プロローグ
ごめんね。アリー。
微かな声が響いた。梢を渡る風の音にさえ負けてしまいそうなそのささやきは、鼓膜ではなく脳裏に直接意味を伝えた。もうすぐ時が来るわ、と。
「ええ、かあさま。大丈夫。わかってるわ」
辺りに広がっているのは、真っ白な森。大地に深く張った根と太い幹。枝葉の先に至るまで、すべてが白い木々。足元の地面も、まるで砂糖を一面にこぼしたよう。遥か遠くに見える空も、晴れているのに色彩はない。まだ見たことはないけれど、雪というものはこんな感じかしらと、アリシアはぼんやり思う。
強い魔法で外の世界から切り離されたこの場所は、いつだってとても穏やかだった。暑くもなく寒くもなく、雨もなく雪もなく、昼もなく夜もない。時間さえもひどく緩慢にゆるゆると流れていくようだ。温かく、けれど寂しい場所。
森の中心には周囲に溶け込むように、白い石造りの祭壇がある。その正面には美しい彫刻で彩られた石碑。細かく彫り込まれた文字は、長い年月が過ぎているにも関わらず、欠けたところも掠れたところもない。数えきれないほど並んだ文字のいちばん最後に彫られているのは、母のアリアという名前だった。
母の顔は、あまり覚えていない。別れたのが何歳のときだったかも、はっきりと覚えているわけではない。ただ、やさしい声はいつだってアリシアのそばにあった。けれど、このところその声さえも以前ほど聞こえなくなってきている。母の魂が消えかけているのだと理解した日は、声が枯れるまで泣いていた。
もう間もなく、アリシア自身の名前も無機質な記号のように末尾に彫り込まれ、真っ白なこの森に捕らわれる日が来るだろう。
色素の薄い真っ白な指先でゆっくりと母の名をなぞったアリシアは、殺風景な祭壇に古びた本を置く。ハードカバーの表紙を捲ると、開きぐせのついたページが次々に目に映る。
満天の夜空。風が渡る草原。虹。花。さまざまな生き物……。
「ごめんなさい、かあさま。私が贄であることはわかっているの。でも、私は一度でいいから外の世界を見てみたい」
彼女はふっと息を吐くと意を決したように立ち上がり、淡いプラチナブロンドの髪をひとまとめに結んだ。温かなこの場所から出て行くと決めたのなら、急がなければならない。きっと、自分を連れ戻そうとする追手は、すぐに動き出すだろうから。
白い祭壇に背を向けると、風が背中を押した。そこに、微かな声が混じる。
行ってらっしゃい、かわいいアリー。きれいなものをたくさん、たくさん見ておいで。そうして、あなたが本当にこの世界を守りたいと思えたら、その時はきっと……。