夕霧の湖 3
店を出ると、高く昇った太陽の光が肌に刺さった。
「最初は、どこが見たい?」
黄色いコンパクトカーの運転席に収まったライアンが、内側から助手席のドアを開け、アリシアに手招きする。車高の低い小型車は長身の彼にはひどく不釣り合いで、頭が今にも天井につかえそうだ。真っ黒なスーツという服装もちぐはぐで、アリシアは思わず小さな笑い声を漏らした。
「ふっ、ふふふっ」
「おかしいよねぇ、この車。本当はもっと大きいのもあるんだよ? しーちゃん先輩、ほんとに僕のこと嫌いなんだからさぁ」
「ごっ、ごめんなさい」
助手席に乗り込んだアリシアは、どうにか笑いを引っ込める。
「私、ぜひサウワ湖を見てみたいです」
「湖だね。今日は天気もいいから、湖畔を少し歩いてみるのもいいかもよ」
ライアンの言葉を合図に、小さな車はゆっくりと動き出す。
「観光案内ギルドにも、車があるんですね」
「珍しい?」
「ええ。実は、この年まで車を見たことがなかったので」
「でも、乗ったことはあるんだ?」
「え? ええ、まぁ」
男の問いに、アリシアは苦笑を浮かべて言葉を濁す。
「観光案内をするなら、馬車よりも小回りがきくからね。維持費はともかく、馬を飼うよりも整備もしやすいんじゃないかなぁ。僕はしたことないけど」
車もさ、あんまり運転したことないんだよねぇ。不安を煽る発言とは裏腹に、ライアンは危なげない様子で道を進んでいく。
賑わう街の喧騒を抜けると、緩やかな流れの川に出る。小川と呼ぶには幅があり、けれど大河と呼ぶには控えめすぎる流れの中に、水鳥の群れが浮いている。緩やかに蛇行するその流れに沿うように、下流へ向かう。
「サウワ湖はさぁ、ちょっと前まで汚染がひどかったらしいんだよね」
「汚染、ですか?」
「うん。生活排水で汚れてたんだって~。それを、やっと鳥や魚が住める状態に戻したところみたいだよ」
人の暮らしが栄えている場所では、環境汚染が進んでいると聞いたことはあった。けれどそれは、贄の町、白い森の奥でひっそりと生きていた自分には、まるで関係のない話だった。どこか遠い世界の、おとぎ話のようなものだと思っていた。
「見えてきたよ」
ぼんやりと物思いにふけっていたアリシアは、その一言に意識を戻す。
目を向けた先。川幅が徐々に広くなり、突然視界が開けた。今朝方、後にしたサクロサンクトとは規模が違う。豊かな水を蓄えた湖が、目の前に佇んでいた。
「わぁ……」
アリシアが感嘆の声を上げる。ライアンは吊り上がった目を細めて助手席に座るアリシアに笑いかけると、雑草が生い茂る湖畔に車を停めた。
「少し、歩いてみる?」
「いいんですか? ぜひ!」
目を輝かせながら即答すると、アリシアは助手席から転げるように外に出た。
湖の周りにはぐるりと遊歩道が整備され、散歩を楽しむ人の姿がちらほらと見える。水の上を悠々と遊覧船が進んでいく。遠く、対岸に見える街並みが美しい。そして。
「……フナのにおい」
少し大きいキャスケットが飛ばないように片手で押さえたアリシアは、苦笑を浮かべて呟いた。
「生臭いよねぇ。今の時期は、藻が繁殖するからさ。ほら、あれ」
アリシアの言葉を聞き逃さなかったライアンが、湖の浅瀬を指差した。
彼の示す先には小舟が数隻浮かんでいる。それぞれの舟に乗った作業服姿の男性たちが、小型の鍬のような道具で水草を刈り取っているのが見えた。
「あれは何ですか?」
「手作業で藻を刈り取るんだよ。できれば魔術でばーっと焼き払ってもらいたいんだけど、一気に焼くと生態系が崩れるんだってさ」
不快感をあらわにしながら、ライアンが眉根を寄せる。
「あれさぁ、大変なんだよ。僕らギルド員も強制参加でやらされたんだけど、くさいし疲れるし汚れるし。せっかく刈ってもすぐ生えてくるしさ」
「それは、お疲れさまでした」
「でもさ、おかげで結構きれいな景色だと思わない?」
風が渡って、水面にさざ波が立つ。空の青を写し取ったような湖に陽光が弾けて、きらきらと眩しい。遥か高い空を、鳶が旋回していくのが目に映った。
「ええ。きれいですね、とても」
眩しさに目を眇めながら、アリシアが答える。その言葉に、一瞬だけライアンの目が冷たくなった。ような気がした。
「こっちだよー」
切れ長の目を笑みの形に細めて、彼は遊歩道を歩きだす。その少し後ろを、アリシアはゆっくりとついていく。
馬車や車が行き交う車道との境には、等間隔に街路樹が植えられている。暖かい日差しの中、枝先には新緑の葉に混じって薄紅色の小さな花が咲いている。
「あれ、サクラですか?」
頭上を見上げたアリシアが足を止めると、少し先で振り向いたライアンはゆっくりと首を振った。
「あれは、カリンの木だね。サウワのシンボルだよ」
アリシアが再び歩き出すのを待って、隣に並んだ彼は言葉を続ける。
「サクラが見たかった?」
「ええ。ナノ地方のサクラは有名ですから、一度は」
「そっか。サクラは一斉に咲いてすぐ散っちゃうからね。もう少し、春の浅い時期なら見れたかもね」
「そうなんですね。残念です」
アリシアは、しょんぼりと肩を落とす。
「また、見る機会があったらいいよね」
どことなく含みのある言葉に、突然鐘の音が重なった。
思わず視線を向けた先にあったのは、小さな礼拝堂だった。レンガ造りの建物の外には、銀色の鐘を吊るしたアーチが見える。白いアーチの周囲には、色とりどりのドレスや礼装に身を包んだ人垣ができている。その中心。ベルロープを握り、力いっぱい引いているのは、真っ白な婚礼衣装を身に纏った一組の男女だ。
「わぁ。結婚式ですね。素敵」
立て続けに三度鳴った鐘の音に負けないよう、アリシアが大きな声を出す。
「そうだね。この辺りだと、結婚式に遭遇したときは新郎新婦に野の花を送ると幸せを分けてもらえるっていうんだけど、やる?」
ライアンはそう言うと、頭上に咲いていたカリンの花に手を伸ばす。
「えっと。木がかわいそうなので、むしらなくて大丈夫です」
「そう?」
じゃ、行こっか。
そう言いかけたライアンの脇をすり抜けて、アリシアは人の輪の外側で両手を空に向ける。
「花を」
短い言葉に応えるように、澄んだ空から無数の花が舞い落ちた。青いデルフィニウム。
降り注ぐフラワーシャワーに気付いた参列者たちが、一斉にアリシアに視線を向ける。集まった人の輪が左右に分かれ、鐘の下に立つまだ若い新婦がアリシアに笑顔で手を振る。
「どうもありがとう、魔法使いさん」
途端に恥ずかしくなったアリシアは、顔を真っ赤にして大きくお辞儀をした。
「どうぞ、お幸せに」
逃げるように遊歩道に戻ったアリシアに、ライアンが笑いかける。
「君、ずいぶん大胆だねぇ」
「す、すみません」
「いや、別に責めてないけど」
それにしても、と前置きしたライアンは、アリシアの顔をまじまじと見つめる。
「君、魔法も使えるんだね。祈祷師かなと思っていたんだけど」
ギルドの支部で、形ばかりの契約書類に偽りの名前や職業を記入したのは、ほんの数時間前のこと。にこやかな印象を崩さないチャコールグレーの細い目がしっかりと自分に向けられて、アリシアは落ち着かない気持ちで笑顔を返す。
「えと、魔法はほんの少しだけ使える程度です。本業は、祈祷師で合っていますよ」
「そっか」
アリシアの返答を気にすることもなく、ライアンは頷く。
「そろそろ車に戻ろうか。他にも案内したいところがあるからさ」
魔法の使える祈祷師だって、珍しくないはず。何もおかしなことはしていないはず。
アリシアは自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、先を行くスーツ姿の背中を足早に追いかけた。
窓から吹き込んだ風が、埃っぽい空気を攫っていく。
来客用の簡素な丸椅子に腰かけたアーサーは、背もたれの代わりに窓枠に背中を預けて携帯用の魔導端末を操作していた。
クロスも飾りもない質素な木製の丸テーブルには、契約継続の依頼書が一枚。ギルド本部の支給品なのだろう。受付で使ったものと同じ、肩の凝りそうな重さの万年筆がペーパーウェイト代わりに書類の上に置かれている。
その脇には、数時間前にギルドの魔導端末から出力した書類の束や過去一週間分の新聞なんかが山になって置かれている。サボネ国内の指名手配犯のリストや国内外の主要な事件の概要。世界各地の情勢についてまとめた資料。
少し前まで話をしていたオーウェルは、部屋の入口に据えられたカウンターに立ったまま、かれこれ一時間ほど眉間に皺を寄せている。
「だからですねぇ。これ以上ないくらい、完璧に調査はしたんすよ。その結果がこれなんで」
「お願いだから、嘘つかないでください」
涙の混じった高い声が、オーウェルの言葉に重なる。
無機質なカウンターを挟み彼の前に座っているのは、一人の妙齢の女性だ。薄い青を基調とした清楚な印象のワンピースから、華奢な手足が伸びている。栗色の長い髪をハーフアップに結い上げて薄い化粧をした彼女は、さぞかし男性を惹きつけるだろう。平時であれば。
真っ白なハンカチがぐしょぐしょになるほど泣き続けた今は、化粧はほとんど流れ落ち、目元の隈が隠しきれなくなっている。
「だぁから! 彼氏さんは別に浮気とかしてなかったっすよ」
「ひどい! どうして本当のことを教えてくれないんですか!」
「いや、嘘じゃなくて。忙しかったのは本当に仕事で……」
「嘘! 情報ギルドのくせに、こんな簡単な依頼も達成できないなんておかしいですよね。彼に何か言われたんですか⁉」
「そうじゃなくて……」
だんだんヒートアップしていくやり取りをこれ以上聞いていたくない。アーサーは音もなく立ち上がると、泣きじゃくる女性の後ろを通り抜け、ドアノブに手を掛けた。ハンカチに顔をうずめた女性は、何も気付かずに涙を流し続けている。
「あ、ちょっ」
助けを求めるようなオーウェルの言葉が追いかけてくるが、アーサーは無視して音も立てずに扉を閉めた。
無言の会釈で見送る受付嬢を横目にエントランスを過ぎ、外に出る。日差しは強いが、風があるおかげで不快な暑さは感じない。
ギルド本部を出たアーサーは、大きく伸びをする。正午はとっくに過ぎた時間帯。まばらな観光客に混じってロータリーから続く坂道を下り、手近なカフェのテラス席で適当な昼食を摂る。
一瞬だけ、好奇心旺盛な少女のことが頭に浮かんだが、アーサーは静かに首を振ってその姿を思考から追い出すと、一人きりのわずかな時間を堪能する。
穏やかな日差し。足元を滑っていく雲の影。視界に映える新緑。何気ない、ありふれた風景にぼんやりと目をやる。
今ここにいたら、きれいですね、とかうるせえんだろうな。今頃、どこを回っているんだか。
無意識にそんなことを考えて、アーサーは思わず苦笑を浮かべた。
冷めかけた食後のコーヒーを一気に飲み干して、来た道をゆっくりと戻る。ギルド本部のエントランスで、無愛想な受付嬢にもう一度記名を求められる。無言のままそれに応じ、再び情報ギルドの小部屋を訪れると、カウンターに突っ伏したオーウェルがげっそりとした顔を上げた。
「……アニキぃ。どこ行ってたんだよ」
「昼メシ」
「ひでえよ。オレを置いて行かないで」
ぶつぶつと小言を口にしながら、オーウェルは片手でぞんざいに契約書の控えを渡してくる。
「他に何かご用はぁ?」
投げやりな問いかけにアーサーは首を振り、踵を返そうとする。
「あ、アニキ」
扉に手を掛けたところで、オーウェルに呼び止められる。振り返ると、身を起こしたオーウェルがまっすぐにこちらを見ていた。
「今更だけどさ。アニキ、ちょっとやばそうなところに手ぇ出してない?」
「なんだよ、やばそうなところって?」
問い返したアーサーに、オーウェルは少しばかり歯切れの悪い口調でもごもごと答える。
「いや、贄の町でなんかやらかしたー……とか、ない?」
「ああ……」
何となく相手の言いたいことがわかって、アーサーは肩をすくめる。
「聖騎士団が何か言ってきたか?」
「……マジかよ」
あちゃ~、とでも言いたげに、オーウェルは目元に手を当ててため息を吐く。
「アニキさぁ、今指名手配に近い扱いになってるっぽいよ? 人相書きまでは出回ってないけど」
「ま、そうかもな」
アリシアは、この世界を存続させるための贄だ。今は前代の贄が世界を守っているが、いずれ、時が来れば白い森で眠ることになる存在。その立場を考えれば、本人の願いとはいえ、彼女を連れ出した自分は教団にとって重大な罪を犯していることになるのだろう。
「なんでそんなこと……」
オーウェルが呟くように言った声が、耳に届く。
なぜ?
なぜだろうか。
同情心でも親切心でもなく、彼女を連れ出した理由。
きれいなものを見たいと言った、その顔に腹が立った。何の変哲もない夕焼けを、小さな宝石の一粒を、咲き誇るバラの花を、朝靄に沈む池を、きれいだという声に腹が立った。自分にとってはひどく冷たくどこまでも汚い世界をきれいだというその心に、腹が立った。いつかこの世界の醜さを知って、絶望すればいいと思った。それだけだ。
たいした理由じゃない。そう言おうと口を開きかけたとき、呟くように漏れたオーウェルの言葉が耳に届く。
「なんで駆け落ちなんか……」
「はぁ⁉」
あまりにも突拍子のない情報に、思わず大きな声が出た。
「え、違うの?」
「駆け落ちはないだろ、駆け落ちは」
どこからそんな情報が出たのか。今度はアーサーが額に手を当てて悶絶する番だった。
「お前、情報屋だろう! 誤情報を掴まされるな」
「いや教団関係者の女性を連れ出したって聞いたから、てっきり拝礼で優しくしてくれた子にころっと恋して、駆け落ちでもしたのかと」
「バカか。教団関係者の女に連れ出してほしいって頼まれて護衛をしてるだけだ。文字通り、言葉通り、まるっきりそのままだろ。どこに恋だの駆け落ちだのの要素があるんだよ」
「うわぁ。アニキがそんな長文喋ってんの、オレ初めて聞いたわ」
赤茶の目をぱちくりと瞬かせるオーウェルに、アーサーは思いきり長い溜息を吐いた。
「アニキにも、ついに春が訪れたのかなと」
「違うと何度言えばわかる。贄が持つ能力があれば、何かの役に立つかもと思っただけだ」
「なんだなんだ、オレの早とちりかぁ」
心底つまらなそうな呟きに、めまいを感じる。早くこの場を立ち去ろうとするアーサーに、オーウェルが再び声を掛けた。
「誤解して悪かったから、一つ情報な。聖騎士団の中でも、かなり手利きの奴らが動いてるらしいぜ。この近辺にも聞き込みに来てたから、あんまり一人にさせないほうがいいと思う」