ローズ・ファウンテン
昼下がり。アルトローゼンの町は、ひどくのんびりとした雰囲気が漂っている。
「ん」
アンティークショップの店主に見送られた後、ピックアップトラックに戻ったアーサーはずっしりと重みのあるクラフトボックスをアリシアに差し出した。
「何ですか、これ?」
受け取った箱を開けてみると、中にはワックスペーパーで包まれたサンドイッチがぎっしりと詰められていた。ふわふわとろとろの卵サラダをたっぷり挟んだものや、新鮮な野菜とハムのオーソドックスなもの。いい匂いのする照り焼きチキンサンドや、ホイップクリームたっぷりのフルーツサンド。二人きりで食べきれるのか不安になるほど詰め込まれたクラフトボックスはまるで宝石箱のようで、見ているだけで楽しくなる。
「昼メシにしようぜ」
言葉と共に、横からアーサーの手が伸びてくる。アリシアは慌てて蓋を閉めると、開けられないように箱を抱え込んだ。
「おーい。何してるんだよ、お嬢さん」
「ダメです! こんな美味しそうなものを移動の片手間に食べるなんて、サンドイッチに失礼です!」
「はぁ?」
「お天気もいいですし、どこかでピクニックにしませんか? アーサーはこの町、詳しいんですよね?」
「別に、どこで食ったって同じだろ。旅支度もしなきゃいけないんだぜ?」
そう言いながらも、アーサーは何かを考えるように窓の外に視線を向け、まあいいか、と呟く。低い音を立ててエンジンがかかり、車はゆっくりと走り出す。
鳥のさえずりと柔らかい日差し。吹き抜けていく心地いい風。そこに混じる、かすかな花の香り。
辿り着いた場所は、午後の日差しが降り注ぐ庭園だった。
レンガ造りの塀とずっしりとした印象の黒い門。開かれた入口のすぐそばに車を停めたアーサーは、外側から助手席の扉を開くと静かに手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
その手の平に右手を重ねようとするアリシアに向かって、アーサーは違うと言わんばかりに首を振った。
「我々の昼メシをお持ちいたしましょう、お嬢さま」
「なっ……」
思わず言葉に詰まる。嫌味のひとつでも言ってやろうとするものの、相手を言い負かせる言葉が思い浮かばない。しかたなくアリシアは、無言のままサンドイッチの箱を差し出した。悔しそうな表情を浮かべる彼女から片手で箱を受け取ると、アーサーはおかしそうに笑いながら空いた手でアリシアの手を引いた。
「アーサーって意外と意地悪ですよね」
「否定はしない」
門の先には大型のガーデンアーチが置かれ、色とりどりのバラがトンネルを作っていた。アルトローゼンがバラの町だということに、アリシアはようやく気付く。
「わあ……」
アリシアはアーサーの手を離すと、少しばかり重苦しい雰囲気の黒い門を通り抜け、アーチをくぐる。一瞬だけ空を隠す花のトンネルと高い塀のおかげで、まるで別世界に入り込んだような錯覚に陥った。
タイル敷きの遊歩道が奥へと続き、そこかしこにさまざまな品種のバラが植えられている。正面には小さな噴水があり、その周囲を真っ白なバラが囲んでいるのが見えた。派手な装飾やオブジェがないシンプルな噴水は、太陽の光に照らされて水場全体がエメラルドグリーンに輝いている。絶え間なく流れる水音が耳に届き、涼しい風が吹き抜けていく。
晴れた午後だというのに人の姿はなく、まるで秘密の楽園に迷い込んだような気分になる。
「素敵……」
「そうかぁ?」
幻想的な思わず呟いたアリシアを追い越して歩きながら、アーサーは首をかしげる。
「すごくきれいじゃないですか。まるでおとぎ話の中みたいです」
「ほう?」
ローズガーデンの片隅に作られた東屋。しゃれたデザインのワイヤーベンチにどっかりと腰を下ろしながら、アーサーは気のない返事をする。
「けど、バラって意外と虫……」
「やめて!」
「蛾の幼虫とかが……」
「やめてください!」
水辺に咲き誇っていた真っ白なバラに手を伸ばそうとしていたアリシアは、慌てて手を引っ込める。アーサーはけらけらと笑って、早くメシにしようぜ、と手招きをした。
「アーサーって、けっこう意地悪ですよね」
「否定はしないって」
白く塗装された東屋の柱にはピンク色のつるバラが巻き付き、青々と葉を茂らせている。大輪の花はとても美しいのだが、つい葉のほうに意識が向いてしまう。
「純粋にきれいだなんて、思えなくなっただろ?」
大人が三人ほど、ゆったりと座れそうなワイヤーベンチ。真ん中に置かれた昼食を囲むように反対側に座るアリシアに、アーサーが意地悪く問いかける。
「そんなこと……」
「安心しろよ。定期的に害虫駆除剤を撒いてるらしいからな」
犠牲の上に成り立ってんだよ。そう、言われた気がした。
「ほら」
短い声とともに、アリシアの目の前に未開封のボトルを差し出される。ハッとして受け取ると、紅茶のラベルが目に入った。
「ありがとう、ございます」
「温かいやつのほうが良かったか? それしかないから、悪いな」
「いえ、大丈夫です」
キャップを回すとレディグレイのさわやかな香りが鼻先をかすめた。ボトルに施された保冷魔法のおかげで、中身は良い具合に冷えている。アリシアはすっきりとした味わいの紅茶と一緒に、どこかもやもやした気持ちを飲み下す。
「ゆっくり食ってくれ」
ブラックコーヒーのボトルを煽りながら、アーサーが言う。アリシアは勧められるままに、箱の一番端に入れられていたクラブハウスサンドを小さくかじる。軽くトーストしたパンにレタスとベーコンの食感が合わさる。シンプルな味付けのグリルチキンに添えられたマスタードが程よいアクセントになって、思わず頬が緩んだ。アーサーはまるで小さな子どもでも見るように、優しく目を細めた。
「すごくおいしいです。ありがとうございます、アーサー」
「おう」
短い返事の後、二人は無言のまま食事に集中する。時折吹く風の音と水のせせらぎ。遠く聞こえる、町の喧騒。不思議と気まずさはなく、落ち着いた時間がゆっくりと流れる。
クラフトボックスが空になったころ。アリシアがサンドイッチの最後のかけらを食べきるのを待って、アーサーがぽつりと口を開いた。
「あんた、夢を見たって言ったよな」
「昨夜の、ですか?」
アリシアの言葉を肯定も否定もせず、アーサーは何を言うべきか迷っているように慎重に言葉を並べていく。
「隠しナイフに気を付けろって言っただろ。あれは、どういう意味だった?」
「えっと。そのままの意味、なんですが……」
「俺が店に戻ったとき、怪我がないか聞いただろ。あれは、俺が怪我するような可能性があるってわかってたのか?」
アリシアは小さく頷く。
「あの。少し、私の話をしてもいいでしょうか」
そう言ってボトルに残っていた紅茶を一口飲むと、ゆっくりと続ける。
「私が、贄の一族の人間だって話はしましたよね。ただ、アーサーに伝えていないことがまだあるんです」
アーサーは口を挟んだりせず、ただ頷いて話の続きを待っている。
「私は、次の贄。夢の守り手に選ばれた人間なんです」
「……うん、続けてくれ」
アーサーはわずかに目を見開いたものの、それ以上の反応はせずに先を促す。
「アーサーも、夢の名残の昔話を聞いたことがあると思います。神の寵愛を受けて、夢を操る力を授かったアーデルハイト・ヘイワードが贄となることで世界を救ったという物語。あれ、世間では一族の中にときどき同じ力を持つ人間が生まれるって言われているんですけど、本当は違います。贄になる前に、次の贄を選んで力を託しているんです」
世界が途絶えてしまわないように。次の誰かが、夢を見続けるように。
「力を託された人間は、未来の夢を見るんです。そして、夢に干渉することでその未来を変えられるようにもなるんです」
「それで、俺に関する不謹慎な夢を見たから、あんな助言をしたと」
静かに頷いたアリシアに、アーサーは不思議そうな表情を向ける。
「けど、ナイフなんて出てこなかったぜ?」
「やっぱり、危ない場所に行っていたんですね⁉」
アリシアの大きな目が気遣わし気に相手に向けられる。そこはどうでもいいだろ、と呟いて、アーサーが一瞬視線を逸らす。それから、短い髪をくしゃくしゃと掻き上げながらため息を吐く。
「……日銭を稼ぐために、たまに傭兵まがいのことをしてるだけだよ」
アーサーの生き方に、口を挟む権利はない。アリシアは何も言わずに言葉の続きを待った。
「そこらのごろつきと揉めた。ただ、ナイフなんて出てこなかったんだよな。そいつ、まるで直前まで持ってたはずのものが急に消えちまったような動きをしててさ」
狭い路地裏。相手は六人。そのうちの五人をあっさりと昏倒させた後、少しだけ油断をした。その一瞬の隙に相手は腰のあたりから何かを取り出そうとし、その直後、慌てた様子でシャツの上から何かを探り始める。一拍遅れて危険を察したアーサーが、相手の顎を蹴り上げた。
崩れるようにその場に倒れ込んだ男の服を捲り上げると、腰のあたりに付けられたナイフのホルスターが見えた。けれど、肝心の武器はどこにも見当たらない。その瞬間、アンティークショップに残してきた少女の言葉を思い出した。
「あれ、あんたがやったのか?」
アリシアがおずおずといった様子で、遠慮がちに頷く。
「はい。私の見た夢の中では、アーサーが刺されていて。守ってほしいと願ったんです。ヨハンさんから指輪を預かったのも、この先アーサーや私を守る力になってくれると感じたからです」
アリシアの言葉に、アーサーは納得したように無言のまま何度も頷いた。そして、ふと思い至ったように怪訝そうな表情をアリシアに向けた。
「……もしかして、だけど。昨日あんたが俺に声を掛けてきたのも夢が関係してたりする?」
アリシアはどこか気まずそうに答える。
「その。実は、ずっと旅立つ勇気が出ずにいたんです。でも少し前から繰り返し、あなたと世界中を旅する夢を見るようになって。なかば思い付きみたいな感じで、教団を飛び出してきてしまいました」
えへへ、と苦笑を浮かべるアリシアを見て、アーサーは振り回されている教団関係者にほんの少しだけ同情する。
「私の話はしましたので、次はアーサーの番ですよ」
「あ?」
「アーサーのことも聞かせてください」
「俺のことはいいんだよ」
アリシアの言葉にアーサーは表情を消し、短く言い放つ。
「だいたい、夢に出てきたなら俺のことも知ってるだろ。店でもヨハンからいろいろ聞いたんじゃねえの?」
笑顔が消えたアーサーの顔は、彫刻のように整ってきれいだ。けれど、どこか冷たい。
「いえ。夢ではアーサーが何を考えているのかはわかりません。ヨハンさんからも、育ての親になったことくらいしか聞いていません」
知ろうと思えば、できるだろう。アリシアが望めば、彼の過去を夢の中で追体験することはたやすい。けれど、そうしたいとは思えなかった。今後、長い付き合いになるであろうアーサーのことは、彼自身の口から聞きたかった。
「そんだけ知ってりゃ十分だろ?」
「だめですよ。私はアーサーのことをもっと知りたいです」
アーサーはどこか寂しそうに笑うと、俺のことはいいって、と繰り返す。
「あ、じゃあお互いの一番大切なものを教え合うのはどうですか?」
アリシアは名案だとでも言わんばかりに瞳をきらめかせ、今日のところは、と付け加えた。
「大切なものォ?」
「ほら、私たち賭けをしているじゃないですか。世界はきれいかどうかって。お互いに、一番大切にしているものを賭けようって言っていたの、覚えてます?」
「……あー」
そういえば、そんなこと言ったな。小声でぼそりと呟くアーサーに、アリシアが少し呆れた表情を向ける。
「アーサーが言ったんですよ?」
「そうだけど。俺は別に、大事にしてるもんなんてないしな」
アーサーは口元に手を当ててしばらく考え込むと、そうだな、と呟く。
「強いて言うなら、俺の人生だな」
「重くないですか⁉」
「一番大切なものなんだから、仕方ないよな。俺が負けたら、あんたのお付きにでもなんでもなってやるぜ、お嬢さま」
「言い方が軽くないですか⁉」
アリシアの言葉に、アーサーはこらえきれなくなったようにくくっと笑う。
「そういうあんたは?」
「私ですか? 私は……」
一番大切?一番大切。一番大切………。
アリシアはぶつぶつと同じ言葉を繰り返しながら目を閉じて考え込む。
「おい?」
「……は、一番じゃないし……」
「おーい?」
「いや、でも。………のほうが……」
「聞こえてるか?」
耳打ちでもするように至近距離で声を掛けられて、目を閉じて考え込んでいたアリシアはびくりと飛び上がる。
「大変です、アーサー。私、なにもかもみんな大切すぎて、一つに絞れません」
「一つにしてくれ」
アーサーの言葉に、でも、と俯いたアリシアだったが、次の瞬間何かを閃いたように勢いよく顔を上げた。
「それなら私、この世界の未来を賭けます!」
「はぁ?」
「この世界が汚いって、くだらないって思ったら私、贄としての役割を放棄します!」
「おい、俺より重てえよ。俺が勝ったらだめなやつ」
呆れたように言うアーサーに、アリシアはどこか挑発的な笑顔を向ける。
「そうですよ、この勝負には、今から世界の未来がかかっているんです。それで、この綺麗な庭園はどうですか?」
アリシアは両手を広げてバラの咲き誇る午後の庭園を示す。アーサーはやれやれと言った様子で肩をすくめると、ゆっくりと首を振った。
「ま、大したことないな」