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夕霧の湖 4

 ここで旅を辞める気はないかな、アリシア。

 柔らかい声が、耳に届いた。優しく、静かに、アリシアを諭すような、そんな声。

 楽しかったろう?

 嬉しかったろう?

 きれいなものを、たくさん見たね。

 だから、そろそろ帰ろう?

 君は、贄なのだから。

 ああ、帰らないと。私は、贄なのだから。だけど、まだまだ帰りたくないの。まだ、世界を見てみたい。許されるのなら、もう少しだけ。あと、少しだけ。

 その願いに応えるように、誰かの力強い手がアリシアの手を引いた。




「……―い。大丈夫? 眠い?」

 突然声を掛けられて、アリシアははっと意識を現実に引き戻す。夢の残像が現実に混じって、少しだけ頭が混乱した。

 小さな礼拝堂を出て車に戻ったあと。小さな料理店で昼食を食べながら午後の予定を尋ねられたアリシアは、ギルドで渡された「街の見どころリスト」を片手に、次の行先を決めあぐねていたところだ。暖かい空気と程よい満腹感に、ついぼんやりとしていたらしい。

「あ、すみません。見たい場所がたくさんありすぎて、決められなくて……」

「うんうん、そういうのわかるよー。でも、一日で全部は回れないから、ジャンルで決めようか。歴史的な場所を探索したいとか、おいしいものを食べに行きたいとか」

「あっ、それなら私、この地域の伝統工芸に興味があります!」

 アリシアの言葉をふんふんと頷きながら聞いていたライアンは、少し考えた後でよし、と呟いて立ち上がった。

 小さな車で湖畔をぐるりと半周し、ライアンはアリシアを街のあちこちへと誘う。

 時計職人の工房に、歴史を感じるオルゴールを展示した美術館。組子細工の店。最後に案内されたのは、ガラス細工の工房だった。

 観光地としても有名な場所なのだろう。広い敷地の片隅には、馬車が数台繋がれている。その脇には三角形の巨大な屋根を乗せた印象的な建物が見える。

 その入口。ポーチの屋根から、透明なガラスでできたクラゲのような物体が無数に吊るされている。大人が手を伸ばせば届きそうな高さにある丸っこい形の傘には、花や生き物、幾何学模様など、さまざまなデザインが施されている。傘の中央からは、色とりどりの短冊がぶら下がっているのが見えた。

「これ、なんですか? ベル?」

 アリシアが短冊の先にそっと手を伸ばした時だった。

 ふわりと風が吹いて、一斉に短冊が揺れる。その瞬間、無数のガラスがちりちりと涼やかな音を奏でた。風が吹き止んでも余韻を残すその音色に、アリシアは思わず拍手をする。

「風鈴だね」

 一足先に入口の扉を開けて待っていたライアンが、短く説明する。

「とても素敵です!」

 微かに残る音色に誘われて工房に入ると、中はまるで巨大なジュエリーボックスのようだった。涼し気な色合いのグラスや食器。大小さまざまな置物。色とりどりのアクセサリー。

 きれいに陳列された品々が照明の光を弾いて、きらきらと眩しい。

「工房で作られたガラス細工を売ってるんだ。お土産にぴったりだよ……って、聞こえてないかな?」

 アリシアは切子のグラスを両手に掲げては吐息を漏らし、海をテーマにしたスノードームを見ては目を輝かせている。どうやらライアンの声はろくに届いていないらしく、返事さえ忘れて夢中になっている。

「ほらほら、さっき外にあった風鈴も売ってるんだけど、どう?」

 優雅に泳ぐ金魚をモチーフにした風鈴を目の前に差し出されて、アリシアはようやくライアンの存在を思い出したらしい。恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「あっ、すみません。つい夢中になってしまって」

「大丈夫だよー。それより、お土産にどうかな?」

「いえ。旅をしている身ですから、荷物になってしまうものは持ち歩けなくて」

 すみません、と繰り返すアリシアに、ライアンは鋭い目を細めたまま、そっかそっかと答える。

「旅は、これからも続けるつもりなんだね」

「ええ。なるべくたくさんの場所を、見て回りたいんです」

「それはいいね」

 その言葉に、ライアンはもう一度頷くと、差し出した風鈴を元の場所に戻した。

「それじゃ、これはどうかな?」

 代わりに彼が差し出してきたのは、親指の先ほどの小さな瓶だった。シンプルな四角いデザインの小瓶は蓋の部分に留め具が取り付けられており、アクセサリーやキーリングとしても使えそうだ。

「お連れさんに、買って行ってあげたらいいかもね?」

 アリシアは商品棚から目の前の青年に視線を移し、ふふっ、と笑った。

「連れがいることが、よくわかりましたね」

「……祈祷師が一人で旅をすることはあんまりないからね。護衛がいるのかなと思っただけだよ」

「ええ、大正解です。今日は少し用事があるそうで、別行動をしています」

 そう言ってアリシアは、少し高い棚から薄い青の小瓶を手に取った。

「せっかくライアンさんがおすすめしてくれたので、これ、買ってきますね」

 ライアンは口元だけで笑顔を作ってみせた。

「こちら、贈り物でしたらきれいにお包みしましょうか?」

 会計用のカウンターに立っていた若い女性はお金を受け取ると、アリシアの顔を覗き込んでくる。

「いえ、大丈夫です」

 アリシアが笑顔を返すと、店員の女性は小さな紙袋に小瓶を入れてくれた。

「ガラス製品なので、気を付けてお持ちくださいね」

 丁寧に見送ってくれた女性に会釈を返し、工房内を見回す。人目を引くはずの真っ黒なスーツ姿の青年は、どこにも見当たらなかった。

 微かな風が吹くたびにきれいな音色を奏でるポーチを抜けて外に出ると、入口脇のベンチに探している姿を見つけた。

 ライアンは木製のベンチの端に座って足を組み、携帯用の魔導端末で誰かと電話をしている最中だった。立ち聞きをするのはあまりにマナー違反な気がして、アリシアは少し離れた場所で用が済むのを待った。

「ごめんごめん。急に連絡が来ちゃって、電話させてもらってたんだ」

 それほどかからずに電話を切ったライアンは、ぼんやりと湖を眺めていたアリシアに声を掛ける。

「いえ、お気になさらずに。湖があまりにもきれいで、見とれてしまってました」

 柔らかい笑顔を浮かべたアリシアが答える。

 夕暮れ時。傾いた太陽の光が、湖と対岸に広がる街並みを赤く染め上げている。どこか温かい光景に、つい見入ってしまう。

「最後に、ちょっとだけお茶をしていかない?」

 ライアンが腕時計を確認しながら、車へとアリシアをエスコートする。

「でも、そろそろ戻らないといけなくて」

「大丈夫、大丈夫。そんなに時間は取らせないからさ」

 アリシアを助手席に乗せた車は湖畔を囲む通りを離れ、街の片隅にある小さなカフェの前で停まった。農業用に整備されたエリアなのだろう。連なっていた露店や民家はその店を最後に途絶え、あとは麦畑ばかりが広がっている。暖かかった光は少しずつ弱まり、空を赤く染め上げている。夕暮れ時の涼しい風が首元をすり抜けた。

「実はね、ギルドのサービス向上のために、今日の感想を聞いておかないといけないんだよ。もし約束に遅れちゃったら、僕からも謝るからさ」

 ちゃんと感想聞いとかないと、しーちゃん先輩に怒られちゃうんだよ。困った表情で必死に懇願するライアンに、アリシアは苦笑を返した。

「そういうことでしたら、少しだけ……」

「ほんと? ありがとう! 助かるよ」

 答えを聞くや否や、素早く車から降りたライアンはアリシアの背中を押して歩く。

 ログハウスを模したカフェの重い扉を開くと、カウンターの奥でグラスを手入れしていた壮年の男性が人当たりの良い笑顔で迎え入れてくれた。

 店内には他に客の姿はなく、静かな空間に掠れたレコードの音が響いている。

 ライアンはアリシアを奥まったテーブル席に座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。

「好きなものを頼んでね。僕のおごり」

「それじゃ、ミルクティーをお願いします」

 ライアンはすぐに店員を呼ぶと、ブレンドコーヒーとミルクティー、木苺のケーキを注文する。黒いカフェエプロンを付けた男性はすぐにトレイを片手に現れ、コーヒーをライアンの前に、ミルクティーとケーキをアリシアの前に並べて去っていく。

「あの」

「ケーキも君に食べてもらおうと思ったんだよ。遠慮せずにどうぞ」

 ライアンに促され、アリシアは銀色に磨かれたフォークでケーキの端を掬い取る。濃厚な生クリームと、木苺の酸味が口いっぱいに広がる。思わず口元がほころんだアリシアに、ライアンは得意げに頷く。

「ここのケーキ、すごくおいしいよね。若い女の子に人気なんだ」

 二口目を口に運んだアリシアは、こくこくと何度も首を縦に振って同意する。

「さて、本題ね。今日はどうだった?」

「おかげ様で、とても楽しかったです。こんなにあちこち連れていってもらえて、とても充実した時間でした」

 行儀よくケーキを食べる手を止めて、アリシアは頭を下げる。

「そっか。それは良かった。それでね」

 向かいに座るライアンは厚みのある木製テーブルに頬杖をつき、鋭いチャコールグレーの瞳を細めてアリシアを見つめた。

「ここで旅を辞める気はないかな、アリシア」

「アデル、です。祈祷師の」

「偽名はいいんだよ、もうバレてるんだからさ。贄のアリシア・ヘイワード」

 アリシアは困ったように小さく笑うと、温かいミルクティーを一口飲んだ。

「あなたは、騎士団の方ですよね。大司教様の直属部隊の方でしょうか。こんなに早くいらっしゃるとは思いませんでした」

 贄の一族を信仰の対象とする、神教。その組織の中でアリシアを含む一族、アーデルハイト家は大きな影響力を持っている。だが、実際に教団の首長としてすべての権力を握っているのは、大司教だ。

 当代の大司教は、イーサンという名の老齢の男だった。アリシアが生まれたときには、すでに大司教の地位に就いていた。白い立襟の皺ひとつないカソックをきっちりと着こみ、いつも足早に歩く彼を、白い森の中で何度か見かけたことがある。贄の魂を慰めるための鎮魂の儀式で奉じられる詠歌が耳に心地よかったことを思い出す。

 イーサンは誰よりも厳粛で規律正しく、模範的な聖職者だったように思う。だからこそ、間違いを犯した者に対しては厳しい一面もあった。夢に干渉する能力を発現し、次代の贄になるはずのアリシアが町を出たことを許すはずがないのだ。決して。

 大司教であるイーサンは、身辺警護や過ちを犯したものを取り締まるための精鋭部隊を有していた。聖騎士団の中でも、もっとも腕の立つ者たち。旅に出た瞬間から、彼らがやがてアリシアの元にやってくることはわかっていたのだ。

「よくわかったね、アリシア。それじゃ、僕の本名を教えてあげる」

 にこやかだけれど、どこか冷たい。鋭く尖った氷のような印象を与える表情で、彼は言葉を続けた。

「僕の名前は、グランディー・キーツだよ」

 グランディー。その名前を小さく繰り返しながら記憶を辿ったアリシアは、驚いたように少しだけ目を見開く。

「イーサン様の後継者候補でしたよね? そんな方が、わざわざ私を連れ戻しに?」

 しゃんと背筋を伸ばして公務に望むイーサンだが、齢はすでに七十を超えている。そんな彼の後継者としてそばに控えていた青年が、グランディーという名前だったはず。魔力にも能力にも優れた、非常に有望な人物だと小耳にはさんだことがある。人々を導くナビゲーターという才を持っている事実が、急にしっくりきた。

「僕じゃなきゃダメだったんだよ。君は出生が特殊だからね。君の顔をはっきりと知っている人間なんて、教団にもほとんどいない。ナビゲーターとしての能力に頼らなきゃ、君を探せなかったんだよ」

「それは……。なんというか、すみません」

「いや、そこで謝られても困るけどさ」

「ふふ。それもそうですね」

 柔らかいレコードの音色が響く店内。二人分の笑い声が、ほんの少しだけ空気を和らげる。

 アリシアは上質な陶器のティーカップに残った紅茶を飲み干すと、カップを再びテーブルに戻した。ソーサーが立てた微かな音が、グランディーの笑みを消す。

「グランディー。ここまで来ていただいて申し訳ないのですが、私の旅は、まだ終わりません」

「それは、夢のお告げかな?」

「ええ。そんなところです」

 アリシアは再び目の前の青年に笑いかけると、カウンターの脇にある扉へと目を向けた。その瞬間、扉が外側から勢いよく開く。驚いた店員が呆気にとられる中、素早く立ち上がったアリシアの手を、骨ばった大きな手が引いた。

「悪いな、キツネ野郎。こいつはまだ、帰る気はねえとさ」

 琥珀色の髪を乱しながら現れたアーサーは悪態をつくことだけは忘れずに、アリシアを連れて店の外に飛び出す。

 事態をまったく飲み込めていない店員が、おろおろとグランディーを見た。

「やー、騒がせちゃってごめんねぇ」

 それだけ言うと、真っ黒なスーツ姿の彼はテーブルの上に少し多めの飲食代を置き、足早に扉から外に出る。

「ああ、そうですかってわけにいかないんだよね。少し手荒だけど、ごめんね」

 砂利の敷き詰められた空き地。停められたピックアップトラックに乗り込もうとしていた二人に、グランディーが手のひらを向けた。

 ゴウッ。

 重い唸りのような音を立てて、その手に真っ赤な火炎が生まれた。一瞬の後には燃え盛る火球となったそれを、グランディーは躊躇もせずに二人に向けて放つ。

 反射的に掛け寄ったアーサーが、アリシアを腕に抱き込んでかばおうとする。しかし、彼女はするりとその腕から抜け出ると、アーサーの前に歩み出た。

「おいっ!」

「大丈夫です、アーサー」

 アリシアが呟いた瞬間、彼女の前方に迫った火球が、見えない障壁に阻まれて消え去った。同時に、半円を描くように魔法壁の残跡がわずかな光を放って消えた。

 グランディーの吊り上がった目が、焦りの色を宿す。

 アーサーは僅かな隙を逃さずにアリシアを助手席に押し込むと、車を急発進させた。人気のない通りに出た瞬間、追撃となる炎魔法が背後で弾けた。アーサーはアクセルを踏み込み、湖を囲む道を猛スピードで走り抜ける。

 魔法の射程距離を外れたところで、アーサーが速度を落とした。助手席から後ろを振り返ったアリシアが、不思議そうに首をかしげる。

「追ってこない、ですね?」

「来られねえよ。タイヤ、パンクしてんだから」

「え」

 思わず心配そうな表情を浮かべたアリシアに、アーサーはじろりと冷たい視線を向けてくる。文句があるなら言ってみろ、という幻聴が聞こえた気がした。

「あの。遅くなってしまってすみませんでした」

 苦笑しながら話題を変えると、アーサーは何も言わずに前を向いた。

 そろそろ乗り慣れてきたアーサーの車は湖を通りすぎ、対岸の町を通り抜けて山道へと入っていく。くねくねと続くカーブをいくつも過ぎた先。見晴らしの良い展望台で、ようやくアーサーは車を停めた。

 遠く。まだわずかに赤みを残した空に、山の稜線が陰となって連なる。その中に、ひときわ際立つ雄大な山が見えた。先ほど通り過ぎてきた湖が、遥か下方に見える。サウワの街並みは雲海の中に沈み、その隙間から柔らかい街明かりがちらちらと瞬いている。

 まるで幻想的な絵のよう。現実とは思えないほど美しい光景に、アリシアは車を降りると思わず息を呑んだ。

「すごいですね……」

「こういうの見たかっただろ、お嬢」

 わざわざ連れて来てくれたらしいアーサーが、口を開く。ほんの数時間しか離れていなかったのに、その声が妙に心地よく感じた。

「今日、サウワ湖の周りをあちこち散策しましたけど、ここから見る景色がいちばん素敵です」

「そりゃ、何よりだ」

 アーサーは軽く肩をすくめると、ピックアップトラックの後方を入念にチェックし始めた。先ほどの攻撃で、傷が付いていないか確認したいのだろう。

「あの、アーサーはよく私の居場所がわかりましたね?」

 待ち合わせ場所に辿り着かなかったというのに、よくあんなにもタイミングよく来てくれたものだと思う。

 アリシアの言葉に、アーサーは突然苦々しい表情を浮かべた。

「……お前、金貨一枚俺に寄越せよ?」

「え? え? 金貨?」

 げんなりした調子で言うアーサーに、アリシアは戸惑った表情を浮かべる。

「あんたを探すために情報屋をこき使ったから、吹っ掛けられたんだよ」

 あいつ、足元見やがって。ぶつぶつと呟くアーサーに、アリシアは何かを察したようにすみません、と呟く。アーサーはため息を吐いて、別にいいけどよ、と答えた。

「で? 次の行先は決まったわけ?」

「あっ……」

「まだ決まってねえのかよ」

「す、すみません。いろいろありすぎて」

「明日の朝までに決めとけよ」

 アーサーは、そんなことだろうと思ったと言わんばかりの呆れ顔でアリシアを手招きする。

「とりあえず、急いで麓町の宿に行くぞ。早くしないと野宿だからな」

「あっ、待ってくださいアーサー」

 さっさと運転席に滑り込むアーサーを追いかけて、アリシアは夕霧に沈む街並みに背を向けた。


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