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天弓1

 湿り気を帯びた空気を閉じ込めていた雲が、強い風に削られていく。押し流された雲間から覗く日の光に、街中が色彩を取り戻す。昔見た鉱物図鑑に載っていたセレスタイトのようだ。無彩色の雲の向こうに広がる空を見て、アリシアはぼんやりと思う。

「どこに行きたい?」

 前置きもせず、ぽつりと呟くようにアーサーが問いかけてくる。

 石畳の道を進むピックアップトラックがまた静寂に沈んでしまわないように、アリシアは慌てて言葉を選ぶ。

「あっ、えっと。次の行き先ですね。次は、えと、私が行きたいのは……」

「まだ考えてないのかよ」

 横目でちらりとアリシアを見たアーサーは怒ることもせず、ただおかしそうに喉を鳴らして笑う。その笑いが、いつもより空虚に聞こえた気がしてアリシアは心配そうな視線を隣に送る。

「なんか、見たい場所とかねえの? あんたの旅だろ?」

 アリシアの視線に気づいているくせに、アーサーは何事もない様子で言葉を返してくる。余計な心配をするな。そう言われている気がして、アリシアは前方に視線を戻す。

「あ」

 ふと思い至って声を漏らすと、アーサーが水を向けた。

「なんか思いついたか?」

「ええ。行ってみたい場所があるんです。ただ、どの街のことかわからなくて」

「どんな場所?」

「昔、神殿の外にすごく興味があって。夜な夜な神殿で、来訪者の忘れ物なんかを集めていたことがありました。神殿には長い旅をして来る方も多かったので、異国のお土産や本、時には手紙なんかが落ちていることがあったんですよ」

 あ、もちろん後からきちんと保管庫に届けていましたよ。

 じろりと何か言いたげな視線を向けられて、アリシアは気まずそうに苦笑を浮かべて言葉を付け足す。

 昔。白い森の片隅で暮らしていたころのことを思い出す。時間と退屈を持て余して、外の世界が見たかったころ。けれど、一人で旅立つには、勇気も知識も足りていなかったころ。

 あのころ、みんなが寝静まった夜の神殿に忍び込んでは、神拝者の忘れていったものを眺めるのが好きだった。弱々しい光を放つ魔導ランタンだけを頼りに礼拝堂に入り込んでは、見回りの騎士に呆れられたことを覚えている。

「懲りずに何度も来るから、見るに見かねたんでしょうね。神職者見習いの方が、遺失物保管庫の鍵をこっそり貸してくれたんです」

 まだ年若いその青年は、内緒だよ、と笑いながらアリシアに小さな鍵を握らせてくれた。

「そこで見た、古い旅行雑誌の小さな記事が印象に残っていて」

 辻馬車を追い越しながら、アーサーは黙ってアリシアの言葉に耳を傾けている。

「青い、花畑なんです。中央大陸のどこかの街なんですが、広い平原があって、見渡す限り一面に小さな花が咲いていて。青い空と、青い平原の様子がすごく美しくて」

 幼い頃に見た写真を思い起こすように、アリシアは目を閉じて語る。

「青い花ってーと、サンライズ・ビーチか? イルバの」

「写真には、海は映っていませんでしたよ?」

 イルバは中央大陸の東端に位置する小さな田舎町のことだ。海から昇る朝日が美しいことから、サンライズ・ビーチと名付けられた浜辺が有名だ。

「これじゃねえ?」

 交差路を行く人波が途切れるのを待つ間に、アーサーは手早く魔導端末を操作する。助手席に座るアリシアに放られた小さな板状の端末には、少し荒い画像となって、いつか見た花畑が映し出されている。

「あ、これ! これです!」

 アリシアが嬉しそうな声を上げて、小さな端末に顔を近付ける。

「ここに行きたいです!」

「イルバか……」

 東、だな。

 ゆっくりとハンドルを操作しながら、微かな声で呟くように言ったアーサーに、アリシアが不思議そうな顔を向ける。

「アーサー、何か気がかりなことでも?」

「何でもねえよ」

 向けられた気遣わしげな視線を無視するように前を向いたまま、アーサーはアリシアの手から端末を取り上げて上着のポケットにしまい込む。

「イルバなら、ここから少し距離があるからな。眠かったら勝手に寝てろよ」

「もう、アーサー。私だって、そんなにいつでも眠っているわけじゃないです」

 アリシアの反論を聞き流して、アーサーは鼻歌を歌い始める。聞いたことのない旋律が、エンジン音に重なる。

 真昼の幻灯の街は、煌びやかな夜の様子と打って変わって落ち着いた雰囲気を漂わせている。窓の向こうを淡々と過ぎていく街に目を向けながら、アリシアはシートに深く体を預け、石畳の道から伝わる振動に身を任せた。




 虹を見た。

 なんの変哲もない、虹を。

「なあ。アリシア」

 不意に聞こえた自分を呼ぶ声に、はっとする。

「ちょっといいか?」

 野の花が咲き誇る平原で、隣に座った青年が何かを言おうと口を開く。その言葉を、感情を、願いを今聞かなければいけない気がして、アリシアは必死に耳を澄ます。

 けれど、その耳に届いたのは誰かが近付いてくる微かな足音だった。

 アリシアよりも先にその気配に気づいたアーサーが、口をつぐみ立ち上がる。

 その瞬間アリシアは、理由もなくひどく不安な感情を抱いた。自分をかばうように背中を向けるアーサーが、ひどく冷たい顔をしていることがその顔を見なくてもわかった。

 何か、取り返しのつかないことをしてしまったような。大切な何かを失ってしまったような。そんな感覚が湧き上がって、胸の奥がざわめく。

 ああ。彼の過去を知るたった一度きりのチャンスを、今、逃してしまったのだ。

 ただ漠然とそう感じたアリシアは、近付いてくる来訪者に願った。

「お願い。今は、来ないで」

 その瞬間、脳裏に優しい声が響いた。

『いいわ。あなたが、それを望むなら』




 目を開けると、小さな雫が目に映った。雨粒。

 突然夢の中で感じた焦燥感が湧き上がって、心臓がどくどくと激しく脈打つ。押し出されるように、涙が滲む。

「アーサー!」

 思わず大きな声を出すと、怪訝そうな瞳がアリシアに向けられる。その透き通るような青を見ているうちに、気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

「なんだよ、どうかしたか?」

「……いえ。何でも、ないです」

 アリシアは大きく息を吐くと、ぎこちない笑みを作った。車内に取り付けられた時計が、昼下がりを知らせている。

「すみません。つい、うとうとしてしまって」

「いつものことだろ」

 言葉を濁すと、笑い混じりの声が返ってくる。その声に、気配に、存在に安心してしまう自分に気付いて、アリシアは不意に熱くなった頬を隠すように両手を当てた。

 スティオリの街はいつの間にか遠ざかって、窓の外には何もない草原地帯が広がっている。草むらにぽつり、ぽつりと小雨は降り続いているが、空は明るい。

「……さて」

 誰に言うでもなく呟いたアーサーは、突然大きくハンドルを切った。

「アーサー?」

 大型のピックアップトラックは大きく道を逸れ、草むらに立つ大きな楡の木の下に停まった。

「降りるぞ。今日はここで野宿な」

「えっ、でもまだ明るいですよ?」

「今から向かっても次の町に着くころには真夜中だからな。明るいうちに野営の準備をするのが鉄則」

「なるほど……」

 アリシアは大きく頷いて、シートベルトを外す。

 一足先に車から降りたアーサーは荷台へ回ると、雨よけに被せられていたハードカバーの上に溜まった雨水を軽く払った。広い荷台には、防水処理が施された箱に入れられた野営道具が積まれていた。

 使い込まれたテントやタープ。古びたランタンと魔導式の簡易コンロ。小さなケトルや鍋といった雑多な調理器具。

 アーサーはテントの類には手を付けず、調理器具や明かりだけを荷台から下ろした。

「私は、何を手伝いましょうか?」

「薪になりそうな枝を集めてくれ。なるべく多くな」

 アーサーがつい、と道の反対側を指差す。少し離れた位置に、雑木林が見えた。アリシアは頷くと、軽い足取りで林の中に入っていく。後ろから、蛇には気を付けろよ、という声が追いかけて来た。

 林に一歩踏み込むと、木々の梢で鳥が鳴き交わす声が降り注いでくる。もうすぐ、太陽が出るのだろう。

 その場で立ち止まったアリシアは、少し考えたあとで両手を胸の高さに持ち上げた。次の瞬間、まるで吸い寄せられるように地面に散らばっていた枯れ枝がアリシアの手元に集まった。長すぎるものは適度な長さに折れ、焚火に丁度いいサイズになったものがアリシアの両腕に収まる。

「……っしょっと」

 少しばかり重いその枝を持って戻ると、野営地にアーサーの姿はなかった。

 アリシアはぬかるんだ足元と湿った薪を見つめると、目を閉じて魔力を開放する。炎と風の渦がアリシアの周囲に立ち上り、一瞬にして消えた。残されたのは乾いた地面と木の枝。足元に生えた草花は少しも傷むこともなく、葉先に着いた水滴だけが消えていた。

 次にアリシアはその場にしゃがみ込むと地面に手を当てて、ごめんね、と呟く。その瞬間、雑草が宙に舞い、綺麗な円形に土が露出する。その土が浅く陥没したかと思うと、薪と同様にどこからともなく吸い寄せられた石が周囲を囲った。

「え、お前早くねえ?」

 水の入ったバケツを片手に戻ってきたアーサーがアリシアの姿を見て言い、その足元に作られた焚き火用のスペースを見て思いきり顔をしかめた。

「は?」

「え?」

「何だよそれ?」

「えと、焚き火の準備ですが」

 足元を指差すアーサーにアリシアは小首をかしげたまま、何か間違っていますか、と問い返す。

「いや、間違ってないけどどうやった?」

「え?」

「は?」

 珍しく驚いた顔を浮かべるアーサーに、アリシアは小さな声で魔法です、と答える。

「風魔法で薪を集めて、風と火で乾かして、土魔法で焚き火の準備を……」

「は?」

「え?」

 きょとんとした顔のアリシアに、アーサーは理解できないとでも言うように指先でこめかみを叩く。

「魔法でって、お前、適性属性は?」

「えと。中級魔法までならほぼ全属性いけるかと。水と聖属性は上級も扱えます」

 魔法には、適性がある。自分の魔力に合う魔法は比較的簡単に、少ない魔力で簡単に扱うことができる。しかし、反対に適性外の魔法を扱うにはそれなりの魔力と経験が必要となるのだ。持っている魔力と相性の悪い魔法を無理に使おうとすれば、命を削ってしまうことも少なくない。

 しかし、まれにすべての属性の魔法を難なく扱える人間もいるという。

「全属性扱えるやつなんて、滅多にいないだろ」

「教団には、わりといましたよ? 血筋で言えばヘイワード家にはよくあることのようで、母も全属性の上級魔法を扱えました」

「そのチート能力も、神に愛されてるからか」

「愛されて……いるんでしょうかね」

 少し俯きがちに言うアリシアに、どうした、とアーサーが声を掛けようとする。しかし、それより早くアリシアは顔を上げた。

「あ、その水も浄化しましょうか?」

 飲み水にできますよ、と笑いかけるアリシアに、アーサーは非常に複雑な表情を浮かべた。

「いや、どこの魔法師だよ」

 そう言えば前に身を守る程度の魔法は使えるとか言ってたな。いや、身を守るどころじゃねえだろ。贄は魔法師より上級ジョブだから当たり前か?

 ぶつぶつと小言を呟きながら、アーサーは持っていたバケツをずい、とアリシアに突き付ける。浄化しろ、ということだろう。アリシアはバケツの上に片手をかざし、口を開く。

「おいしいお水になあれ」

「……なんだその掛け声」

「あ、無詠唱でもできますけど、なんとなく」

 恥ずかしいからやめてくれ。

 ため息を吐きながらアーサーは車の荷台から折り畳み式の椅子を取り出すと、アリシアに座れと促した。

「魔力使って、疲れねえの?」

 図星を指されたアリシアは、苦笑を浮かべながら静かに腰を下ろした。

 アーサーは乾いた薪を手際よく組み上げると、小さなサバイバルナイフで残った薪の一本を削って火をおこした。その上に使いこまれたクッカースタンドを渡すと、水を入れたケトルを置く。

 それだけ済ませると、彼は手近な場所にあった大きめの石に無言で腰を下ろした。自分が座っていた椅子を勧めようと腰を浮かせるアリシアを片手で制して、アーサーは燃える炎に目を向ける。

 パチパチと炎が燃える乾いた音。鳴き交わす鳥の声。風が吹いて、雲が押し流されて行く。

 不意に現れた太陽が強い日差しを投げかけて、翅を休めていた蝶が一斉に舞い上がる。つられて顔を上げたアリシアの目に、大きな虹が映った。

「アーサー! 見てください、虹ですよ!」

 その歓声に一瞬だけ視線を上げたアーサーは、呆れた顔でふっと苦笑する。

「んなもん、別に珍しくもないだろ」

「私には、珍しいんですよ」

 そう言ったアリシアは、立ち上がって両手を大きく空に向ける。

 そのまま走り出してしまいそうな彼女を呆れた表情で見ていたアーサーは、何か言いたそうにゆっくりと大きく息を吐いた。

「なあ。アリシア」

 不意に聞こえた自分を呼ぶ声に、はっとする。

「ちょっといいか?」

 静かな声に夢の光景が重なって、アリシアは慌てて周囲を見渡した。

 足音は、聞こえない。風の音と薪の爆ぜる音が、ただ耳に届くばかり。それにひどく安堵したアリシアは、決して座り心地が良いとは言えない椅子に腰を下ろした。

「ココルネが言っていただろ。俺の、過去に関わる話だ」

 ひどく真面目な口調で、アーサーが語り始める。

「俺が孤児だったってことは、ヨハンのじいさんから聞いたよな?」

 微かな声で肯定するアリシアに頷き返したアーサーは、ぽつり、ぽつりと言葉を選んでいく。

「ヨハンのじいさんと出会う前。俺には、兄がいたんだ……」


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