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深緑の森 4

 夜通し降り続いた雨は翌朝には弱まり、二人が朝食を食べ終わるころには薄日が差し始めていた。昨晩は締め切られていた雨戸はすべて開け放たれ、柔らかい日差しが窓辺を照らしている。シダ、松、稚児笹。ひどい渇きを耐え抜いた植物たちは多少色あせてはいるものの、大地を潤した慈雨に歓喜しているようにも見える。

「祈祷師さま。本日は、サクロサンクトに向かわれるのですよね?」

 食べ終えた朝食の膳を優雅な仕草で手際よく片付けながら、女将のシノが口を開く。少し驚いた顔をするアリシアに笑顔を返したシノは、お付きの方にお聞きしました、と告げる。

「ええ、とてもきれいな景色だとお聞きしたもので。修行中の身でありながら物見遊山だなんて、怒られてしまうでしょうか」

「とんでもございませんわ。恵みの雨を降らせてくださったんですから、ぜひごゆっくり堪能していってください」

「あ、どうも……」

 祈祷師と偽っていることが心苦しいのか、アリシアは少しばかりひきつった笑顔で言葉を濁す。

「少し距離がありますので、よろしければ今夜ももう一泊していってくださいね。宿代はこちらでお持ちしますから。お荷物も、そのままお預けいただいて構いませんので」

 女将はそう言うと両膝をついて丁寧に頭を下げ、部屋を後にする。すり足気味の微かな足音が遠ざかる。

「そんじゃ、ま、出かけますか」

 人の気配がなくなったのを確認して、アーサーが荷物に手を伸ばす。

「えっ、アーサー。荷物も持っていくんですか?」

 真顔で聞き返したアリシアに少しばかり冷たい目を向けて、アーサーがため息を吐く。

「人を信用するのは勝手だけど、何を盗まれても困らないってんなら置いてっていいぜ?」

 大きな鞄を引きずるようにして、アリシアは慌ててアーサーの後を追う。

「おや、もうお帰りになりますか?」

 宿の暖簾をくぐったところで、植栽の手入れをしていたトウマと鉢合わせる。二人の荷物を見て不安そうに問いかけてくる宿屋の主人に、アーサーは静かに首を振った。

「いや。一度ここに戻ろうと思ってる」

 その言葉を聞いて安心したのか、トウマはそれ以上の追及はせずに人当たりの良い笑顔で頭を下げる。

「どうぞ、お気を付けていってらっしゃいませ」

 水滴がわずかに残るピックアップトラックに乗り込む二人を、トウマは深々と頭を下げて見送った。

「あのおっさん、なんか下心でもありそうだな」

「下心…ですか?」

 ぬかるみを走る水音に、アーサーの声が重なる。言葉の選び方がどことなくとげとげしい。

「おおかた、雨乞い以外にも『祈祷師さま』にしてほしいことでもあるんだろ」

「商売繁盛の祈祷とか、将来のことを占ってほしいとかでしょうか」

「ま、そんなとこだろうな。面倒だからホイホイ引き受けんなよ」

「え、ダメですか?」

 なぜダメなのかわからない、とでも言わんばかりの表情で、アリシアがアーサーに大きな目を向ける。

「おま、ホイホイ引き受ける気だったのかよ。面倒ごとになっても知らねえぞ」

 呆れたように眉根を寄せたアーサーがため息を吐く。相手が極悪人だったらどうするんだ。そう言おうとした瞬間、アリシアの言葉が重なる。

「トウマさんは、悪い人ではなさそうですよ。生粋の商売人なので。今夜あたり、今後しばらくの天候への不安や商いのことを相談されるかと思います」

「今夜あたりって。的中率高めの夢占いってやつか?」

 アリシアは質問には答えずに、ただ静かに笑って見せた。




 小さな集落を出た車は、泥でぬかるむ林道を一度下り、山間を流れる渓流をぐるりと回り込む形で谷の反対側へと向かう。昨晩の雨で水かさが増しているのだろう。沢を横切る橋の真下を、茶色く濁った水が勢いよく流れていくのが見えた。

「この辺、だな」

 山道を辿っていたアーサーは、道沿いの少しばかり開けた場所に車を停めるとエンジンを切った。

 葉枯れした木々は生命力に溢れているとはとても言い難いが、長い乾きを耐え抜いた山々からは生き延びた命の気配を感じた。そこここで雨粒が光り輝き、鳥がさえずり、虫たちが声を響かせる。風に梢がざわめき、姿の見えない生き物たちが立てる葉擦れの音が重なる。まるで、歓喜の歌。

「ああ、ここです」

 道の先に広がっていたのは、いささか角ばった形の池だった。ウエストポーチから絵画の複写を取り出したアリシアが、対岸の様子を見比べて頷く。

 池と呼ぶには広いその水場は、枯れかけた木々と濁った水のおかげで茶の色彩ばかりが目立つ。絵画のような、神秘的な青とはかけ離れた色合いだ。魅力的とはお世辞にも言い難いその光景を、アリシアはただ静かに目に焼き付けている。

「綺麗か?」

 嫌味ともとれる言葉を、何の感情も込めずにアーサーが口にする。虚空に浮かぶように淡々とかけられた言葉は、何の感慨もなく静かにアリシアに伝わった。否定もなく、肯定もなく。だからアリシアは、静かに思うことを口にした。

「ええ、綺麗です。とても」

「……どこがだよ。ただの茶色いだけの水溜まりだろ?」

「ええ、そうですね」

 アリシアは対岸に目を向けたまま、静かに大きく深呼吸をする。

「知ってるか? この池、もともと人工的に作られたもんらしいぜ」

「そうなんですか?」

 興味深そうに、アリシアが振り返る。

「そこの川な、農業用水にするには水温が低いんだと。おまけに酸度が高くて作物には害になるらしい。水質や温度を調整するためには湧き水と混ぜる必要があったらしいぜ。そのために、人の手で作った池なんだとよ」

「ああ、それでこんなにきれいな四角形をしているんですね」

 納得した、と言いたげにアリシアが両手を合わせる。

「アーサー、よく知っていましたね」

「昨日、宿の下っ端に聞いたからな。ま、人工的に作った池なんざ、たいして感動もしないだろ」

「酸性だから、魚がいないんですね。触ったら溶けてしまうんでしょうか?」

 アーサーの言葉には答えずに水辺にしゃがみ込むと、アリシアはそろそろと水面に指先を近付ける。

「溶けはしないだろうけど、やめとけよ。落ちても拾ってやらないからな」

 好奇心に目を輝かせていた少女は、素っ気ない連れの一言に残念そうに立ち上がる。

 風が水面を渡って、アリシアの淡い色合いの髪をなびかせた。陽光を受けて白く輝く髪は、周囲の色彩に溶け込むことなく光を散らす。不意にペリドットのような瞳が細められ、アーサーに笑顔が向けられた。

「綺麗だと思いますよ」

「あんた、意地になってねえ?」

「いえ、今この状態の風景はあまり綺麗とは言えないんですけど。でも、あの絵の作者はこの景色を綺麗だと感じたんですよね」

 荒れ果てたサクロサンクトの風景にもう一度目を向けて、アリシアは言葉を続ける。

「深い青で描かれた、静かな風景画。あの絵を見たとき、私、ここは綺麗な場所だって思えていたんですよ」

 今が、どんな状態だとしても。

「だから、ここは綺麗な場所なんです」

「屁理屈だなぁ。そりゃ、ずるいだろ」

「この景色は、少し残念ですけどね」

 ガラス玉の目を細めるアーサーに、アリシアはいたずらを指摘された子供のように悪びれもせず笑ってみせた。

「戻りましょうか、アーサー」


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