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天弓2

 物心ついたころには、家はなかった。

 どこの国で生まれたのかも、どこの町で生きていたのかも、今となってはまったくわからない。物心ついたときには、旅芸人の一座で雑用係のようなことを任されていた。

 酒臭い猛獣使いのおっさんや、無駄に露出の高い妖艶な踊り子の女。いつだって表情の読めない道化師に、恐怖心が微塵もない曲芸師の兄弟。無表情で無愛想な歌姫に、気のいい座長。

 別段、気に入っている場所ではなかった。

 客同士の賭博に巻き込まれて殴られたこともあったし、未熟なナイフ使いの的にされ、頭にリンゴを乗せたまま無理やり舞台に立たされたこともあったから。恐怖に歪む顔を観客に笑われ、耳元をかすめたナイフに歓声が沸き、流れる血に興奮が渦巻く。そんな場所。

 家族だなんだという言葉はしっくりこなかったけれど、それでもその一座が自分の居場所だと思えていたのは、自分とそっくりの顔をした兄がいてくれたから。

 歳の離れた兄は、バイオリン弾きだった。まだ幼かった俺を養うために、日銭を稼ぐために、路上で演奏していたところを座長に拾われる形で一座に入った。一座の花形である、幽玄の歌姫の伴奏者として。

 繊細で洗練された音色を奏でる兄が、歌姫の飾りとしてではなく自分の実力をもって一座での発言権を得るのに、そう時間はかからなかった。世紀の歌姫のおまけから、天才的バイオリン奏者として名を揚げていく。兄は、俺の憧れで、誇りだった。

 そんな兄が死んだのは、今から十二年前の冬だった。

 贄の町、フォレ・ブランシュで大々的に行われる聖夜祭。クライマックスを飾る公演を、一座が行うはずだった。その通し稽古のために、一座は町はずれの森に馬車を止めていた。

 祭りに賑わう町を見たい。

 準備があらかた済んだ夕暮れ時。思い思いに休む団員達の様子を傍目に見ながらそんなわがままを言った俺に、兄は笑って銀貨を一枚握らせてくれた。楽しんでおいで。頭をかき撫でてそう言った兄の顔が、今でも忘れられない。

 雪の降る、寒い日だった。オレンジ色の魔導ランタンが、暮れていく町を柔らかく照らしていた。その暖かい光が、奇妙なくらい綺麗だと感じた。

 屋台が立ち並び、人がひしめく目抜き通りを端から端まで冷やかして。途中で食べた、フルーツを色とりどりの飴で固めた細工菓子が気に入って兄にいちばん大きなりんご飴を買って戻った。こんな大きな飴、どうやって食べるんだ。苦笑する顔を、想像しながら。

 けれど、森に近付いた俺を待っていたのは、耳をつんざくような団員たちの断末魔の叫びだった。

 遠くからでもわかる吐き気を催すような血の匂いと悲鳴。逃げ出した馬の嘶き。壊れた幌馬車が燃える匂い。黒い煙。

 何台も停められた馬車のうちの一台を通り過ぎたところに、地獄が広がっていた。

 溶けた雪と生臭い血にぬかるんだ地面。体を引き裂かれて肉塊と化している団員たち。辺りを照らし出す炎の揺らぎと、しきりに舞う大粒の雪で、視界がちらちらと瞬いて気分が悪かった。

「アーサー、逃げろ」

 声のした方を振り向くと、真っ黒い塊が自分に覆いかぶさろうとしていた。必死に懐を探り、護身用にと兄に渡されていた短剣を突き出した。その手に、どろりとした血が伝う感覚がした。

 恐怖に閉じていた目を開くと、そこに兄がいた。

 その肌は闇のように黒く変色していて、今にも内側から破裂しそうなほどに歪に膨れていた。その体がゆっくりと崩れ落ちて、自分にのしかかってくる。左胸に刺さった短剣が、さらに深くその体に埋まっていく。

「兄…ちゃん?」

「い、いい……。これで、いい」

 囁くような声で、兄が言う。

 我に返って短剣を抜くと、その体から血液と一緒にタールのようなどす黒い何かが噴き出し、ぐずぐずと形を変えていく。黒い何かは鳥の形に姿を変えると低空を滑るように飛び、どこかへ向かおうとする。しかし、一座が集っていた野営地を抜ける前に、黒い鳥は見えない壁にでもぶつかったように突然跳ね返され、地面に落ちて動かなくなった。

 こと切れた兄の体の下から這い出して、兄の体から出てきた黒い鳥を抱き上げる。その瞬間、鳥は目を見開いて俺の左肩に嘴を突き立てた。激痛が肩口から全身に走って、意識が薄れる。

「お願い! 早く……」

 聞き慣れない声と、駆け寄ってくる足音を聞いた。その瞬間に、俺の意識は途切れた。




「ヴェルト・テーレの悲劇。お前も贄の町にいたなら、聞いたことくらいあるだろ。その生き残りが、俺だよ」

 太陽が光を弱め、虹は消え、影が伸びた。暮れていく空を見つめながら、アリシアは小さく頷いた。

「アーサー。私、あなたに会ったことがあるかもしれません」

「は?」

「いえ。会ったというか、夢の中で」

 アリシアの言葉に、アーサーは納得したようにああ、と呟く。

「あの頃、私はまだ力が安定していなくて。夢に干渉することも今ほどできなかったんです。あの惨劇を夢に見てはいましたが、その未来を変えることはできませんでした。ただ、あの日泣いていたあの子を、誰かに早く助けてあげてほしいと願うことしかできなかったんです」

「ああ、あれあんたの声だったのか」

 アーサーは、何かに気付いたようにひとり呟くと、乾いた声でははっ、と笑った。

「あの日、ココルネが俺のとこに来たんだよ」

「ココルネさんが?」

「ああ、誰かに呼ばれたっつってな。あのばあさん、あんたに呼ばれたって気付いてたから、昨日もあんたのことを知ってるふうに振る舞ってたのか」

 知ってたなら一言言ってくれてもいいのによ。

 言いながら、アーサーはマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、湯気を立てるケトルからお湯を注いだ。それをアリシアに差し出すと、自分にもコーヒーを用意する。残ったお湯をそのまま鍋に移し、バックパックから取り出したパンプキンスープの缶を温める。更にバックパックを漁ったアーサーは、ワックスペーパーに丁寧に包まれた携帯用のショートブレッドを取り出した。

「ばあさんが言うには、あの日、一座を襲ったのは誰かの呪術だったらしい。兄貴の体が呪術に裂かれる前に俺が殺しちまったもんだから、呪詛返しの状態になったんだと。ただ、呪術師の元に戻るはずだった呪詛が、相手の力に阻まれた。そんでそのまま放っときゃ死んだはずの呪詛を、俺がわざわざ拾い上げて体に入れちまったんだとさ」

 アーサーは口元に薄く笑いを浮かべ、左肩に触れた。

「その後、成り行きで行商人をしてたジジイに会って、しばらくは一緒に旅をしてた。どっかで犯人に出くわして、こいつを返せるんじゃないかと思ってな。自分で身を守れるようになってからは、一人で旅を続けてるってわけだ」

 結局、なんの足取りもつかめなかったけどな。

 吐き捨てるように言った言葉が、妙に冷たかった。

 温度を感じさせないライトブルーの目が、まっすぐにアリシアに向けられる。

「あんた、あの日の夢を見たんだろ? なら、あの一件の犯人はわかるか?」

「……いえ。お役に立てなくて、すみません」

 アリシアの言葉に、アーサーは静かに首を振って温まったスープを取り分ける。

「俺があんたの護衛を引き受けたのは、贄の力なら、何かの役に立つかもと思ったからだ。利用して悪いな」

「利用だなんて!」

 思わず口をついて出た大きな声にアリシアは一度口をつぐみ、すぐに言葉を続ける。

「利用だなんて思っていません。けど、アーサーは復讐がしたいんですか?」

 まっすぐに目を合わせてくるアリシアから、不意に目を逸らして、アーサーは水分のないショートブレッドを口に含む。苦みの強いコーヒーでそれを飲み下してから、アーサーはふっと自嘲に似た笑みを浮かべた。

「拝礼を済ませたんだ。兄貴の」

「弔い拝礼、精霊参りのことですか?」

「そうだ。十年以上も探して、何の手がかりもなかったんだ。もう全部忘れて、違う生き方をするべきかって考えていた」

 サウワの情報ギルドでオーウェルに言われた言葉が、アーサーの脳裏に浮かぶ。気持ちの整理はついたのか、と。ついたつもりだった。だけど。

「けど、どうしてもこいつが元の主のとこに帰りたがってる気がしてな。まだ、旅を終わらせられないでいる」

 肩口をぽんぽんと叩きながら、アーサーが呟く。

「それは、アーサー一人の感情じゃないからかもしれません」

 静かに返ってきたアリシアの言葉に、コーヒーを飲みながらアーサーが不思議そうな目を向ける。

「その呪痕には、一座の方々の怒りや悲しみが篭っている気がするんです。なので、復讐をしたがっているのは、アーサーだけではないのかもしれませんね」

 アーサーはふん、と鼻で笑う。

「ま、これはあんたの旅だ。約束通り、俺はあんたの行きたい場所に連れて行ってやる。護衛は続けてやるよ。あんたが嫌でなければな」

 そう言ってアーサーは大きく息を吐く。

 遠からずお前は過去と対峙するよ。

 ココルネの言葉が本当なら、焦らずともいつか、事実を知る日が来るのだろう。

「ま、俺の話はそんだけだ。暗い話して悪かったな」

 アリシアは冷めかけたコーヒーを飲み下すと、ゆっくりと視線を上げた。暗くなっていく空の端では、星が光り始めていた。

「いいえ。アーサー、話してくれてありがとうございました」

 きれいな空だと思う。幻灯の町、スティオリの夜も美しかったけれど、自然の星を眺めるのもアリシアにとっては心躍る経験だ。足元には、力強く咲き誇るナデシコ、ツユクサ、レンゲソウ。そのすべてが美しい。けれど、隣に座る青年にとって、世界はどんなふうに……。

「アーサー、聞いてもいいですか?」

「何だよ?」

「あなたにとって、世界はどんな場所ですか?」

 そよぐ風にさえ掻き消されてしまいそうな声が、ぽつりと宙に浮いた。

 アーサーが何かを言おうと口を開くのが見えた。けれど、透き通るライトブルーに視線を合わせると彼は何も答えずに目を閉じて、ただ肩をすくめてみせた。


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