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常春の町

 夢の名残、という言葉がある。

 その昔、一人の神が豊かな世界の夢を見た。大地に緑、空に光、海に水が満ち、そのすべてに生命が溢れた世界の夢を。けれど、やがて神は目覚め、夢は徐々に薄れ始めた。消えていく世界の中で、英知を得た人間たちは考えた。神に変わり、世界の夢を見続けてくれる存在を探せばいいのだと。

 彼ら人間の中には、神の寵愛を受け、特別な力を授かった者たちがいた。世界を創った神と同じく、夢を現実のものへと変えることのできる力だ。人々は、彼らを贄とすることで、世界を滅びの運命から遠ざけた。贄の見る夢は神に変わって世界を存続させ、安寧をもたらした。

 これが、夢の名残。誰もが一度は耳にしたことがある、この世界の創生の物語だ。




 最初の贄、アーデルハイト・ヘイワードが世界を救ってから、千年を超える時が流れた。贄の一族はやがて神格化され、信仰の対象となっていった。彼らがもともと暮らしていたフォレ・ブランシュという名の町は神職者や信者たちが集まり、今ではどこの国にも属さない宗教自治区となっている。

 信仰心を抱いて集まった人々は日々の糧を得るために大地を耕し、やがて大勢の商人が行き交うようになった。神官たちが法を定め、人々を守るための武力も手にした。とはいえ、あくまで信仰の町。年齢も性別も国籍も問わず、さまざまな人が行き交ってはいるが、町は平和そのものだった。

 一年を通して穏やかな気候の中央大陸は、花が枯れない地としても有名だ。贄の町、フォレ・ブランシュも例外ではなく、町の至るところに色とりどりの植物が植えられ、人々の目を楽しませている。新緑の季節を迎えたばかりの今は日差しもそれほど強すぎず、吹き抜ける風がとても心地いい。昼下がりの町は活気に溢れていた。

 町の奥に建てられた荘厳な神殿。そのさらに奥には、町の名前の由来でもある白い森が広がっている。別名、眠りの森。強い魔法に守られたその森には真っ白な木々が生い茂り、贄の資格を持つ者以外は中に入ることもできないのだという。町と森を隔てるように建てられた大きな神殿からは目抜き通りが延びていて、信者や商人、観光を目的にやってきた客でごった返している。

 その喧騒の中を、アーサーは目的もなくただのんびりと歩いていた。短い琥珀色の髪と、ガラス玉のように透き通るライトブルーの瞳。すり減った軍靴。くたびれた黒いシャツから伸びる腕は、筋肉質ではあるが少し痩せている。彼は神殿で何かを祈るでもなく、何かを買い求めるでもなく、ただ猫のように気の向くまま人混みの中を進んでいく。

「長閑だねぇ」

 通りの両脇に立ち並ぶ屋台や露店を冷やかして歩きながら、彼があくび混じりに呟いたときだった。

「どっ、泥棒!誰か!」

 大通りの奥から齢を重ねた女性の声が響き、辺りが一気に騒がしくなる。

 道行く人の波をかき分けて、大柄な男が一人、慌てた様子で走って来るのが見えた。薄汚れた大判の布で顔を隠し、左手に小さな巾着、右手には小さなナイフを握っている。錆びの浮き出た刃物が光を反射して、ざわめきの中に甲高い悲鳴が混じる。逃げ惑う人の波が大きくうごめいて、大通りはたちまち混乱に包まれた。

 けれど、緊迫した事態は思いのほかあっさりと収束してしまった。アーサーが素早い身のこなしで人波を縫うように男の前に躍り出ると、あっという間に相手の右腕を背中で固め、その手からナイフを叩き落としたのだ。そのまま男の足を払い、流れるような動作で地面に抑え込む。

 長身ではあるものの、ややスレンダーな印象を与えるアーサーが武器も持たずに難なく大男を組み伏せたという展開に、周囲はそろって唖然とした表情を浮かべている。

「おら、顔見せてみな」

 アーサーは右腕一本で相手の動きを封じたまま空いた手で頭に巻かれた布を取り払う。無精ひげを生やした無骨な顔が現れると、途端に群衆から大きな歓声が上がった。

「こんな往来でひったくりなんて、大した度胸だけどさ。間抜けだねぇ」

 やるなら、こうすんだよ。

 男の耳元に口を寄せて囁くと、アーサーはその胸ポケットから金貨を数枚、抜き取った。男はとっさに体をよじるが、拘束する力は少しも緩まない。大勢の視線が集まっているというのに、彼の手の動きに気付く者もいなかった。

 そのとき、興奮に沸き立つ人だかりを分けて警備の神官が三人、近寄って来るのが見えた。

「ご協力、感謝します」

「お勤め、ご苦労さまっす」

 きびきびとした口調で頭を下げる神官に、アーサーはにこりと笑って男を引き渡す。

「そいつ! そいつもスリだ」

 男の必死の叫びは誰にも届かないまま、大捕り物を見守っていた群衆はやがて散り散りに日常に戻っていく。後には使い込まれた小さな巾着袋だけが、ぽつんと残される。それを拾い上げた瞬間、声を掛けられた。

「あの! ありがとうございました」

 おぼつかない足取りでゆっくりと歩く老婦人に、一人の少女が手を貸している。アーサーと同じくらい、二十歳前後といった歳の少女だ。目深に被った外套のフードから、好奇心の強そうな黄緑色の目がのぞいている。その目に好意的な感情が宿っているのを感じ取って、鋭い視線を二人に向けていたアーサーは少しだけ警戒を解く。

 老婦人の視線がアーサーの手元に注がれているのに気付き、持ち主だと察する。

「どうぞ」

 ちゃりちゃりと小銭の音がする巾着袋を渡す。老婦人は深々と頭を下げ、お礼にとアーサーの手に小さな飴玉を握らせると、一人往来へと消えて行った。

「……行かねえの?」

 その場に残った少女に声を掛けると、彼女は短く、ええ、と答えた。

「あんた、お孫さんかなんかだろ? 置いてかれるぞ?」

「あ、いえ。先ほどのご婦人とは、初対面です。それよりも、あなたに何かお礼をさせていただかなくてはと思いまして」

「は、何で?」

 アーサーの言葉に、目の前の少女はきょとんと首をかしげる。

「えと。この町、普段はもっと治安が良いんです。なのに、今日に限ってこんなことが起こってしまって。お詫びに何か、ごちそうできればと思うのですが。あっ、この町のワインはもう召し上がりましたか? 郊外のブドウ畑をご覧になったことはあるでしょう? 昨年はブドウが豊作で、ワインの出来もすばらしかったと聞いています。それとも、とてもおいしいと評判のパティスリーがあるのでそちらに……」

 少女は名案を思い付いたと言わんばかりに胸の前で両手を合わせると、つらつらと言葉を続けていく。アーサーは途切れることなくとうとうとしゃべり続ける少女を片手で制して無理やり言葉を割り込ませる。

「ちょっと待った。なんだって無関係の赤の他人に、あんたが礼をしようとしてるんだ」

「ええ、他人で間違いありません。ですが、この町で起きたことですから。私が責任を取るべきかと」

「いや、だからちょっと待った」

 さっきから、通行人の視線が痛い。もともと目立つことは嫌いではないが、この目立ち方は少し違う気がする。いや、だいぶ違う。変な奴に絡まれたなという思いが脳裏をよぎり、こめかみを汗が伝う。アーサーは短い髪をくしゃりと弄ると、たまたま目についた店を示した。

「あー、とりあえず場所を変えよう! あんたの言う出来のいいワインもいいけど昼間っから酒はやめときたいし、そこのカフェで話そうか」

 荒れたところが少しもない華奢な手を引いて、喫茶店の奥へ進む。窓から離れた席に着くと、少女はきょろきょろと辺りを見渡し、ゆっくりとフードを取り去った。少し幼い印象の、整った顔立ち。色素の薄い、透き通るような金の髪。日焼けとは無縁の白い肌。

「……あんたさ。もしかして、贄の一族の人間か?」

 アーサーの言葉に、ペリドットのような瞳が揺れた。

「えと…、わかります……?」

 少女は慌てた様子で、一度取り払ったフードを再び目深に被る。コーヒーを運んできたウエイターが、いぶかしげにその様子を一瞥し、けれど何も言わずに去って行った。

 金髪と翠眼の組み合わせは、贄の一族に共通する特徴だと言われている。とはいえ、髪も目もひどく珍しい色彩というわけではない。

「いや。さっき、自分が責任をとかなんとか言ってたから、神殿の関係者かと思っただけだよ」

 別に、あんたが何者でもいいんだけどさ。そう続けたアーサーは、静かに少女と視線を合わせる。

 少女はどこか居心地が悪そうに、運ばれてきたばかりのコーヒーを口に含む。そして、盛大にむせ込んだ。

「あっつ……!」

「え。おい、大丈夫か?」

「うぅぅ。苦い……です」

 口元をハンカチで抑えた彼女はしばらく悶えたあと、涙目になって真っ白なコーヒーカップをのぞき込む。

「砂糖でもミルクでも入れたらいいだろ」

 呆れた口調でシュガーポットを押しやるアーサーに、少女は小首をかしげてみせる。

「砂糖、を、入れるのが正しい飲み方だったのですね?」

「は? あんたコーヒー飲んだことは?」

「えっと、初めてです。お見苦しいところを見せてしまって申し訳ありません」

 恥ずかしそうに顔を赤くする少女に、アーサーは信じられないと言いたげな目を向ける。その呆れたような表情に気付いてか、彼女は少し困った顔で笑った。

「すみません。実は、これまで神殿から出たことがほとんどなかったものですから」

「なんだそりゃ。で、これからどこに行くつもりだったんだよ?」

 アーサーの問いかけに、少女はさらに困った顔をする。

「えっと。目的地は、決まっていないんです。ただ、この世界を見て回りたかったというか……」

「はぁ?」

「その。きれいなものを、見に行きたいなぁと思い立ってですね……」

「ふーん?」

 アーサーは真っ白なクロスのかかったテーブルに肘をつき、目の前の少女をじっと見つめる。しどろもどろに言葉を紡いでいた少女は、その視線から逃れるように目を逸らした。

「つまり、神殿の奥で大事にされてた箱入りお嬢様が好奇心で町に出てみたものの、そっからどうすればいいかわからなくなって騒動に乗じて俺に声を掛けたと。なんなら護衛でもしてほしいとかそんな感じか?」

「あう……。すみません、その通りです」

 少し棘のあるアーサーの言葉が図星だったらしく、少女は頬を赤らめる。不快にさせてしまってすみません、という言葉がか細い声となって耳に届いた。

「あっ、ですがお礼をしたかったのは本当です! ここは私たち一族が守るべき町。誰も傷つくことなく場を納めてくださったことは、本当に感謝しているんです」

「感謝、ねぇ」

 どことなく含みのある言い方に、少女は戸惑った表情を浮かべる。その様子を見ながら、アーサーは続けた。

「あのさ。あれだけ人通りのある場所に警備がいなかったの、おかしいと思わないか?」

「えっ……」

 フォレ・ブランシュは宗教の町ではあるが、教団には剣術や武術に長けた者や魔力を持つ者も多く集まる。そうして出来上がったのが聖騎士団だ。彼らは要人の警護や町の治安維持のため、普段から町のあちこちに配備されている。いつもなら頻繁に目にする白い軍服をまとったその姿が、今日はやけに少なかった。

「おおかた、無断で逃げ出した教団関係者を探すのに人手が割かれてたってとこだろ。結果、ひったくりの対応にまで手が回らなくなった、と」

「もしかして、私のせいで……?」

 少女ははっとした表情で口元を押さえ、うつむいてしまう。

 少し、意地の悪い言い方をしすぎたか。

 アーサーはふっと息を吐くと、冷たい印象を与える瞳を天井に向けた。そして、少し離れた位置にある窓を指さす。

「とにかくさ。どこか行きたいってんなら、あいつらに護衛を頼めばいいだろ」

 談笑する客たちの向こう。先ほどまで歩いていた通りを、きっちりと軍服を着こんだ青年が二人、足早に通り過ぎていく。時折あちこちに視線を向けて、何かを探すように。その姿を確認した途端、少女はフードの端を両手で引っ張り、小さく縮こまって息を潜める。

「だめ。だめです」

 わずかに震えた声が、アーサーの耳に届く。

「見つかったら、連れ戻されてしまいます。それじゃだめなの。私はきれいなものを、たくさん、たくさん見るんだって……」

 木製のしゃれたイスにふんぞり返るように座っていたアーサーは、ブラックコーヒーを一口すすると口を開く。

「なあ。何でそんなに必死なんだ? 別に、明確な目的地もないんだろ?」

「それは……」

 自分でもうまく言葉にできないのだろう。少女は途切れ途切れの言葉をゆっくりと並べ始める。

「私にも、よくわからないんです。何が見たいとか、何がしたいとか、どこへ行きたいとか。そういうの、ぜんぜんなかったから。でも」

 でも。

「私は、世界を見てくるって約束したから」

 はっきりと言い切った言葉に、アーサーは長く息を吐く。

「あのさ。案外、きれいなものなんてどこにもないかもしれないぜ?世界はすげえ汚くてさ、後悔するかもしれないだろ。それでも行きたいって言えるか?」

 貧困や裏切り。善意に見せかけた嘘。ぬかるんだ泥の道や、枯れ果てた花。いつまでも報われない努力とか、実らない幸せとか、叶わない願いとか。

 アーサーがこれまで見てきた世界は、ひどく冷たくて残酷で厭わしいものだった。きれいなものなんて何もない。温かいものなんて幻だ。やさしさにはいつだって裏がある。

 けれど、目の前に座る少女は清々しいくらいまっすぐに、きれいなものを見に行くのだと言う。希望に満ちた目で。強い意志を持って。

 もしもこの少女と同じ目線に立つことができたら、自分が絶望したこの世界も少しはきれいに見えるのだろうか。それとも、彼女もまた、自分と同じ絶望を知るのだろうか。きれいなものなんてどこにもないのだと。

 アーサーの中で、少しばかり意地の悪い好奇心が首をもたげる。

「なあ。なら、賭けでもしようか」

「賭け、ですか?」

 首をかしげる少女に、アーサーはにっこりと笑って見せる。胡散臭い、と知人に言われたことのある、表面に貼り付けただけの薄っぺらい笑顔。

「そう、賭け。もしもこの世界に何かひとつでも俺が感動できるものがあれば、あんたの勝ち。逆に、やっぱりこの世界はくだらないなと感じたら、俺の勝ち。賭ける物はそうだな、お互いに一番大切にしているものでどうだ?」

 今日出会ったばかりの人間からされた唐突な提案に、少女は少し困ったように口をつぐむ。

「賭けにのるなら、お望みどおり俺があんたの護衛をしてやるよ。誰にもバレないようにこの町を出て、あんたの行きたい場所ならどこへでも連れていってやる」

 その言葉を聞いた途端、少女は黄緑色の目を期待に煌めかせた。知らない人間からの提案を訝しんでいた様子は、跡形もなく消えてしまっている。

「賭け、します!」

「いいねぇ、成立だ。んじゃ、手始めにまずはとっととこの町を出るぞ」

 そう言って、アーサーは席を立つ。

「コーヒー代くらいは出せるか?」

 礼なんだろ。

 そう声を掛けたところで、アーサーはこれから旅立とうとしているはずの少女がずいぶんと身軽な装いをしていることに気付く。季節に合わせた薄手の外套。シンプルなショートパンツにハイカットブーツ。ウエストポーチは身に着けているものの、旅に出るというのに荷物らしきものは影も形もない。

「えっと、路銀は大丈夫か……?」

「ええ、大丈夫です!」

 そう言って少女は、腰に下げた傷ひとつない茶色のポーチから小さな革袋を取り出すと、無造作にその中身をテーブルに広げて見せた。それは、眩しいほどに光り輝く宝石だった。それも、一つではなく数えきれないほどの。

「っおい!」

 アーサーは慌てて少女が並べたものを両手で隠し、ポーチに戻させる。こんな場所で金目のものを見せたりしたら、大声で襲ってくれと言っているようなものだ。

「あっ、換金? お金に換えないと使えませんか?」

 決して大きな声ではなかったが、少女の言葉に店内の視線が一気に集まるのを感じた。

 アーサーはため息混じりに自分のポケットから取り出した銅貨を数枚テーブルに置くと、少女の腕を引いて店を後にした。真鍮製のドアベルが大きく揺れて、澄んだ音が二人を追い出す。

 無骨な印象の大きな手に引かれるまま、大通りから横道に入り、静かな裏通りを足早に進む。

「あのっ、私いま宝飾品しか手元にないんです。どこかで買い取ってもらって……」

「ここでそんなことしたら足がつく。まずは移動してからにしてくれ」

 アーサーは人気のない道から再び賑わう通りに出ると、人の群れの中を誰にもぶつからずにすいすいと歩いていく。その一歩後ろを歩く少女はというと、雑踏に揉まれ、足を踏まれながらなんとかはぐれずに後をついていく。

「よし、撒いたな」

「撒い…た、って……誰をですか?」

「誰かさんが宝石なんか見せびらかすから、どこぞのごろつきがついて来てたんだよ」

 アーサーがようやく歩調を緩める頃には、少女はぜいぜいと肩で息をしていた。薄手のものとはいえ外套が暑かったのか、淡い色の髪が汗で額に貼りついている。

 町の外れ。道を埋め尽くしていた露店がやがて住宅へと変わり、その数も徐々にまばらになってきた辺りでアーサーは足を止める。そこには、深い緑色のピックアップトラックが一台停められていた。

「わあ、車!」

「なあ。あんた、荷物は?」

 目を輝かせる少女の言葉は無視して、アーサーが問いかける。

「あ、このポーチだけです。旅に出るなら身軽なほうがいいかなと思いまして。服は洗ったらまた着られますし」

「……ずいぶん思い切ったな」

「何がです?」

「いや、何でもない」

 ゆっくりと首を振ってそう言うと、彼は助手席のドアを開け、少女に乗るように促す。

「あの、運転手は…」

「俺だよ」

 アーサーの声に、重いエンジン音が重なる。

「あれ、見えるか?」

 指さした先。住宅地の終わる辺りに、教団の軍服を着た人の群れが見える。馬車や車を一台ずつ停めては、中をあらためているのだろう。

「あそこを通らずに町を出ることって…」

「できないね」

「あ、じゃあ強行突破で行きます?」

「命が惜しくなければそうするぜ?」

「えっと、じゃあどうすれば……」

 困った顔を向けてくる少女に、アーサーはにやりと笑顔を向ける。

「それ、脱げ」

「えっ、いっ、嫌です! 何てこと言うんですか!」

 途端に少女は顔を赤くし、両手で胸元を抑える。何か誤解が生じていることに気付いたアーサーは眉間に手を当て、違う、と大きなため息を吐いた。

「その外套の話だ!」

「え、だってこれを脱いだら顔が丸見えですよ?」

「いいから。急げよ」

 戸惑いながらも言われた通りにすると、アーサーは突然少女の髪をくしゃくしゃと乱し始めた。高い位置できっちりとまとめられていた髪が、どこか野暮ったい印象のポニーテールに変わる。そのまま彼は少女の頬にも手を持っていき、何かをこすりつけた。見るとその手はいつの間にか砂埃にまみれている。

「やめてください! ちょっ、目に入って……」

 アーサーは少女の言葉など耳に入らないのか、必死に目元を擦る少女を無視してのんびりと車を発進させた。

「検問です。止まっていただけますか」

 道沿いで待ち受けていた軍服姿の中年の男が、大きく手を振ってスピードを緩めるよう指示する。アーサーは言われるがまま道端に車を停め、窓を開けた。

「ご苦労様です」

「すみませんね。どちらに向かわれるのかお聞きしても?」

「郊外のブドウ農家の者です。今日は得意先にワインの納品が済んだので、これから家に戻るところで」

 そうですか、という気のない返事をした男は、助手席に座る少女にちらりと視線を向けた。訝しむような様子の中年の男に、アーサーは人懐っこい笑顔を浮かべて見せた。

「あぁ、すみませんね。納品してきたものは昨年妹が手掛けた質のいいワインだったので、手放すのが寂しいと泣いているんですよ。気にしないでくださいね」

「ちがっ……」

「ああ、ほらほら。涙で目が真っ赤じゃないか」

 反射的に顔を上げた少女の目元に、アーサーがすかさずタオルを押し当てる。中年の教団員は納得したのか、白い帽子を取ってアーサーに一礼する。

「お引止めしてすみません。異常はないようなので、もう結構ですよ」

 男はそれだけ言うと、車から一歩離れる。

「では、失礼します」

 アーサーは再びゆっくりと車を走らせ、町を抜ける。道の両脇にはブドウ畑が果てしなく広がり、道は舗装すらされていない農道に変わる。ガタガタと車体を揺らしながら轍をたどるように進んだアーサーは、やがて小さな川が見えたところで車を停めた。エンジン音が止んで、辺りを静けさが包む。どこからともなく、鳥の鳴き声が聞こえた。

 アーサーは川辺に下りると川底がはっきりと見えるほど済んだ水でタオルを絞り、それを少女に渡す。アーサーにならって車からゆっくりと下りてきた彼女は、冷たいタオルで顔の汚れを拭い始める。

「脱獄成功、お疲れさん」

 少しふざけた口調で言ってから、まだお互いに名乗っていなかったことに気が付く。

「そういえば、まだ自己紹介してなかったな。アーサー・ブラックだ。まあ、よろしく」

「アリシア・ヘイワードと申します。アリーとお呼びください」

 少女はまだ汗と泥汚れの残った顔をしっかりと上げて、差し出された手を握り返した。その目が突然大きく見開かれ、遠い空に向かって細い両腕が伸ばされる。

「わあ、きれい! 見てください、アーサー」

「なんだよ?」

 アーサーはゆっくりと背後に目を向ける。いつの間にか日はずいぶんと傾き、辺りは柔らかなオレンジ色に包まれていた。何の変哲もない、ただの夕暮れだ。

「私、夕日を初めて見ました。素敵です。雲があんなに燃えるように染まって……」

 ピンク。オレンジ。紫。藍。たくさんの色が混ざった雲。群青。朱。黄金色。美しいグラデーションを描く空。稜線だけを残し、紺藍の影に消えていく遠くの山々。エメラルドグリーンに光るブドウの葉。小川の水面に反射して弾ける光。

 ありふれた夕暮れの風景を、アリシアはまるでこの世界でいちばん価値のあるもののように讃えようとする。その光景を、目に焼き付けようとする。

「ねえ。とても美しいと思いませんか、アーサー?」

 不意に同意を求められたアーサーはもう一度ゆっくりと空を見上げ、それから肩をすくめた。

「別に。どこにでもある、ただの夕焼けだぜ?」

 珍しくもない。

 アリシアはそんなアーサーの言葉を気にすることもなく、そうですか、と呟いた。

「アーサーは、こんなにも美しい夕焼けを、これまで何度も目にしてきたんですね」

 見飽きるほどに、何度も。

「まあ、そうかもな。残念ながら、賭けはいきなり終わったりしないからな」

 そう言ってアーサーは運転席へと戻っていく。アリシアは暮れなずむ夕空を記憶に刻み込むようにもう一度だけ見上げ、助手席へと戻っていった。


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