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深緑の森 1

 夢の中のアリシアは、照り付ける日差しの中、わずかに残った水溜まりの縁に立っていた。

 本来ならば池と呼ぶには深く、けれど湖と呼ぶには小さすぎるはずのその場所は、長く続いた干ばつにすっかり干上がって文字通りただの水溜まりへと姿を変えている。ひび割れた地面が所々に顔を出し、わずかに残る水の中に生き物の気配はなかった。

 普段は7メートルほどの深さがある池の周囲にはカラマツの森が広がっているが、その葉は春の盛りだというのに黄色く変色してしまっている。

 枯れかけた森は、今にも崩れて消えてしまいそうに見えた。止まることなくまっすぐに死に向かって進んでいくような、そんな張り詰めた寂しさを感じる場所。

 辺りに生き物の気配はまるでなく、静けさがひどく寂しい気持ちにさせる。

 アリシアは眩しいほどに晴れた空に両腕を伸ばすと、水を、と祈る。

 彼女の願いに応えるように、雨粒の最初の一しずくがその頬を濡らした。




「実にいい朝だと思わねえ? お嬢さん」

 利用客がまばらな、宿の小さな食堂。窓際の席でブラックコーヒーをすすっていたアーサーは、足早に現れたアリシアを見るとにっこりと爽やかな笑顔を向けてきた。少し、怖い。

「お、遅くなってすみません」

「昨日よりはマシだな」

 ぺこぺこと謝るアリシアに座るよう向かいの席を示して、アーサーは自分の左のこめかみをとんとんと指先で叩く。寝癖がついてる、という言葉に、アリシアは顔を赤くして前髪を押さえつける。

 どうやっても元気に反り返る髪と格闘するアリシアの前に、出来立ての朝食が運ばれてくる。形の良いオムレツと彩り豊かなサラダ。パリッと焼かれたウインナーと真っ赤ないちご。しゃれた籠に入れられたクロワッサンやブール、バゲット。給仕係の男性に飲み物を聞かれ、アリシアは片手で寝癖を押さえたまま、紅茶を、と答える。

 熱いティーセットが用意されたところでアリシアは髪を直すのを諦めて、ちらりとアーサーを見る。

「どうぞお召し上がりください、お嬢さま。俺はもう済ませたからな」

「う、すみません」

 アリシアは小さな声でいただきます、と手を合わせると、バゲットにバターを塗る。

「あんた、やっぱ朝が苦手なわけ?」

 行儀悪くテーブルに肘をついたアーサーが、ライトブルーの目を向けてくる。

「け、けっしてそういうわけでは……」

 昨日。ゆっくりと昼食を食べた後、アーサーに案内されて向かったのは旅道具が一式揃う雑貨店だった。

 動きやすい衣類や疲れにくい丈夫な靴。保温魔法を使用した糸を織り込んだ寝袋。水筒や小型の魔導照明。有事の際も背負ったまま無理なく走れる、絶妙なサイズのバックパック。何もわからずにぼんやりとしているうちに、気が付けば旅に必要な荷物はアーサーの助言で完璧に揃えられていた。

 護身用ナイフを勧めてくるいかつい体形の店主とアーサーを最低限の攻撃魔法は使えるからと説得し、外に出たときには赤みを増した太陽が山の向こうへ沈んでいくところだった。

 これから向かう先は明日の朝決めようと約束し、前日と同じ宿で早めにベッドに入ったところまでは良かったのだが。

「アリーお姉ちゃぁん、起きて……」

 困り果てた声とともに小さな手に揺り動かされて、勢いよく身を起こす。少しばかり涙目になった宿屋の少女が、目を覚ましたアリシアを見て心底ほっとした表情を浮かべる。窓の外はすでに明るく、表通りを歩く人のざわめきが微かに聞こえてくる。時計を見るとちょうど約束した時間を三十分ほど過ぎたところだった。

「また、夢でも見てたわけ?」

 小さな口を小動物のように動かし、精一杯急いだのだろう。それなりに早いペースで朝食を食べ終えたアリシアが食後の紅茶でひと息ついたところで、アーサーは話を振る。

「あ、はい。すみません。夢に干渉すると、どうしても気力を使ってしまうのか目覚めが悪くなってしまって」

「ふーん。んで、今度は何の夢だったんだよ?」

「干ばつの夢でした。森がまるごと枯れてしまうような……」

「干ばつ、ねぇ」

 アーサーは右手を口元に当てると、そういえば、と呟く。

「ナノ地方でずいぶん長いこと渇水が続いてるらしいな。冬の間も雪が降らなくて、農地の被害が酷いそうだけど」

「実は私、そのナノ地方で見たいものがあるんです」

 エルシダ・ナノは、中央大陸のほぼ真ん中に位置する農業地域だ。深い山々に四方を囲まれた盆地に存在する六つの町から成り立っている。田畑ばかりが広がる田舎町という印象が強い一方で高原地帯はリゾート地として開発され、交通網も発達している。高地のため夏は涼しく冬は雪景色を楽しめることから、別荘を持つ貴族も多い。標高の高い山脈に囲まれているため雨が降りにくく、たびたび渇水被害に見舞われる地域でもあった。

「この絵、知っていますか?」

 アリシアはそう言うと、ウエストポーチから取り出した一枚の写真をアーサーに渡す。そこに映っているのは、水面に映る森林の風景を描いただけの絵。湖か、池か。エメラルドグリーンとも、コバルトブルーとも、緑青とも違う深い青の色彩。油彩とも水彩とも違う独特の画材で描かれたそれは、引き込まれるように静かな絵だった。

 しん、と。

 耳に届く音が、一瞬消えた錯覚がした。

「知らないな」

 きれいな絵だな。思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、アーサーは写真をアリシアに返す。

「モデルになっているのが、ナノ地方にあるサクロサンクトという池なんだそうです」

「ふーん。で、そこに行きたいって?」

 アーサーの言葉にアリシアは目を輝かせてこくこくと何度も頷いた後で、少し不安そうに聞き返す。

「遠い、ですか?」

「いや、半日もあれば十分だな。すぐ出発すれば、夕方には着くはずだ」

 そう言うとアーサーはカップに残ったコーヒーを飲み干し、椅子から立ち上がる。

「早く行こうぜ」

 背中越しに声を掛けられて、アリシアは慌ててその後を追った。


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