元魔王陣営の女
私の正義は1年前に敗北した。
18時。定時と同時にパソコンの電源を落とし、まだ社員がダラダラと仕事をしている中、鞄を抱えて速やかに会社を出る。
時給1450円で働く派遣社員は、どんなに今月苦しくても残業をすると嫌がられてしまうから。
「元宮さん、今日スタッフメンバーで飲みに行こうかって話してるんだけど、行かない?」
「うーん、行きたいんだけどごめんね。今日は母がこっちに来てるから」
「そうなんだ。それは早く帰らなきゃだね。じゃあまた月曜日に」
華やかな笑顔で街に消えていく同僚を見送ってから、思わずため息が溢れた。
将来に何の保証もない非正規雇用の立場で、どうしてあんなに毎日笑っていられるのだろう。どうしてオシャレして、同僚とお酒を飲んで、休日に遊びに行ったりできるのだろう。
あの子たちはまだ若いから、あの人は旦那さんが働いてくれているから、あの人は実家住まいだから。そんな理由で自分を納得させようとして、逆に嫉妬で吐きそうになる。
あの人たちは、私より恵まれているから。
元宮結、33歳。
新卒で勤めた会社はいわゆるブラック企業というやつで、度重なるパワハラに精神をやられて11ヶ月で退職した。
その後1年間休養を挟み、恐々と就職活動を再開した私はまた精神をやられることになる。
新卒至上主義のこの国は、何のスキルも持たないまま正社員を退職し、その後精神疾患で休養をとっていた人間が這い上がるには厳しすぎた。
面接に進めない、面接に進んだ会社からも色よい返事はこない。
そんな状況は「私はこの世にいらない人間なんだ」と思い込むには十分で、私は履歴書を送ることさえできなくなってしまった。
それでも働かなくては生活ができない。
派遣会社に登録し、ただ時間を売る生活になった。
せっかくの金曜日だというのに同僚と飲みにいくには心と懐の余裕が少ない。
けれど今日はちょっと疲れたから、お気に入りのたこ焼き屋でたこ焼きを一船だけ買って帰る。袋をガサガサいわせ、香ばしいソースの匂いを嗅ぎながら、心持ち早足で帰る。
駅から徒歩15分のアパートは家賃の安さで決めた。東京で生きていくには何かとお金がかかる。
熱々のたこ焼きが冷めないうちにとアパートに帰りつくと、アパートの前に人影が見えた。
駅から離れたこのあたりは住宅街で、街灯のみに頼った道はあまり明るいとは言えない。
住人、にしては動かない。
不審者、ならば今家に入るのは危険だろう。
偶然、そうであればいい。
こんな時、誰に頼ればいいのかもわからない。この年で何もされていない人間相手に騒ぎ立てるのも自意識過剰だろうか。
仕方なく、速度を落としてゆっくりとアパートに近づく。
相手の様子を見て、怪しそうならアパートをそのまま通り過ぎればいい。
たこ焼きの入った袋をギュッと握りしめて慎重に足を進める。
立っているのは男だ。黒いパーカーにジーンズ、スニーカーというごく普通の格好。
年は30代半ばだろうか。ゆるくウェーブした黒髪はパーマ?天パ?
足音に気がついたのか、男が振り向く。
どちらかというと塩顔のその男は、私を見つけてパッと顔を輝かせ、懐かしい甘い声で私の名前を呼んだ。
「結ちゃん」
「……い、伊月?」
「久しぶり。飲まない?」
手に下げたスーパーの袋を少し持ち上げて、にっこりと笑う。
4年も前に別れた男。
そんな男をホイホイ家にあげるような女だと思わないでほしい。
いつもなら、そう言って追い返しただろう。
けれど、今日の私はちょっと疲れていた。
誰かと一緒に、お酒を飲みたかった。
「……何もないよ?」
「お構いなく」
あの頃より、少し髪が伸びただろうか。
そんなつまらないことを考えてから、部屋の鍵を開けた。
私が買ってきたたこ焼きと、伊月が買ってきたお酒やつまみを小さなテーブルに並べて飲み始める。
作り置きのおかずを出すと伊月は米を要求してきて、冷凍していたご飯をレンジにかけてやる。
4年前とあまりにも態度が変わらないから、熱々のご飯を茶碗に移しながら、何だか不思議な気持ちになっていた。
「伊月はこの4年、どこにいたの?」
「えっと、タイとかその周辺の国を、いろいろ? で、一昨日日本に帰って来たから、結ちゃんに会いに行こうかなって」
4年前、私と伊月は付き合っていた。
あっさりした顔に蜂蜜みたいな甘い声。いつでもフラットに優しくて、すごくおしゃべりというわけでもないのにどこに行っても知人がいる。
橘伊月はイラストレーターの仕事をしており、インターネットがつながる場所ならどこでも仕事はできるから、と放浪癖のある男だった。いつもふらりと旅に出て、数日、数週間、数ヶ月。ふらりと土産を持って帰ってくる。
いつまでもふわふわしている男に、私は言いようのない焦燥感を抱えていた。
この人は、私と一緒に未来を歩むつもりでいるのだろうか?
友達は次々と結婚している。
心もとない非正規雇用とフリーランスだって、2馬力になればもう少し生活が安定するだろう。
私は、安定と安心が欲しかった。
『何年か、海外を巡ってこようと思う』
彼独特の甘い声で告げられた、決定打。
別れを告げた時、どちらも涙は流さなかった。私たちの関係は粛々と終わりを告げた。
「結ちゃんは何してたの?」
缶ビールを傾けながら、目を細めた伊月が気楽に尋ねる。
「……戦闘員として、魔王様と一緒に勇者相手に戦ってたよ」
伊月は細めていた目を見開き、じっと私の顔を見つめる。
瞬き2回の間を置いてふっと笑うと、またビールを飲んだ。
「参加したんだ。どうだった?」
「知ってるでしょう。負けたわよ。1年も前に」
日本には4年前に魔王が現れた。するとそれに呼応するように勇者が現れた。
その瞬間、人々には3つの選択肢が与えられる。
勇者の仲間として世界を守るために名乗りをあげるか、魔王と共に世界をひっくり返すために戦うか、第三者として今まで通りの生活を送るか。
もちろんほとんどの人間は今まで通りの生活を送ることを選択した。表面上は勇者の肩を持ちながら、自分には関係のないことだと知らないふりを決め込んだ。
関係ないなんてことあるもんか。世界がひっくり返る瀬戸際だった。誰もが当事者だった。
だから私は、魔王と共に戦うことを決めた。
安定した仕事も、支え合える恋人も、頼れる友達もいない。何もかもうまくいかないこの世界で生きていくには、もうひっくり返すしかないと思った。
結末は、物語のセオリー通り魔王が負け、勇者が勝利を収めた。
世界は何も変わらない。
今日も私は1時間1450円で労働力を売る。
同僚との飲み会にも参加せず、とっくの昔に別れた男とこうして酒を飲んでいる。
苦い思いと共にビールを飲み込む。
いつの間にか空き缶が増えていた。
「3年も戦った。魔王様も私も他のみんなも全力を尽くした。それでも負けた。魔王様の理想は、私の理想は、正しくないのだと世界に証明されてしまった」
勇者に敗北し、仲間は散り散りになり、それでも生きていかなくてはいけなかった。
敗北の瞬間を何度も夢に見た。その度に惨めな気持ちになりながら、満員電車に揺られて出勤した。
私は、間違っていたのだろうか。
「正しくなかったとしても」
伊月がゆっくりと口を開く。ビールの缶を傾けて、目元を赤くしながら。
「生きやすくなるように戦うこと自体は、間違ってはいないよ」
波のように穏やかで甘やかな声でいうものだから、何だか無性に泣きたくなった。
ふらりと日本を出て行ったくせに。普段から「逃げるが勝ち」をモットーにしているくせに。
私は今日ちょっと疲れていて、お互いに思ったよりもたくさんお酒を飲んでしまって、ついでに私は伊月のことが決して嫌いではなかったものだから。
視線が絡み合い、赤くなった伊月の目元が柔らかく細められる。
確かな期待を持って、私はその視線を受け止めてから目を閉じた。
唇が重なり、体重をかけられ、背中にフローリングの感触を感じて、全てを受け止めた。
▪️ー▪️
「元宮さん、最近なにかいいことあった?」
「いいこと?」
「そう。だって最近何だか楽しそうというか、やる気に満ち溢れてるというか?」
「別に、いつも通りだと思うけど」
「怪しいなぁ」
「いやいや、そんなことより、仕事しましょう」
同僚からの追及を無理やり切り上げてパソコンに向かう。
「あ、今日スタッフメンバーとご飯行くんだけど元宮さんは?」
優雅なことで。
職場でもおしゃべりして、退勤してからさらに何を話しているんだろう。
隣から小声で確認され、申し訳なさそうな顔を作って見せる。
「ごめんなさい、今日予定があって」
「もしかして、彼氏?」
「違いますよぉ」
逃げるためにコピー機の方へ立ち上がる。同僚はまだ話し足りないという顔をしていたけれど、社員さんが近づいてきたため大人しくパソコンに向かった。
おしゃべりをしていても、仕事をしていても、こっそりネットサーフィンをしていても、時給は1450円。ボーナス、退職金は無し。
いつも通り定時ぴったりに退社し、アパートへ帰る。
部屋の電気がついているのを見て、少しだけ心が軽くなった。
「おかえり」
「ただいま」
久々の再会から、伊月とはなし崩しに半同棲のような状態になっている。
『もう一回、やり直さない?』
あの日2人で布団にくるまりながら言われた言葉に、まだ返事はしていない。
もちろん嬉しくないと言えば嘘になるけれど、彼と私の間に未来はあるのだろうかという不安はまだ拭えない。
何せこの地球に伊月が行ったことない場所はまだ無数にあるし、私の正義は1年前に折れている。圧倒的に自信が足りない。
「ご飯今から作るからちょっと待っててね」
「あ、今日はオレが作ったよ」
「うそ! 何作ったの?」
「焼きそば。なんと目玉焼き乗っけたやつ」
「天才じゃん」
ふっふっふと得意げに笑いながら夕飯の準備をする伊月を見ていると、凝り固まった心が少しずつほぐれていくのを感じる。
キレイに焼けた目玉焼きが乗った焼きそばは、ソースの香ばしい匂いが食欲をそそった。
「美味しそう。いただきます」
「いただきまーす」
麺を啜ると、濃いめのソースの奥に馴染みのない香辛料が香った。
「これ、なにか香辛料が入ってる?」
「うん。旅先で見つけたんだ。いろんなスパイスが調合されてて一本で味が決まるってやつ。万能調味料みたいなもんかな」
「へー。結構好きかも」
「そっか。よかった」
伊月が楽しそうにこのスパイスに出会った経緯を語り始める。
この人の中には、私では想像もできない広さの世界が広がっているのだろう。
「ビール飲む?」
「あ、焼きそばに絶対に合うね。飲もうのもう」
「はいはーい」
冷蔵庫からよく冷えたビールを持ってきて、缶を軽く打ち合わせて飲み始める。
「そういえば聞いてよ、今日課長の指示がさぁ」
「んー?」
職場の愚痴を垂れ流しながら、それでも自分の中の一部分が確かに満たされているのを感じる。
変わらず非正規雇用だし、伊月との将来は不透明だし、税金ばかり持っていかれて老後の不安は消えないし、親はうるさいし、ついでに職場の上司もうるさいし、私の正義を否定したこの世界は相変わらずツンと澄まして厳しい。
けれど、あの頃と比べたら。
何も持っていなかった、世界をひっくり返そうと決めたあの日と比べたら。
家に帰れば待ってくれている人がいる。
一緒にご飯を食べる人がいる。
仕事の愚痴を聞いてくれる人がいる。
ちょっとだけ、今の私の世界はマシなのかもしれないと、思ってしまった。
▪️ー▪️
「それは、いいことじゃないですか?」
職場から家とは逆方向の電車に乗って2駅。
ごく普通のチェーンの居酒屋で元魔王がレモンサワーを飲んでいる。
勇者に敗北した我らが魔王様は今はひっそりと妹と2人で暮らしている。
負けたとはいえ、生きているのだ。酒くらい飲ませてほしい。
私の話を一通り聞いた魔王様は年齢に似合わない落ち着きでもって私の瞳を覗き込む。
「いいこと、かもしれないけど」
「けど?」
よく冷えたビールをぐいと煽る。
薄く消えていく泡を眺めて、胸の中のモヤモヤを一回りも年下の男の子にぶつける。
それを許してくれる人だった。
魔王の仲間として活動したいなんて人間は、何かしら不満や鬱屈を抱えている面倒な奴が多くて、そんな面倒な話を、きちんと聞いてくれる人だった。だから今でも、こうしてつい飲みに誘ってしまう。
「昔の方が、それこそ4年前の私は、もっと燃えるように怒っていた。あの時期が多分一番生きるためのエネルギーを燃やしていたと思う」
「あの頃は、みんな、そうでしたね」
まだたった1年前のことなのに、懐かしそうな目をするから、少しだけ泣きそうになった。アルコールは涙腺を弱くする。
「世界は何も変わっていないのに、私は身近なぬるい幸せで毎日を誤魔化しているだけ。あの頃より、ずいぶん弱くなっちゃった」
テーブルに視線を落とす。
伊月のことだけじゃない。今は、こうして弱みを見せても受け止めてくれる仲間ができた。それも私の世界をマシにした。
ずっと、ずっと、私よりずっと若いのに、ずっと苦労してきた魔王様に、報いることもできなくて、負けて、それでも私の世界はマシになった。
昔の自分にも、目の前の男の子にも、私は顔向けできるような人間なのだろうか。
ひっくり返そうとしていた世界に順応して、あの頃の怒りを、悔しさを、やるせなさを、手放してもいいのだろうか。
「いいですよ」
直接心臓に染み込んでくるような声に顔をあげる。
まるで聖職者のような微笑みで、この人はいつも私たちを包み込んでくれていた。だから私たちはついていき、3年もの間戦った。
あの頃と同じように、魔王様は微笑む。
「弱くなってもいいですよ。世界はこんなに厳しいんだから、たまには弱くなる時だってありますよ。でも、そうやって幸せを見つけて、毎日一生懸命生きているだけで、元宮さんは強いし、偉いです」
決して声を張るわけではないけれど、周りの雑音にかき消されることなく耳に届く言葉に胸が暖かくなる。
「世界をひっくり返す必要なんでないんです。元宮さんが大切な人と幸せに生きていられる世界なら、それでいいです」
「……あなたは?」
「はい?」
「魔王様は今、幸せ?」
少しだけ考えるように間を空けてから、微笑んだ。
「そうですね。僕には妹がいますから」
あの頃より柔らかい空気で笑うから、少しホッとする。あの3年は、無駄じゃなかったと思える。
「そう言えば、今日妹さんは? 家で1人?」
「いえ、江口くんが来てくれてるので」
「うわ、江口かぁ。鬱陶しかったらちゃんと言うんだよ?」
「とても気にかけてくださるので、ありがたいです」
「そんなだから江口がつけあがるんだよ」
「彼、面倒見がいいですよね」
軽くなった空気と心で、すっかり泡が消えてしまったビールを飲み干す。
魔王様もだいぶ氷が溶けたレモンサワーを一口飲んだ。
「元宮さん」
「ん?」
「呼び方、戻ってたので気をつけてくださいね」
魔王のような微笑みに、一瞬で背筋が伸びる。
「了解です! 山下くん!」
魔王様改め山下くんは「はぁい」と珍しく可愛らしい返事をして、レモンサワーを飲み干した。
▪️ー▪️
遠慮する山下くんをなんとか押し留めて会計を済ませ、居酒屋の最寄駅から5駅。
もう少しだけ間隔を詰めてもいいのに、と思う程度に頼りない街灯に照らされた静かな住宅街を15分、ゆっくりとした足取りで歩く。
アパートが見えてきて、自分の部屋に灯りがついていることに気がついた。
今日は飲み会だと伝えていたし、伊月は自分の部屋に帰る予定だと聞いていたのに。
なんの変哲もないごく普通のアパートを見つめて、静かな夜の空気を吸い込む。
部屋に戻る足取りが軽い。
鍵穴に鍵を差して回す。
軽い手応えとともに鍵が開いて、帰ってきたな、と当たり前のことを思った。
「おかえり」
黒いパーカーにグレーのスウェットというラフな格好で、伊月が当たり前のように出迎える。
「ただいま」
仕事をしていたのか、相棒のタブレット端末と数冊の雑誌をテーブルに広げたまま近づいてくる。
「楽しかった?」
いつも甘いその声と、誰にでも優しいその気遣いで、伊月は老若男女を虜にする。
「うん。スッキリした」
「はは。よかったね」
伊月の手を取って自分の頬にあてる。アルコールで火照った顔にはちょうどいい。
テーブルの上の雑誌を視界に入れる。オーストラリアという文字が見えた。
「今度はオーストラリアに行くの?」
伊月は一瞬不思議そうな顔をして、それからすぐに雑誌の存在を思い出したようだった。
「すぐにじゃないけど。いつかは行きたいなと思ってるよ」
「行ったことなかったっけ?」
「昔1回だけ、メジャーな観光地に行った程度かな。次はもうちょっと別の地域」
「そっか。行ったことないとこって意外とあるねぇ」
「世界は広いからねぇ」
この世界に私の正義は負けた。
けれどこの世界で生きていかないといけないから。
世界が変わらないなら自分を変えるしかない。
そんなことは、4年以上前から知っている。
「ねぇ伊月」
「なに?」
「もう一回、やり直さない?」
伊月と目が合う。
少し驚いた顔をして、それから、ほどけるように笑った。
「それ、明日もちゃんと覚えてるやつ?」
「そんなに飲んでないから。そもそも酒で記憶なくしたことなんてないし」
「じゃあ、明日もう一回聞くからね」
「臨むところですけど?」
くすくすと笑いながら私の頬を両手で包み込む。
コツンと額があてられて、視界が伊月でいっぱいになった。
「結、好きだよ」
唇が重なって、胸がキュウと痛くなって、幸せだなと思った。
世界は何も変わらず厳しいままだけど、私が幸せに生きていられる世界なら、それでいい。