ブルーダイヤモンド
その日、夢を見た。
辿り着いたばかりの石畳の町。宿屋が軒を連ねる大通りから離れた薄暗い路地裏。両脇を高い建物に挟まれ、人がすれ違うのもやっとというその場所に、彼は立っていた。
琥珀色の短い髪が、吹き抜けた風にわずかに揺れる。
彼の行く手を阻むように、そして、退路を断つように、屈強な印象の人影がいくつか見えた。腰に下げた長剣や銃がわずかに届く日の光を反射する様子に、途端に息が詰まるような感覚がした。
逃げ場を失くした青年は、前方を塞ぐ男の一人と二言三言会話を交わす。その口元が笑みの形になった瞬間、前方を取り囲んでいた男達が二人、剣を振りかざして青年に襲いかかった。
しかし、彼はすぐ脇に積まれていた木箱の山を足掛かりにして宙に飛び上がった。息を合わせたように同じタイミングで振り下ろされた剣先が、古びた木箱を粉々にする。その破片に紛れた青年は、一人のこめかみを蹴りつけて昏倒させる。それとほぼ同時に別の男の襟首を掴むと、後方で銃を構える三人の男に向けて投げ飛ばした。そのまま勢いを殺さずに体の向きを変えた青年は、残る一人のハンドガンを蹴り上げる。
ほんの一瞬で辺りを制圧した青年が、体から力を抜いた。
次の瞬間、正面に立っていた男が勢いよく右腕を突き出す。
いつの間にか握られていた隠しナイフが見えた瞬間、アリシアは短い叫び声を上げた。守って、と。その声に応えるように、唐突に淡い青の宝石がきらめくイメージが脳裏に浮かんだ。
「……で?」
深緑色のピックアップトラックの運転席。そこにどっかりと座った青年は品位のかけらもない仕草でだらしなくハンドルに顎を乗せ、ライトブルーのガラス玉のような目だけを助手席に向けてくる。少し緊張した面持ちで隣に座ったアリシアは、苦笑まじりに質問を返した。
「えっと。怒っていますか、アーサー?」
申し訳なさそうにすみません、と付け加えたアリシアから視線を逸らして、アーサーは少し拗ねたような口調で返事を返す。
「べつにぃ。怒ってるわけじゃありませんよ、お嬢さま」
彼の機嫌を損ねてしまった原因は、旅慣れないアリシアにある。
旅に出たというのにまともな旅装を整えていなかった彼女に、まずは旅支度をと提案したのはアーサーだ。贄の町、フォレ・ブランシュを出発して手近な宿場町、アルトローゼンに辿り着いたのは、月がすっかり昇ったころ。まずは宿を取り、明日改めて必要なものを揃えようという約束をして、それぞれ別々の部屋で休むことにした。まではよかったのだが。
アリシアにとっては初めて出た町の外。辺りを照らす月の明るさや、控えめに光る星々。時折ほろ酔いで見知らぬ通りを歩いていく人の話し声や、夜風の心地よさ。目に映るもの、耳に届くもの、すべてに心を躍らせて、そろそろ休まなくちゃと我に返ったのは一面に輝いていた町の明かりが少なくなってからだった。布団に入った瞬間に、それまでまったく気が付かなかった疲労感が押し寄せて、気が付けば深い眠りの中だった。
「お姉ちゃん、起きて……」
控えめな言葉とともに体を揺さぶられ、慌てて目を開けると、まだ幼い宿屋の娘が今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「お、お兄ちゃんがっ、早く起きろって……」
薄いカーテン越しに差し込む日差しが、短い影を作っている。今が何時かはわからずとも、約束だった朝食の時間はとっくに過ぎていることを瞬時に悟る。
開け放たれた扉の向こう。廊下の壁に背中を預けて腕組みをしたアーサーが、アリシアににっこりととても良い笑顔を向けて来た。
先に車に行ってる、という言葉に、慌てて身支度を整える。外は雲一つない晴天で、宿の帳場に掛けられた飾り時計が、昼が近いことを告げていた。
「あんた、寝起きが悪いタイプ?」
助手席に乗り込んだアリシアに、アーサーは少し棘のある言葉を向ける。
「けっしてそういうわけではないのですが、昨夜はいろいろとありまして。夢を、見ていて……」
「は?夢?」
「はい、夢……」
けれど、顔を赤くして言いよどむアリシアに、アーサーは押し殺したように笑った。
「なんでもいいけど。ただ、野宿のときはきっちり起きろよ、お嬢さま」
危ねえからな。それだけ言うとアーサーはギアを操作し、車をゆっくりと走らせる。近ごろではほとんど見かけない、マニュアルトランスミッション。
「あの、まずはどちらに?」
好奇心に満ちた目で過ぎていく町並みを眺めながら、アリシアが問いかける。
けして小回りが利くとは言い難い車は、小さな田舎町の細い路地裏を抜けていく。低いエンジン音が響いて、通行人が次々に振り返る。珍しいのだ。自動車も徐々に普及し始めているとは言え、移動には辻馬車を利用するのがまだまだ当たり前のこのご時世。車を所有しているのは軍やギルドといった団体か、貴族くらいのものだろう。
慣れた様子で運転席に座っている青年の素性をまだ聞いていないことにアリシアが気付いた瞬間、言葉を封じるようにアーサーが先に口を開いた。
「まずは、金を何とかしようぜ」
「あっ、はい。これの出番ですね」
アリシアがウエストポーチから貴金属の入った革袋を取り出すと、隣から大きなため息が聞こえた。
「おーい……。そうやって金目の物をすぐに見せびらかすのは危ないからやめろよ、お嬢さま」
「お嬢さまじゃ、ないです」
取り出そうとしていた財布をそのまま戻しながら、アリシアはしょんぼりと肩を落とす。
石畳の道を行く車は、ゴトゴトと心地いい振動を体に伝える。車窓から見える町並みに目を向けていたアリシアは、道の脇に立てられた小さな掲示板に気付く。遠目には詳細がわからない掲示物に混じって、指名手配犯の人相書きが見えた。
「……あの」
「ん?」
遠慮がちに声を掛けると、運転席に座る青年は視線を前方に向けたまま反応を返す。
「アーサーは、警備兵……みたいなお仕事をされているんですか?」
「あぁ?」
突飛な質問だったのだろう。アーサーは、不思議そうな表情を助手席に向けた。
「何で警備兵。俺に正義感なんて微塵もないぜ?」
その言葉に、アリシアは慌てたように首を振る。
「すみません、おかしな質問をして。ただ、素性も告げていない私を助けてくれましたから……」
「ただの気まぐれ」
アーサーは訝しげな視線をアリシアに向けたあと、俺の話はいいんだよ、と小さく呟いた。無言になった車内に、ゴトゴトという振動音だけが響く。大きく開けた窓から吹き込んでくる風が、微かにバラの香りを運んできた。
「でも私、夢を見たんです。アーサーが、悪人を捕まえようとしていて、怪我をする夢」
「へいへい。そりゃ、嫌な夢だな」
話の続きをしようとアリシアが口を開いた瞬間、遮るようにアーサーが言葉を被せてくる。
「念のため顔、隠しとけよ」
細く入り組んだ道を辿ったアーサーは、一件の店の前で車を停めた。住宅の立ち並ぶ一角。周囲の生活感から切り離されたようなその店は、一見するとおしゃれなカフェのように見える。品よく並べられた素焼きの鉢と、ラティスフェンスに巻き付く淡いピンクのバラ。年季が入って黒く色が変わった樫の扉。その上に掲げられた古い木製の看板には、金字で『フライハイト』と店名が書かれている。
扉の脇にある小窓からは、家具や室内装飾品がセンス良く並べられているのが見えた。アンティークショップだ。
アーサーは慣れた様子で扉を開け、すたすたと中へ入っていく。しゃれた外観に夢中になっていたアリシアは、象牙色の外套のフードを深く被ると慌ててその後を追った。
静かな店内は、雑多な物で溢れていた。重厚感を漂わせるクローゼットや使い込まれて飴色に変色したテーブル。壁一面に掛けられた、数々の時計。一目で名品とわかるアンティークドールや巨大な手回しオルゴール。ガラスケースに入れられた、きらびやかな宝飾品。
店の奥。黒檀で作られたカウンターの向こうに、人影がひとつ。真っ白なシャツに落ち着いた茶褐色のベスト。白髪まじりの髪をきれいに整えた初老の男性は、店の扉が開いた音にも反応せず、目を閉じている。カウンターの上には一匹の黒猫が陣取っていて、客が来たことを告げるように一声鳴いた。
「やぁ、いらっしゃい」
その鳴き声にようやく目を開けた老人は、アーサーの顔を見るなりにっこりとほほ笑んだ。顔に刻まれた皺が深くなり、どことなく温かい印象を与えている。
「アーサー、久しぶりだね」
「じいさん、ぼけっと昼寝か?」
見知った仲だったのか、アーサーは店主と親しげに挨拶を交わし合う。元気だったかい、というやり取りの後、店主の目がアリシアに向けられた。
「そちらのお嬢さんは?」
「依頼人。宝石の鑑別を頼む」
「そうでしたか。わたくし、古物商を営んでおりますヨハンと申します」
丁寧な言葉と所作で頭を下げられ、アリシアもたどたどしく名前を告げた。アーサーは顎でポーチの中身を出すようにアリシアに合図する。もたつきながら小さな革袋を差し出すと、中身の量に驚いた店主がカウンターの引き出しから年季の入った眼鏡を取り出す。
「少し、くつろいでお待ちいただけますかな?」
そう言うと、ヨハンと名乗った店主は店の隅に置かれたテーブルを示す。促されるままに座ると、コーヒーはお好きですか、とやさしい声が問いかけてくる。
「悪い、俺は少し外すわ。カフェオレにしてやってくれ」
それだけ言うと、アーサーは店の出口へ向かって歩き出す。
「えっ。アーサー、どちらへ?」
アリシアが不安そうな表情で問いかける。野暮用、という短い答えだけが返ってくる。扉が開いて、柔らかい春の日差しが店内に差し込んでくる。その背中が昨晩の夢と重なって、アリシアは慌てて彼の名前を呼んだ。アーサーが肩越しに振り返る。
「あのっ…。隠しナイフに、注意してください」
「はぁ?」
色の薄い彼の目が一瞬だけ不審そうに細められる。しかしアリシアの不安そうな様子に呆れたように肩をすくめると、アーサーは心配するな、と言葉を返す。
「すぐ戻るから、いい子で待ってろよ」
樫の扉がわずかな軋みを立てて閉まった。残されたアリシアの前に、真っ白なコーヒーカップが置かれる。香ばしい香りが店内にやさしく広がった。
「お嬢さんは、アーサーの仕事をご存じでしたか」
どことなく含みのある言い方をした老人に、アリシアは大きく首を振って見せる。
「あ、いえ。実はまだ何も知らないんです」
「おや、そうでしたか。私はてっきり……。いえ、何でも」
ヨハンは少し不思議そうな顔で言葉を濁した後、少しお時間を頂戴します、と言い残してカウンターの向こうに戻っていった。
やがて、店内には静寂が広がる。店主がペンライトやルーペを置く微かな気配と、時折聞こえる深い感嘆の息。革張りの椅子が立てる、わずかな軋み。壁一面に掛けられた無数の時計が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。店主の邪魔をしないよう、身じろぎ一つせず滑らかなテーブルの木目を見つめていたアリシアだったが、時間が経つにつれて目の前のコーヒーカップが気になり始めた。
どうしよう。手も付けないまま冷めてしまったら、失礼にあたるのかしら。
彼女は作業に没頭する店主をちらりと見た後、意を決したように真っ白なカップに手を伸ばした。物音を立てないよう細心の注意を払いながら、ソーサーからカップを持ち上げる。社交界に出る前にマナーを学ぶという貴族のご令嬢は、きっととてつもない努力をしているんだわ、と感服した瞬間だった。
「にゃあ」
突然足元から声が聞こえて、心臓が跳ね上がる。驚いた拍子に手が震えて、薄い茶色の水面が大きく揺れた。
「…っ!」
音もなく近づいてきた黒猫と、値段を聞きたくもない上品な家具を汚さなかったことを褒めてほしい。
足元から何食わぬ顔で見上げてくる可愛らしいいたずらっ子を叱るように、精一杯怖い顔を作って見せる。
アリシアは額に浮いた冷や汗を左手で拭うと、これ以上邪魔が入らないうちに急いでカップに口を付けた。ほんのりとした甘みが口の中に広がり、後からチョコレートのようなほろ苦い香りが鼻に抜けていく。
「わ、おいしい」
思わず言葉が漏れてしまい、慌てて顔を上げる。にこにことやさしい笑顔を向けてくるヨハンと目が合い、途端に顔が熱くなる。
「す、すみません。お邪魔ですよね」
「お口に合ったようで、幸いです」
もうしばらくお楽しみくださいね、という言葉に相槌を打つように、猫が再び鳴いた。
コツ。
ひときわ大きな飾り時計が針を進めたのを合図に、壁の時計が一斉に歌い出す。正午だ。思い思いに曲を奏でた時計たちはやがて静かになり、秒針の音だけがリズミカルに耳をくすぐる。
無事に空になったコーヒーカップは静かにテーブルの上に戻され、黒猫は窓際の陽だまりで丸くなっている。一度だけ初老の女性がやってきて店内を一回りしたけれど、何も買わないまま帰っていった。
「お待たせいたしました、お嬢さん。査定が終わりましたよ」
陽だまりでまどろむ猫を見ているうちに、ついうとうとしていたらしい。ヨハンの声に、アリシアははっとして姿勢を正す。黒いスエード調のジュエリートレイを三つ重ねて運んできた店主は、アリシアの向かいに静かに座った。
「まず、買い取りが可能なものがこちらです。これはアーサーが戻ってから詳しくご説明いたしましょう」
一番上に置かれたトレイを脇に除け、ヨハンは二段目のトレイをアリシアの前に置いた。そこには、手当たり次第に持ち出してきた宝飾品の中でも、とくに思い入れの深いものが数点並んでいる。いなくなった母が最後に残してくれた形見のブローチも、トレイの真ん中に置かれていた。
「こちらは、買い取りができないものです」
「それは…、価値がないということ、ですか?」
アリシアがどこか悲しそうに問いかける。ヨハンはその言葉に、静かに首を振った。
「いいえ。宝飾品としても、美術品としても大変価値のあるものです。ただ、世に出してはいけないもの、と申しましょうか……」
言い淀んだヨハンはアリシアのペリドット色の目をまっすぐに見つめ、言葉を続ける。
「アリシア様。あなたは教団の……。いえ。アリア様の血縁者ではありませんか?」
思いがけず母の名前を耳にして、アリシアは表情をこわばらせる。その様子を肯定と受け取ったのか、ヨハンは一人頷いた。
「アリア様が守り手となられて、ずいぶんと経ちました。彼女は、ご健勝でいらっしゃいますか?」
守り手。夢の守り手。それは、夢の名残の贄となった者の称号だ。この世界のために、いなくなった者の。
「母はもう、この世には……」
言葉を濁すアリシアに、店主は柔らかい笑顔を向けてくる。
「ご息女でいらっしゃいましたか。贄とはなられても、思念は残っておいででしょう。今はまだ、アリア様の作られた時代ですから」
贄の一族。夢の守り手は、白い森で眠り続ける。公には贄となった者が森に埋葬されているという伝わり方をしているけれど、実際には少し違う。贄となった後もその想いは眠りの森に残るのだ。長い夢が終わり、世界が消えるその日まで。贄の思念が消える前に新たな贄が夢の守り手となることで、世界は連綿と続いていく。
それは、教団関係者の中でもほんの一部の者だけが知っている事実。それを、なぜ目の前の老店主が知っているのだろう。
わずかな不信感が表情に出ていたのだろう。ヨハンは苦笑を浮かべて口を開いた。
「実はアリア様がご健在のころ、何度かお会いしたことがあったものですから。当時は私もしがない旅の商人でした。贄の町に立ち寄るたびに、土産話や珍しいものをせがまれたものです。そちらにあるガーネットのブローチも、私が仕入れたものですよ」
懐かしい記憶に思いを馳せるように少しの間目を閉じたヨハンは、手袋を嵌めた手で小さなブローチを持ち上げる。オーバルカットのガーネットを取り囲むように銀細工の花があしらわれた、美しいブローチ。窓から差し込む柔らかい日差しが、ワインレッドの宝石をきらめかせた。
「いつか娘ができたら、これを譲り渡すのが夢だと……」
言葉に詰まったようにヨハンは言葉を区切り、ほんの一瞬目頭を押さえると、ブローチをトレイに戻す。
「ともかく、こちらの品々は教団にゆかりのある代物ばかりです。下手に売りに出せば入手の経路を疑われる可能性がありますので、失くさずに持っていたほうがよろしいでしょう」
すっかり物置と化していた神殿の自室から目につくかぎり価値のありそうなものを拝借してきたが、中には教団の紋章が刻まれたものや、歴史的価値が高い物もあったらしい。アリシアは母の形見を売らずに済んだことに安堵しながら、返された宝飾品を丁寧にポーチにしまった。
「ときに、アリシア様。アーサーのことは、どの程度聞いておられますか」
「アーサーのこと、ですか?」
どの程度、と口に出してからアリシアは苦笑を浮かべ、深く被ったままでいた外套のフードを取り去った。素性を知られてしまった以上、顔を隠す必要はない。それに、アーサーの話はきちんと聞かなくてはいけない気がした。
「実は、昨日出会ったばかりなんです。神殿を抜け出して世界を見に行きたいと言った私を助けて、旅の護衛も引き受けてくれることになりました。でも、お互いに詳しいことはまだ何も話していなくて」
「おや。そうだったのですね」
アーサーが、出会ったばかりで護衛を。ヨハンはどこか面白そうに呟くと、アリシアに笑顔を向ける。
「きっと貴女か、貴女の見ようとしているものが興味を引いたのでしょう。本来なら彼は、あまり深く他人に関わろうとはしないのですがね」
「そう、なんでしょうか」
アリシアはぼんやりと、ライトブルーの瞳を持つ青年のことを考える。気さくで接しやすい人柄とは裏腹に、人との繋がりに対して絶対に踏み越えない一線を引いているような、そんな印象を抱いていたことを自覚する。彼のことをよく知りたいと思う。けれどその一方で、今アリシアが何を聞いてもはぐらかされてしまう予感を抱いた。友好的で、排他的。
「アーサーはもともと孤児でしてね。私が引き取って面倒を見ていたんです。生きていくための知識も愛情も、必要なものはすべて与えて来たつもりでした。ですが、独り立ちしてからの彼は賞金稼ぎや傭兵といった生き方ばかりを選ぶようになってしまいまして……」
どこか寂しそうに言ったヨハンは、アリシアの顔をまっすぐに見つめた。
「アリシア様。一つ、お願いがございます」
「お願い、ですか?」
ヨハンは静かに頷くと、手元に置かれた三つ目のトレイをアリシアに差し出した。トレイの上には、きれいに磨かれた指輪が一つ乗っている。シンプルなデザインの銀の指輪はやや細身ではあるがサイズが大きく、男性用のものだとわかる。その指輪の内側に、薄い青の宝石が埋め込まれている。それを見た瞬間、明け方の夢を再び思い出した。
「これ、魔石ですね。とても強い守護の魔法がかけられています。素材は、アクアマリンでしょうか?」
魔石には二つの種類がある。一つは自然界の魔力が結晶化したもの。もう一つは、人工石や天然の石などに特定の魔法やまじないを吹き込んだもの。ヨハンが差し出してきたのは後者で、所持している者が危険に晒されると守護魔法が発動する仕組みになっている。
「ひと目でおわかりになるとは、さすがでございます。はめ込まれているのは天然のブルーダイヤモンドですね」
「人工ではないブルーダイヤは初めて見ました。かなり希少なものですよね」
「ええ。実は、これをアリシア様に持っていていただきたいのです」
そう言うとヨハンは、男物の指輪に銀の鎖を通してアリシアに差し出した。
「だっ、だめです! こんな高価なもの、どうお支払いしたらいいか……」
「お代は要りませんよ。貴女に差し上げたいのです。というより、これはもともとアーサーのために作らせたものでしてね」
アリシアからも内側がよく見えるように指輪を傾けながら、ヨハンは苦笑を浮かべる。シークレットストーンの隣には、筆記体で幸運を祈る言葉と、Aのイニシャルが彫り込まれていた。
「ただ、彼はどうしても受け取ってくれなかったんですよ。なので、できることなら貴女に持っていていただければと思いまして。邪魔になるようでしたら売っていただいても構いません。どのような形でも、いつか、どこかで旅の役にも立つでしょうから」
「……じいさん、まだそんなもの持ってたのかよ」
ヨハンの言葉に重なるように、背後から声がした。慌てて振り返ると、いつの間に入ってきたのか呆れた表情のアーサーが立っていた。
「アーサー! お怪我は、ありませんでしたか?」
どこか不安そうな様子で言葉をかけるアリシアに、アーサーは片手を上げて身振りで大丈夫だと答えた。
「そんなもんいらねえって言っただろ。売って生活の足しにでもしろよ」
少し素っ気ない言葉に、ヨハンは苦笑を浮かべる。その表情はどこか寂しそうに見えた。軽口をたたくアーサーも笑顔を浮かべてはいるが、なぜかアリシアには彼がもどかしさを抱いているように感じられた。
ああ、これが彼のラインなんだ。ぼんやりとそう思う。出会った瞬間からぼんやりと感じていた、簡単には超えられない一線。
気が付けばアリシアは、指輪を受け取っていた。
「あの。私、お預かりしたいです。ご迷惑でなかったら」
「はぁ?」
アリシアは困惑顔のアーサーの目の前に小さな宝石を差し出す。
「だってほら、よく見てくださいよ。アーサーの目の色に似ていて、すごくきれいです」
「……野郎に言うセリフじゃねえだろ、それは」
「そうですか? 私はすごく好きですけど、その色」
「やめろ、鳥肌が立つ」
きょとんとした顔で発せられたアリシアの言葉に、アーサーは両手で目元を覆って身悶える。
ヨハンはそんな二人の様子を穏やかな目で見つめ、そっとアリシアに耳打ちをした。どうか末永くよろしくお願いしますね、と。