祈らせていただきますね」

 そう言ったアリシアは姿勢を正すと、胸の前で両手を組んで目を閉じた。まるで眠ってしまったかのように、深い呼吸がその口元から漏れる。しん、とした空気に、振り子時計の微かな音が重なった。時折遠くから従業員たちの微かな笑い声が響いてくる。それが妙に暖かく感じられて、アーサーはふわりと猫のようにあくびをした。

 数分。長いような、短いような間のあとで、アリシアが微かに息を吐いて目を開けた。

 ゆっくりと微笑んだ祈祷師に、トウマはいささか不安そうな目を向ける。こんな祈りで本当に大丈夫なのか、と言いたげに。

「トウマさん。大丈夫ですよ」

 声に出さない不安を感じ取ったように、アリシアが柔らかな表情で語りかける。

「雨は、今後定期的に降ります。向こう数年間は、人が暮らせないほどのひどい日照りにはならないでしょう。お客さんも、すぐに戻ってきますよ」

 その言葉に、男の顔がほころぶ。出会ってからずっと感じていたくたびれた印象が、ふっと和らいだ。不安から解放されたように深く息を吐いた彼は、懐から飾り気のない封筒を取り出した。

「少ないですが、今回のお礼です。どうぞお納めください」

 その厚みに驚いたアリシアは慌てた様子で、ぶんぶんと音がしそうなほど勢いよく両手を振る。

「い、いただけません、こんなに!」

 しかし、男は頑として封筒を引っ込めようとはしなかった。

「お嬢、受け取っておけよ。路銀の足しだろ」

 見かねたアーサーの一声で宿屋の主人は満足げな笑みを浮かべ、アリシアは深く頭を下げてずっしりと重い封筒を掲げ持った。

「あの、その代わり、ひとつだけいいですか?」

 アリシアがか細い声で言葉を紡ぐ。何なりとお申し付けくださいという返答に、彼女は少しだけ迷ったように先を続けた。

「あの。私、これから差し出がましいことを言います」

 不思議そうな目を向けてくるトウマとアーサーに、アリシアは少しだけたじろぐ。

「その、数年前に出て行かれた息子さんが、近々ここに戻られると思います。それを、怒らずに迎え入れてあげて欲しいんです」

「どうしてそれを?」

「ご子息はトウマさんの跡を継ぎたくて、勉強のために都会へ行きたかったみたいですね。少し行き違いがあって、喧嘩別れをしてしまったようですが。今回の日照りでご両親が苦労されていることを知って、ご子息はお二人の力になるためにこちらに向かっているみたいなんです」

 アリシアの言葉を、トウマはただ黙って聞いている。

「その。もしかしたらわだかまりがあるかもしれませんが、ご子息を許して迎え入れてください。そうすれば、この宿は今以上に発展すると思います」

 トウマは驚いた表情をアリシアに向けた後、何かに納得したようにひとり頷いた。

「……力のある祈祷師さまにお会いできたこと、心から感謝いたします」

 深く頭を下げた彼の目元が、わずかに濡れているように見えた。しかし、それを確認する前に宿屋の主人は足早に部屋を出て行ってしまう。藍染の法被が翻る様子をぼんやりと見送って、アリシアはふっと緊張を解いた。

「なあ。さっきのは、法とやらに許してもらえたわけ?」

 足音が完全に聞こえなくなるのを待って、アーサーが口を開く。

「いいえ。特別祈らなくても、もともとこの旅館は持ち直せたんです。さっきのは、夢を確認していただけです」

「あんた、マジで寝てたのかよ」

 少しだけ恥ずかしそうなアリシアと、面白がっているアーサーの笑い声が重なる。

「明日には、ここを発つんですよね?」

「ああ、それなんだけど、少し早起きできるか?」

「ええ、何時くらいでしょう?」

 首をかしげて聞き返すアリシアに、アーサーはそうだな、と少しだけ考え込む仕草を見せた。

「ま、朝の四時くらいだな」

「はい、四時ですね」

 荷物は今晩のうちにまとめておいた方がいいかしら。出発が四時なら、宿のみなさんへの挨拶は……。頭の片隅で翌朝の段取りを組んでいたアリシアは、返ってきた言葉に一瞬思考を止める。

「四時⁉」

「早く寝とけよ」

「そっ……」

 そんなに早く出発してどうするんですか、という言葉を、アリシアはとっさに飲み込む。もしかしたら、アーサーにもどこか行きたい場所があったのかもしれない。

「わかりました。努力します」

 夜明け前に起きられるかしら。アリシアが不安そうに小声で呟く。

「お嬢」

 呼び声に視線を上げると、目の前に小さな板のようなものが放られる。メタルブルーのそれを受け止めようと、慌てて手を伸ばす。しかし、手のひらに弾かれた板は軌道を変えて、アリシアの額にぶつかってこつりと音を立てた。

「いた…」

 アリシアの膝の上に落ちてきた掌に収まるサイズの板はどうやら折り畳み式だったらしく留め具が外れ、くの字に開いていた。内側にはデジタル表記で示された時計の文字盤と、小さなボタンがいくつか並んでいる。ゼンマイ特有のかすかな音がしないことから、魔導式のものだとわかる。

「時計、ですか?」

 きょとんとするアリシアに、アーサーは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。

「おまえ、目覚まし時計も使ったことないのかよ?」

 アーサーは不思議そうな表情を浮かべるアリシアの手から小型のトラベルクロックを取り上げると、簡単な操作を行い、再びそれを返す。

「停止ボタン押せば止まるからな」

「えっ? て、停止……?」

「……右上のボタン。早く寝ろよ」

 戸惑うアリシアに短い言葉を掛けると、アーサーは襖で隔てた隣室へと足を向けた。

「あ、ありがとうございます」

 まるで壊れ物でも扱うように、両手で時計を握りしめる。微かな音とともに閉められた襖の向こうから、おやすみ、と短い声が返ってきた。




 青藍色の空の端に、三日月がかかっている。朝行く月。朝方の月の呼び名を、何かの書物で見た気がする。あれは、なんの本だったか。

 聞き慣れない電子音で飛び起きたアリシアは、障子の向こうに広がる光景に、小さく吐息を漏らした。

 水。空気。空の色。すべてが冷たい夜明け前。青い色彩に沈んだような世界は、まるで水の中にでもいるような錯覚を与える。

 隣の部屋から人の気配がし、少し遅れて明かりが灯る。障子越しのぼんやりとした明かりを見ているうちに、いつもより少しだけ掠れた声が耳に届く。

「お嬢、起きてるか?」

「はい、ばっちりです!」

 襖越しに、少し驚いた気配が伝わってくる。開けるぞ、という短い言葉と同時に、アーサーが顔をのぞかせる。

「ちょっと、アーサー。仮にもレディーの部屋なんですが……」

「仮、だろ」

 憎まれ口を叩きながら、彼はすでに一つに纏められたアリシアの荷物を持つと、足早に廊下へと出て行く。

「あっ、待ってください」

 しんと静まり返った廊下を通って、宿の入り口へと向かう。事前に話を通してあったのだろう。玄関先にはトウマとシノの姿があった。

「早くから、悪いな」

「いえ。この時間なら、きれいに見えると思いますよ」

 アーサーと短いやり取りを交わしたトウマは、アリシアに向き直ると深々と頭を下げた。

「アデル様。大変お世話になりました。お近くにいらした際は、またどうぞお気軽にお立ちよりください」

「こちらこそ、ありがとうございました」

 慣れない偽名に苦笑を浮かべながら、アリシアは丁寧にお辞儀を返す。アーサーはというと、別れを惜しむ素振りすら見せずにすたすたと歩き始めている。

「ちょ、アーサー」

 宿屋の主人に簡単に別れを告げてから駆け寄ると、緑色のピックアップトラックは早くもエンジン音を響かせていた。まだ少し寒さの残る空気の中、排気ガスが白い。助手席に乗り込むと、アリシアがシートベルトを締めるのも待たずに車は走り出した。

 新緑とはとても言えない、しおれた木々の葉の向こうに、少しずつ色彩を取り戻していく空が見える。星が一つずつ、光を消していく。その様子を見ているうちに、自然とあくびが出た。山道を辿る車の振動と、静かな空気。車内は適度に暖かくて、気が付けばうとうとと意識が遠のいていく。

 夢うつつに、母の姿を見た。

 生まれてからずっと過ごしてきた眠りの森。その白い木々の中に立ち尽くす、母の姿を。

 アリシアと同じ透き通るような金の髪が、静かに風に揺れた。

『大丈夫』

 彼女の声が、聞こえた気がした。

『大丈夫。あなたが思うより、世界はずっと醜いけれど、世界はずっときれいだから』

 きれいなものを、たくさんたくさん見ておいで。いつか聞いた言葉が、脳裏に甦る。

「……お嬢、起きろよ」

 不意に聞き慣れてきた声が耳に届いて、アリシアははっと目を開けた。いつの間にか車のエンジンは止まっていて、一足先に外に出たらしいアーサーが助手席のドアを外から開けたところだった。流れる川の水音が耳に届く。

「ここ、サクロサンクトですか?」

 呟くように口を開いたアリシアは、答えを待つこともせずに助手席から外へと走り出た。下草に降りた朝露が、革のブーツをわずかに濡らす。

 夜明け直前のサクロサンクトは、静寂の中に沈んでいた。控えめな水音と、時折木立を渡っていく風の音だけが、時間の流れを証明していた。徐々に明るさを増していく空。立ち込める朝霧が、辺りの雰囲気を神秘的なものに変えていた。

「おい、落ちるなよ」

 急に手を引かれて、水際まで駆け寄っていたアリシアは慌てて足を止める。つま先で蹴飛ばしてしまった小石が、澄んだ水音を立てて冷たい池に沈んだ。小さな声で囁いたお礼の言葉が、静けさに溶けていく。

「夜明け前のこの時間が、あの絵に一番近いんだとさ」

 アリシアの手を離して、アーサーが低く呟く。

 きれいだった。

 枯れかけていたはずの対岸の木々は深みのある緑色へと変わり、鏡のような水面がその風景を逆さに映し出す。風が朝霧を散らし、深い青に染まった世界が目に映る。エメラルドグリーンとも、コバルトブルーとも、緑青とも違う深い青。

 東の山間から太陽が昇り、光が弾け、鳥が一斉に歌い始める。陽光が差し込んで、肌がその熱を感じとる。

「見てください、アーサー。やっぱり、きれいな場所でしたよ」

 アリシアが笑顔を向けると、アーサーは何も答えずにただ微かな苦笑を返してみせた。


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