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幻灯の街4

 ココルネに促され先ほどと同じ席に勢いよく座り込んだアーサーは、琥珀色の髪をくしゃりと掻き上げた。微かな音と共に、淹れ直されたハーブティーが目の前に置かれた。

「お前は、きちんと説明もせずにあんな力を使わせて……」

「んなこと言ったって、事情も知らずにいきなり何かしてくるとは思わねえだろ?」

 小言を口にしたココルネと、反論したアーサーが同時にため息を吐く。

「アーサー、もう一度見せてみなさい」

 主語のないココルネの言葉に、アーサーは無言のまま左袖を肩まで捲り上げる。肩先の呪痕から伸びていた蔦は完全に消え、黒いカラスは輪郭が滲み、ぼんやりとした薄墨色の痣に変わっている。

「死んだの? こいつ」

 指先で痣を弾きながら問いかけると、呪いに死んだもなにもあるか、という呟きが返ってくる。

「呪いなんて、人が飼えるものじゃない。そいつはいつか暴れ出して、お前の命を道連れにするだろう。それは、ずいぶん昔にお前に言ったね」

 七つかそこらの歳だった。呪痕から走る灼けつくような痛みに、今にも死んでしまうのではないかと思っていた時だった。偶然、近くに居合わせたココルネに、命を救われたことがある。

「私にできることは、呪いの進行を遅らせることくらいだ。けど、あの子は呪いそのものを眠らせたみたいだね。さすがに、呪いを消すことまではできなかったようだけど」

 あるいは、しなかったか。

「呪いを眠らせることなんてできるのか?」

「普通はできないよ。けど、あの子は贄だ。この世界を存続させるほどの強い力を持っている」

「けど、力を使うにも条件があるみたいなことを言ってたぜ?」

 サクロサンクトを訪れたときのことを思い出す。あのときアリシアは、無条件に望みを叶えられるわけではないと言っていた。

「条件を満たしたんだろう。お前もずいぶんと無茶をする子だが、あの子もなかなか負けていないね。あんな力の使い方をしたら、体に負担がかかるに決まってる」

 ぽつりと呟いたココルネはアーサーの正面に座ると、美しい銀色の瞳でまっすぐに相手の目を見つめる。

 どちらも何も話さないまま、時間だけがゆるゆると流れていく。

 先に根負けしたのは、アーサーだった。ココルネの視線から逃れるように目を逸らすと、まだ熱いハーブティーに口を付ける。ココルネはアーサーから目を逸らすことなく、言葉を発した。

「きちんと話す気はあるのかい?」

「誰に、何を?」

「アリシアに、過去の話を」

 アーサーは曇り一つないガラス製のティーカップをソーサーに戻すと、黒いシャツの上から左の上腕を握り込んだ。

「遠からずお前は過去と対峙するよ。あの子と歩む旅の先で」

 ココルネの透き通った声が、静寂に響いた。呪痕を握りしめるアーサーの手に力が入る。指先が白く変わり、爪の先が今にも食い込みそうだ。

「……巻き込むつもりはねえんだよ」

 短い沈黙の後、絞り出すようにアーサーが呟く。その瞬間、予想外の言葉を聞いたとでも言わんばかりに、ココルネが目を丸くする。

「お前、そんなにあの子のことが気に入ってたのかい」

「……何言ってんだ、ババア?」

 視線を上げたアーサーが、思い切り眉根を寄せてココルネを睨みつける。当のココルネは、少しも動じずに楽しそうな笑い声を上げた。

「ははっ。それでいつまでも黙っていたのかい」

 かわいいところがあるじゃないの、という彼女の言葉に、非常に大きな舌打ちの音が重なる。しばらくおかしそうに笑い続けたココルネはゆっくりと笑みを引っ込めると、アーサーの名前を呼ぶ。

「きちんと話しなさい。お前の過去に巻き込むことになるかもしれないが、それがお前たちの行く道なんだろう」

 それだけ言うとココルネは静かに立ち上がる。部屋を出る直前に、彼女はふと思い出したように付け加えた。

「庭の隅に、雑草が溢れているんだ。腕の調子も良いようだし、老いぼれに変わってむしってくれるとありがたいねぇ。今日は泊まっていくことになるかもしれないしねぇ」

「ふざっけんな、ババア」

 追いかけてくる悪態に意地の悪い笑い声を返しながら、ココルネは部屋を出て行く。

「お前たちが出会ったのは、必然だと思うがねえ」

 微かな呟きは、誰にも聞かれることなく静寂へと消えた。




 まどろみの中で、夢を見た。

 青々とした草原地帯に車を停めて、

 降り注ぐ日差しとそよぐ風。日に日に青さを増していく空。夏が、近い。

 きれいな光景だと思う。

 優しく吹いた風にそよぐ若葉や、そこに混じる色鮮やかなナデシコ、ツユクサ、レンゲソウ。柔らかな日差しの下に広がる、平和で穏やかな世界。

 けれど、隣に座る青年には、きっとこの世界は違う見え方をしているのだろう。

「ねえ、アーサー。アーサーにとって、世界はどんな場所ですか?」

 そよぐ風にすら掻き消されてしまいそうなほど微かな言葉が、宙に浮いた。ぽつり、と。

 あなたはどうして、私の旅についてきてくれたんですか?

 あなたにとってこの旅は、どんな意味を持っていますか?

 私にとって、世界は……。

 ちらりと向けた視線の先で、アーサーが何かを言おうと口を開くのが見えた。




 目を覚ますと、傾いた太陽が空の端で赤く燃えていた。振り子時計の針が動いて、低いくぐもった鐘の音を鳴らす。日暮れ時。

 窓の外。長くなった影を引き連れて、庭の隅に座り込んだアーサーが何やら草むしりに精を出しているのが見えた。

 その背中の向こう。続くリンゴ畑のさらに先に、街の明かりが瞬き始めているのが陽光に霞んで見えた。

「目が覚めたかい?」

 どこからともなく、美しい声が聞こえた。

 柔らかいタッチで描かれた風景画を何枚も飾った壁。開け放したままのドアの向こうから、ココルネが顔を出した。

「はい。ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 恥ずかしそうに言うアリシアに笑いかけたココルネは、魔導灯のスイッチを入れる。少し古びた照明用の魔道具がジジ、と低い音を立ててゆっくりと光り始める。スティオリの中心街に溢れていた強い光の魔導灯とは違う、柔らかな明かりにほっとした。

「もう遅くなるからね。今日は、泊まっていきなさい」

 隣室はキッチンなのだろう。開け放した扉の向こうから、火にかけた鍋が立てるコトコトという音が聞こえてくる。肉や香味野菜、ハーブのいい匂いが漂ってくる。思わず大きく息を吸い込んだアリシアに、ココルネは声を上げて笑った。

「すぐに夕食になるよ」

「私も、何か手伝います」

 慌ててソファーから降りたアリシアに、ココルネは窓の外を指差した。

「それじゃあ、アーサーを呼んで来てくれるかい?」




 朱色から薄紅、淡藤、紺藤、群青へ。少しずつ色味を変えていくグラデーションの空。吹き抜けた涼しい風が、ポプラの木を鳴らす。そこに混じったアリシアの足音に、芝生の上に座り込んで難しい顔で魔導端末を眺めていたアーサーが顔を上げた。

 東。

 短い言葉で書かれたメッセージは、先日会った情報ギルド員、オーウェル・ウォードから送られてきたものだ。余計な述語も修飾語もない簡潔すぎる文章は、それでもアーサーにはっきりと意味を伝えた。

 アリシアの目から隠すように、アーサーは端末のスイッチを切るとズボンのポケットに押し込む。

「起きたか? 具合は?」

 何気なく気遣ってくれる言葉が嬉しくて、アリシアは自然に頬が緩むのに任せて笑う。

「もう大丈夫です。アーサーは、どうですか?」

 彼はアリシアの問いかけには答えずに、見ての通りとでも言うように左手を軽く振って見せた。

「ココルネさんが呼んでいました。中に入りませんか?」

「おう」

 短い返事とともに立ち上がったアーサーは、アリシアの横を通り過ぎる。彼は玄関の扉を開けたところで振り返り、早く来い、と声を掛けてくる。暮れなずむ空に目を向けていたアリシアは、慌てて駆け寄った。

「ここは、星が見えないんですね」

 少し寂しそうに言うアリシアの言葉に、アーサーはくだらない、と肩をすくめた。

 リビングルームの隣から、ココルネが呼ぶ声がする。

 さほど広くないダイニングキッチンには、やや小ぶりな丸テーブルが置かれていた。

 大人が三人で囲むには少しばかり狭いテーブルの中央に、大ぶりの鍋がどんと置かれている。ほかほかと湯気を立てているのは、大きくカットした野菜をたっぷり使ったポトフだ。その隣にはシンプルなニンジンのラペと彩りも鮮やかなカナッペの皿。鶏肉とインゲン豆のトマト煮込みに、ほうれん草のキッシュ。

「あの。ココルネさんは、どうしてスティオリの街に?」

 声を揃えて食前の挨拶をしたあと。

 大皿料理をゆっくりと取り分けるココルネに、アリシアが何気なく問いかける。

 大都会というほどではないが、スティオリは魔導の街だ。自然と調和した暮らしを好むエルフにとってこの街は、お世辞にも住みやすい環境とは言えないだろう。中心街から離れているとはいえ、安住の地とはとても言い難いこの場所に彼女が留まる理由が気になった。

 アリシアの問いに、ココルネはキッシュを載せた皿を静かにアーサーの前に置く。アーサーは一瞬眉間に皺を寄せ、何とも言えない顔をした後で、何事もなかったかのようにカナッペに齧りつく。

「今は、待っているからね」

「待つ?」

「小さな子どもさ」

「子ども、ですか?」

 それぞれの皿に料理を分け終えたココルネは静かに腰を下ろすと、目を細めてふふふと笑った。

「昔、人間の青年に恋をしてねぇ。伴侶に先立たれた後で、一度はこの街を出たんだ。けど、どうしても子孫のことが気になってね」

 遠い遠い過去を振り返るように、ココルネが目を閉じる。美しい少女の顔が、長い歳を重ねた老婆のものに見えてアリシアは思わず目をこする。

「長い年月にだいぶ血は薄れたが、先祖返りってものなんだろう。先読みの力を強く受け継ぐ子が生まれてね。強すぎる力のせいで親からも見捨てられた子だ。それがあんまり哀れだったから、弟子として育ててやったんだ。けど」

 年老いた彼女は言葉を区切ると、ゆっくりと大きく息を吐いた。

「けど、先読みの力を扱えるようになった途端に、周りから利用されるようになってね。甘い言葉に惑わされて、街を飛び出したのさ」

 情けない子だ。

 そう言いながらも、彼女はほんの少しの心配と深い信頼の混じった目で遠くを見つめた。

「連れ戻してあげたりは、しないんですか?」

「いいや。それがあの子の運命だからね」

 くっくっと笑い混じりに言って、ココルネは目を開いた。

「あの子が全てをやり遂げて、いつか自分の足でここに戻ってくるのを待っているのさ」

「なあ、婆さん。その小さい子って……」

 トマトソースをたっぷり絡めた鶏肉をスプーンで掬いながら、アーサーが会話に加わる。しかし、彼は言いかけた言葉を食事と一緒に飲み下した。

「いや、やっぱ何でもないわ」




 真っ暗な闇の底を、意識がたゆたうような夢を見た。

 光のない、黒の中にゆっくりと沈んでいくような。少しばかりの不安と、不思議な安らぎが入り混じったような、そんな夢。

 まどろみの中で意識のどこかが覚醒していて、その夢の意味を探ろうとする。そんなアリシアの意識を誘うように、声が聞こえた。

『今は、ゆっくりと休みなさい』

 優しい声に導かれるように、意識はより深い眠りに落ちていった。




 カーテンの向こうに広がる空には、どんよりとした雲が立ち込めていた。雨粒が窓を叩く微かな音が、途切れることなく続いている。

 かけ忘れた目覚まし時計の表示を三度見返したアリシアは、慌てて身支度を済ませると急な階段を転がるように駆け下りた。

「おはよう、お嬢。朝から騒々しいな」

 おっと、もう昼も近いか。

 ダイニングキッチンでコーヒーを飲みながら新聞に目を通していたアーサーが、朝の挨拶に嫌味を重ねる。

「すみま……」

「そういうお前も、ついさっき起きたところじゃないか」

 謝るアリシアの声を遮って、ココルネが二人分の朝食を運んでくる。カリカリに焼いたトーストと、木苺のジャム。半熟の目玉焼きに摘みたてのベビーリーフを使ったサラダ。温かい紅茶。

 アリシアが朝食を食べ終えるのを待って、ココルネは古びた本を差し出してくる。金箔押しのタイトルはすっかり掠れているが、魔導書だということはすぐにわかった。装丁が傷みかかっているその本はページが日に焼け、何度も開かれた跡が残っている。その所々に、真新しい付札が挟み込まれていた。

「魔石の管理の仕方と、簡単な手入れの方法が書かれている。持って行くといい。わからないことがあれば、連絡しなさい」

「わあ。ありがとうございます、ココルネさん」

 受け取った本を大切そうに抱えて、アリシアは深く頭を下げる。

 ココルネは荷物を積み終えて戻ってきたアーサーに向き直ると、シャツの袖を勝手に捲り上げて左腕を確認する。腕に残された呪痕は昨日と変わることなく、薄い痣のようにそこにあるだけだ。

「何か、異変があればすぐにおいで」

「へいへい。さっさと行こうぜ」

 ぞんざいな返事をしたアーサーは、アリシアに声を掛けると振り向きもせずに歩き出す。その後ろ姿を、ココルネが優しい表情で見つめていた。

 外に出ると、しとしとと穏やかに降る雨が庭の景色を霞ませていた。

「じきに、雨が上がるよ」

 菫色の傘をさして見送りに出てくれたココルネが、ぽつりと呟いた。

「お世話になりました」

 ゆっくりと遠ざかる車の助手席から身を乗り出して、アリシアが手を振っている。その姿がすっかり見えなくなるまで見送ったココルネは、ゆっくりと口角を上げた。

 少しずつ、崩れるように流れていく雲。地に届く柔らかい日差し。優しく降り続いていた雨の最後の一粒が、地に降りる。天候の回復を待って舞い飛ぶ蝶の群れ。

 やがてけたたましいエンジン音が近付いたかと思うと、黒い大型のバイクがココルネの目の前に停まる。

「ちょっと、ばあちゃん! あいつら、知り合いだったの?」

 黒いヘルメットを外しながら、長身の男が降りてくる。ココルネの持つ銀色とはかけ離れた、チャコールグレーの髪と瞳。

 庭先で彼の到着を待っていたココルネは、嬉しそうに銀の目を細くする。

「お前はいつも賑やかだね、グランディー。元気にしていたかい?」

 細身のスーツから動きやすいカーゴパンツと紺色に染められた革製のジャケットに着替えたグランディーは、大きくため息を吐きながら暗色の髪をくしゃくしゃと掻きまわした。

「もー、知り合いなら引き留めといてくれてもいいのに」

「お前が追いかけている相手とは知らなかったからね」

 ココルネはくっくっと短く笑いながら、いたずらっぽく言葉を返す。

「グランディーや、お前はいったいいつ戻ってくるんだい?」

 ココルネの問いかけに青年は軽く肩をすくめてみせると、再び黒いバイクに跨った。

「さあね。今じゃないことは、ばあちゃんが一番よく知ってるでしょ」

 じゃあね、という素っ気ない言葉とともに、エンジン音が遠ざかる。そうして訪れた静寂の中で、若々しい老婆はやれやれ、と呟いた。

「お前たちの幸運を願っているよ」


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