夕霧の湖 1
夢の中で、微かな泣き声を聞いた。
感情を必死に押し殺すようなそれは、まだ小さな少年のもの。聞き洩らしてしまえばそれまでの、ほんのわずかな空気の震えは、悲しみと絶望に満ちていた。
辺りはまるで墨を流したような闇。暗闇のそこかしこで壊れた幌馬車の残骸が燃え、パチパチと軽い音が静寂を引き立たせている。足元には無数の血溜まりと、おそらく少し前までは生きた人であったはずの骸と肉片。
凄惨。他に呼び名の浮かばない光景にアリシアは思わず息を飲み、真っ赤な血溜まりの中で泣く少年に駆け寄ろうと一歩踏み出した。
しかし、次の瞬間には彼女の体は何かに阻まれたように動きを止めた。目の前にまるで透明な壁でもあるかのように、先に進むことができない。
ああ、これは過去だ。
干渉することさえ許されない、過去の夢。
真っ赤に染まったぼろぼろの袖口で涙をぬぐった少年が、不意にふらりと立ち上がるのが見えた。線が細く、今にも折れてしまいそうな少年が、ゆっくりとアリシアを振り返る。
怒りと憎しみに染まったライトブルーの瞳が、ただただ脳裏に焼き付いた。
ピックアップトラックが大きく揺れた振動で、アリシアははっと目を開いた。
山間を縫うように続く細い道は申し訳程度に舗装されているものの、古びたコンクリートはあちこちひび割れている。早朝のサクロサンクトを出発した車は、いつの間にか来た道とは違うルートを辿っていた。
ざあっという葉擦れの音とともに、半分ほど開いた運転席側の窓から優しい風が舞い込んでくる。薄茶色に枯れかけた木立をすり抜けて、木漏れ日がちらちらと瞬いた。
眩しさに思わず片手をかざすと、運転席に座ったアーサーが声だけを向けてくる。
「早朝から活動するのはきつかったか、ねぼすけお嬢さん?」
「す、すみません」
心地いい振動に身を任せるうちに、ひとりだけ眠ってしまっていたらしい。アリシアは消え入りそうな声で言葉を返す。
「えっと。今、何時でしょう?」
長い事眠ってしまったのかと思いそう問いかけると、隣に座る男は一瞬だけ窓の外に視線を向け、すぐにまた前方を見た。
「そろそろ朝メシどきってとこだな。腹、減ってるか?」
「いえ、だいじょ……」
うぶです。そう答えようとしたアリシアの声に、きゅるるる、という音が重なる。タイミング悪く鳴ってしまったその音に、アリシアは慌てた様子でみぞおちの辺りを押さえた。
ピックアップトラックの低いエンジン音とは異質な響きを、アーサーは聞き逃さなかったらしい。左手で口元を覆うと、わざとらしく咳払いをする。ライトブルーの瞳は明らかに笑いを含んでいた。
「もうっ。笑いたければ堂々と笑ってくださいよ、アーサー!」
顔を真っ赤にしたアリシアが両手で頬を隠しながら抗議すると、アーサーはくっくっと喉の奥で笑う。
「悪かった。もうすぐ街だから、少しだけ我慢しろよ、お嬢さま」
アーサーは器用に片手でハンドルを操作しながら、空いた片手を後部座席へと伸ばす。荷物を漁る音に続いて、アリシアの頬に缶コーヒーが押し当てられる。冷たくも熱くもないそれを受け取り、小さくお礼を述べる。その言葉に、アーサーは満足そうに笑った。
コーヒーの缶を開けると、広めの飲み口から少し甘みを含んだ香りが立つ。
「アーサー。これ、もしかして私のためにわざわざ用意してくれたんです?」
「さあ、な」
あまり甘いものを好まない印象の彼を見やると、機嫌のよさそうな表情はそのままに、どこかぶっきらぼうな言葉だけが返ってくる。
優しい人だ、と、ぼんやり思う。出会ってからまだ一週間と経たない。その間見て来た彼は、理知的でときに狡猾。世話好きなのにどこか冷淡。陽気な一面を見せたかと思えば、次の瞬間には真面目な顔つきで黙り込んでいたりもする。掴みどころがなくて、あやふや。町を出たいと言ったアリシアに手を差し伸べてくれたのは、純粋な優しさだけが理由ではない気がする。
「私と旅をすることに、何か目的が……」
取り留めのない考えが、口をついてこぼれた。アーサーの冷たい色合いの瞳が向けられて、アリシアはひゅっと息を飲む。
「何か言ったか?」
「いえ。何でもない、です」
口元に笑顔を貼り付けて答えたアリシアは、慌てて話題を変える。
「それよりもアーサー。いい加減私のことはアリーと呼んでほしいのですが」
なんの脈絡もない言葉にアーサーは再びアリシアを横目で見て、はっ、と短く笑った。
「偽名と肩書を忘れたか? 祈祷師のアデルお嬢ちゃんや。街の中では設定を忘れんなよ」
気が付けば凹凸だらけだった道は整備された石畳の街道に交わり、枯れかけた木々の代わりに人の手が加わった田畑が広がっている。長く続いた渇きを生き延びた作物が、朝露に煌めいているのが見えた。はじめはまばらだった民家が徐々に増え、静けさが喧騒へと変わっていく。
「ここは、何という街ですか?」
後部座席に置かれた自分の荷物の中から地図を引っ張り出したアリシアが、ペリドット色の目をきらめかせる。
「サウワ」
短く答えたアーサーは、おもむろに道の端に車を寄せるとエンジンを切った。
「少し、大人しく待ってろよ」
それだけ言い残し車を降りた彼は、雑踏の中へと消えていく。あっという間に人波に紛れてしまった背中を探すのを諦めて、アリシアは賑やかな街の風景へと視線を移す。
日照りの続く地域だというのに、サウワの街は山裾の集落とは違い、活気に溢れている。道の両脇には野菜や穀物を扱う露店が立ち並び、まだ早朝と呼べる時間だというのに、客引きをする威勢のいい声が響いている。木製の平台に置かれた野菜はどれも瑞々しい。しかし、その値段は贄の町フォレ・ブランシュやアルトローゼンの宿場町に比べるとひどく高い。
商品の質は良くても、干ばつの影響で品薄なのだろう。この辺りの被害は、どのくらいだったのか……。
ぼんやりと物思いに耽っていたアリシアだが、その思考は突然響いたクラクションと重いエンジン音に掻き消された。
驚いて辺りを見回すアリシアの横。道端に避けた人波を追い越して、カーキ色のオフロード車が道を走っていった。
「うわぁ……」
「なにを呆けた顔してんだよ」
声とともに運転席の扉が開き、猫のようにするりとアーサーが乗り込んでくる。彼は手際よくエンジンをかけると、すぐに車を発進させた。深緑色のピックアップトラックは、行き交う辻馬車の流れに乗って石畳の坂道を登り始める。
「アーサー、今の見ましたか? 車が通って行ったんです」
「嬢ちゃん、あんたが今乗ってるのは?」
「アーサーや軍の他にも、車を持っている方がいらっしゃったんですね」
「軍かギルドだろ」
当たり前だとでも言いたげな調子で、アーサーが言葉を続ける。
「贄の町は、どこの国にも属さない独立都市だが、この辺はサボネの領土だろ。サウワにはナノ地方を統括する軍やギルドの拠点があんだよ」
「アーサー、よく知っていますね」
感心した様子で尊敬のまなざしを向けるアリシアに、アーサーは軽くため息をついてみせた。
「サウワは、ナノ地方で一番でかい街だからな」
「もしかして、干ばつの影響が山間の村ほどひどくないのは、ギルドや軍の影響ですか? この街、治安も悪くはなさそうですよね」
口元に指先を当てて考え込むアリシアに、アーサーは意外だと言わんばかりの表情を向け、それから面白そうに口角を持ち上げた。
「軍やギルドの影響もあるが、サウワが干ばつと無縁なのはでかい湖があるからだ。地図にも載ってるだろ?」
手元の地図に視線を落としたアリシアが、なるほど、と呟く。
「ナノ地方は周り中、高い山に囲まれた土地だからな。どうしたって日照りの被害には遭いやすい。けど、それでも深刻な事態になることが少ないのは、サウワ湖のおかげってわけだ」
「でも、干ばつの影響を受けにくいとなれば、作物を独占しようとする人も現れますよね。だから軍やギルドの拠点を置いて、監視の目を光らせているということですか?」
「ま、そんなとこだ。勉強になったな」
石畳の道はまっすぐに丘を登り、その頂上はロータリーになっていた。手入れの行き届いた円形の花壇には、白や薄紅、紫のサツキが鮮やかに咲き誇っている。
ロータリーの脇には辻馬車の繋ぎ場が設けられていた。アーサーの運転するピックアップトラックは、その一番奥のスペースに収まった。
「ほれ」
街の様子を早く見たくてうずうずしているアリシアの目の前に、ワックスペーパーの包みが差し出される。そっと紙を開いてみると、中からは作りたてのホットドッグが出てくる。横を見ると、アーサーはすでに大きな口を開けて同じものにかじりついていた。
「いただきます」
包み紙ごと一度膝の上に置いて手を合わせると、アリシアはパンの端を上品にかじる。その瞬間、皮がパリッと張ったフランクフルト・ソーセージから熱い肉汁が流れ出して、慌てて二口目を食べる。絶妙な焦げ目がついたソーセージから、香ばしい香りが口いっぱいに広がった。マスタードの辛味とケチャップの酸味、キャベツのシャキシャキとした食感に至るまで、文句のつけようがない。
「おいしいです」
小さな口を繰り返し動かして食べるアリシアの横で、あっという間に最後の一口を飲み込んだアーサーが頷く。
「だよな」
連れと意見が合ったことが何となく嬉しくて、アリシアは思わず口元を緩めた。
「で、お嬢。次はどこに行きたい?」
「え、次?」
「……考えてないのかよ。にやけてる場合じゃねえな」
えへへ、と苦笑を返すアリシアに、アーサーは肩をすくめてみせた。
「まだ目的地が決まってないんなら、少し時間もらっていいか?」
「時間、ですか?」
「ギルドに野暮用」
そう言ってアーサーは、先ほど通ってきたロータリーを指差した。その最奥。街を見下ろす丘のてっぺんに、レンガ造りの巨大な建物が見えた。
どっしりとした印象の赤レンガの塀と、その向こうに広がる手入れの行き届いた広い芝生。その先に佇んでいるのは、この地域一帯を取り仕切るギルド本部だ。派手な装飾こそないが、まるで貴族の屋敷か城のような風貌に、アリシアは思わず感嘆の声を漏らした。
「ふわぁ……」
「口開いてるぞ」
「あれが、ギルド本部なんですね。なんて立派な建物……」
故郷である贄の町。白い森を守る神殿も、荘厳な建物だったと思う。けれど、それに見劣りしないほどの巨大な建物を生まれて初めて目にした。興奮に、胸が高鳴った。
「アーサーは、どこかのギルドに所属していらっしゃるんですか?」
「まさか」
「そうなんですね。あの、私も一緒に行ってもいいですか?」
けれど、何気ないアリシアの言葉にライトブルーの瞳がふい、と逸らされる。
「ただの情報収集だ。誰にだってプライベートってもんがあんだぜ、嬢ちゃん」
「あ、す、すみません……」
踏み込むな。
暗にそう言われたことを悟り、アリシアは慌てて謝罪の言葉を口にする。俯いた顔が赤くなるのが、自分でもわかった。
束の間の沈黙の後。アーサーはふっと息を吐くと、腕時計で時間を確認する。午前十時を過ぎたころ。そのまま彼は口元にだけ微かな笑みを浮かべ、アリシアに向き直った。
「本部の隣に、緑の屋根の建物があるだろ。この辺の案内屋だ。そこでガイドでも頼んで、しばらく時間を潰しててくれ。夕刻、またここに集合でいいな?」
口調は優しいが、色素の薄い瞳はあまり感情を映していない。その理由を知りたいと思った。今ではなくても、いつか。
「はい。お気を付けて、アーサー。私も観光を楽しんできますね」
マスタードが効いたホットドッグを急いで食べきって、アリシアはにこりと笑った。
ギルド本部は、さまざまな分野で活動するギルドを統括する機関だ。サボネ国内におけるギルドの設立や活動実態の調査と把握、監査、不正の取り締まりなどがその主な業務だ。多岐にわたる書類仕事やさまざまな相談を請け負う部署のほか、国営ギルドの筆頭である商業・工業ギルドや冒険者ギルド、情報ギルドなどの支部も一緒くたに詰め込まれているため、訪れる人も多い。
「おはようございます。本日はどのようなご用件でしょうか?」
エントランスに入ってすぐ。ひんやりとした空気を肌が感じとるよりも早く、やや無機質な声が耳に届いた。目を向けると、皺ひとつない濃紺のブレザーをきっちりと着た受付嬢が銀縁の眼鏡越しにアーサーを見ていた。
「情報ギルドに用だ」
「具体的なご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」
来館者名簿のページを捲りながら、受付嬢はどこか無愛想な返答を寄越す。
「情報の閲覧と、依頼の進捗状況の確認」
差し出された名簿の空欄に名前を書き込みながら、アーサーも淡々と感情の篭らない言葉を返す。
「情報ギルド、サウワ支部はエントランス左手の通路をお進みください。一階の突き当りになります」
「どうも」
コッ。
青いガラス製のペン立てにずっしりと重い万年筆を戻すと、アーサーは目を閉じて会釈をする受付嬢に背を向けて廊下を進む。
新設ギルドの登録窓口や助成金の申請窓口、税務関連の業務を担う部署の前を足早に通り過ぎる。労働環境に関する相談窓口にどっかりと座り、大声で喚きたてる中年男の脇を通り抜け、情報ギルドと表示された樫の扉をノックもせずに開く。
「っしゃぁせー」
重厚感のある扉を後ろ手に閉めたのと同時に、どこからともなく声がかかった。少し高い、少年のような声。けれど、入口に設置された小さなカウンターには、人の姿はない。
他部署と比較してもけっして狭くはない室内には、天井まで届くほど背の高い書架がずらりと並べられている。そのおびただしい数の本棚には、細かく色分けされたファイルがびっしりと並べられている。
柔らかい光が差し込む窓辺には、無駄な装飾を省いた良く言えばシンプルな、悪く言えば安っぽい丸テーブルとイスが置かれている。その向こうに据え付けられた長机には、一般に公開されている情報を閲覧できる魔導端末が三台設置されているのが見えた。
「さーせーん。今手ぇ離せないんで、ちょいお待ちいただいていっすかぁ?」
迷路のように入り組んだ書架の間から、先ほどの声が聞こえてくる。まだ早い時間だからだろうか。しんとした室内には、他に人の気配はないようだった。
アーサーはその声には答えず、無言のまま魔導端末の置かれた机に近付く。一歩進むごとに、朝の光に埃が躍る。
「ぅえ……っきし! あぁ~、くそ」
部屋の奥からはくしゃみをする声と同時に、ばさばさと紙が散らばる音、続く悪態が聞こえてくる。その騒音をまるっきり無視して魔導端末を起動させたアーサーは、慣れた手つきでタッチパネル式のディスプレイを操作する。
過去半月分の国内外の事件や、指名手配されている人間のリスト。お尋ね者の人相書きに、解決された事件の詳細。ガタガタと書架を漁る音や騒々しい足音、舌打ちや雑言を聞き流しながら、アーサーは淡々と欲しい情報をより分けていく。
「あー、もう知らねえ」
必要な情報をあらかた持ち出し用の紙媒体に焼き付けたとき、部屋の奥から投げやりな声が聞こえた。
「さーせんっした」
いい加減な謝罪を口にしながら、乱立する書架の間から一人の男が姿を現した。
男性にしてはひどく小柄な体に、南方の大陸出身だと一目でわかる褐色の肌。金色の髪と、赤茶色の目。少年と呼ぶにはやや逞しく、青年と呼ぶにはあどけないその顔が、アーサーを見て驚きの表情を浮かべる。
「なんだ、アニキかよぉ」
静かに魔導端末を操作していたアーサーは、男に視線を向けると眉間に皺を寄せ、ため息を吐いた。
「やっぱりお前か、オーウェル。アニキって呼ぶな」
オーウェル・ウォードは、昔から個人的に付き合いのある情報屋だ。
情報ギルドや冒険者ギルドなど、数あるギルドの中には国を越えて世界中に拠点を持つものも存在する。そういった世界規模で展開しているギルドのメンバーは、ライセンスさえあれば各国の支部で仕事を引き受けることも可能だ。そのため、一つ所に留まらず、あちこちの支部を渡り歩くギルド員も少なくない。オーウェルも、その一人だ。
「お前、この間まで東にいなかったか? こんな場所で何やってんだよ?」
中央大陸の東に位置する小さな村。そのこぢんまりとしたギルドで、目の前の人物を見た記憶がある。三か月ほど前のことだ。
「やー。アニキが拝礼に出たって聞いたから、茶化し……励ましに行こうと思ってさぁ。まあ、あちこち寄り道してたら精霊参りのタイミング逃しちまって、もうめんどいからいいやって思ってたんだけどさ。旦那が最近こっち方向に向かったって聞いたから、ここで待ってたんだぜ?」
「ストーカーか、お前は。茶化しに来るな」
贄となるアリシアたちヘイワード家を神として崇める神教は、今や世界中で信仰されている宗教だ。その教えの中に、精霊参りと呼ばれる儀式がある。
贄の町、フォレ・ブランシュの神殿には、絶えず燃え続ける聖火が祭られている。近しい人を亡くしたとき、教徒は故人の遺髪や遺骨、形見の品などを聖火で焚き上げることで、魂の安寧を祈る。その別れの旅を、弔い拝礼と呼ぶ。精霊参りは、毎月新月の前後三日間しか行われない儀式だ。そのため、何かしらの事情で到着が遅れたりすると、翌月まで足止めを食ってしまうこともあるのだ。
「アニキもローブ姿でお祈りしてきたんだろ? 見たかったぁ」
精霊参りの参加者には、拝礼衣と呼ばれる真っ白なローブが貸与される。
何を想像したのか、くくっと喉の奥で笑いながら、オーウェルが来客用のテーブルにつく。短く刈り込むように切られた金の髪が、窓からの日差しを弾いて眩しい。
操作していた魔導端末を閉じて向かいの椅子を引くアーサーに、柔らかい静かな声が掛けられた。
「で、気持ちの整理はもうついた?」