1.砕け散った未来
読んでいただけると、嬉しいです。
十話くらいで完結します。
コメディです。シリアスはないです。
よろしくお願いします。
ポツポツと道に丸い染みを作っていた雨が、一気に本降りになった。道には早くも水溜りができるほどだし、雨脚の強すぎて前が見えないほどの視界不良だ。
びしょ濡れで色が濃くなったドレスからも、オレンジ色の髪の毛からも、エメラルドグリーンの丸い垂れ目からも雨が滴っている。
ずぶ濡れのアディリアは、自分をこんな目に遭わせた真っ黒で凶悪な雨雲を見上げた。
「……雨、降ってくれて良かった……」
重くなったドレスを引きずるように扉を通過すると、慌てて門兵が傘を持って飛び出してくる。
「お嬢様、どうしたのですか?」
「あはは、隣に行こうとしたら雨が降ってきちゃって……」
門兵から傘を受け取ったアディリアは、びしょ濡れの自分を見て「今更」とは思ったが、門兵の親切を無下にする訳にもいかないので、ありがたく傘を借りた。
玄関の前で一応ドレスを絞るが、滴る水滴を止めることはできない。
玄関のドアを開けたずぶ濡れのアディリアを見た、メイドは目を見張った。
「お嬢様!」
「雨に降られちゃって……。こんなにびしょ濡れだと、掃除の手間を増やしてしまうわね」
「掃除なんかより、お嬢様の身体が心配です。早く身体を温めなくては!」
メイドが手際よく湯船にお湯を張ってくれたおかげで、アディリアは冷え切った身体を温めることができた。身体が温まると、目から溢れてくるものが熱いと分かってしまう。雨ではなく、涙なのだと自覚せざるを得ない。
涙を流すほど、自分は悲しんでいるのだ。
さっき見た光景は真実なのだと、思い知らされる。
そう思った途端にさっきの光景が脳内で再現されるが、アディリアの細胞の全てが、それを全力で拒否する。
心なのか? 脳なのか? 胸の奥から抑えられないどす黒い感情が湧き出してくる。
バシャリと湯船の中に潜ったアディリアは、水中で叫んだ。気が済むまで、疲れ果てるまで、叫び続けた。
叫び続けて息も絶え絶えで頭を空っぽにしたアディリアは、姉であるフェリーナ・エミネスの屋敷にいた。
とにかく現実逃避をしたいアディリアは、唯一自分を叱ってくれるフェリーナに会いに来た。今は誰にも甘やかされたくなかったのだ。その点、フェリーナは絶対にアディリアを甘やかしたりしないので適任だ。
三つ年上で二十一歳のフェリーナは二年前にエミネス伯爵家に嫁いでいでおり、もうすぐ一歳になる長男フィラーの子育て真っ最中だ。実家では見せたことがないような笑顔をフィラーに向けているのを見ると、「フェリーナもお母さんなんだな」と実感する。
フェリーナは通常でもきつい緑の目を更に吊り上げて、厭味ったらしく深いため息を吐き出した。そして、アディリアの希望通り叱ってくれる。
「急な先触れと同時に来るなんて、本当に迷惑よ! 非常識にも程があるわ!」
「はい、申し訳ありません」
「その態度、困るんだけど。いつも言っているけど、私が妹を虐めているみたいに見えてしまうのよ」
「今日は姉様の叱責を受けたい気分なので、存分にどうぞ」
「はぁ? 馬鹿だとは思ってたけど、ついにおかしくなったの?」
フェリーナは大声を出してしまってから、自分の腕で眠りつこうとしていたフィラーに気が付く。幸いフィラーはウトウトしたまま、そのまま寝入ってくれそうだ。
愛おしそうに息子を見つめるフェリーナを前に、「姉様でも、そんな顔をするんですね」と言ってしまってから「あっ!」と失言に気づくアディリア。
「貴方は相変わらず甘ったれね。何を言っても許される環境だから周りのせいでもあるけど、もっと自分を律しないと恥をかくのは貴方だけではないのですよ」
フェリーナの呆れ切った苦り顔が、今日のアディリアには心地良い。
フォワダム家の家族は、昔から三兄妹の末っ子であるアディリアに甘かった。
五歳年上の跡取りである兄、三つ年上の姉は父の血を濃く受け継いだ。美形だがきつい顔立ちの上、背が高く威圧感がある容姿をしていた。
それに比べて末っ子のアディリアだけ母親似で、丸い垂れ目の可愛らしい顔立ちをしており、小柄で庇護欲を掻き立てる容姿だった。エメラルドグリーンの大きな瞳に涙を溜めて見つめられると、誰もがつい許してしまうのだ。性格も素直で甘え上手で、ビックリするぐらいするりと人の懐に入ってしまう。
愛くるしい小動物のように周りから可愛がられ、上二人と比べると勉強もマナーもほどほどで許され、甘やかされて育ったとアディリア本人も自覚している。
甘やかされた理由はアディリアの容姿のせいだけではなく、隣の家に住むルカーシュ・ロレドスタとの婚約が決まっていたこともある。
フォワダム家とロレドスタ家は、お互いに由緒ある侯爵家だ。地位も資産も同格で、当主である二人は子供の頃からの親友同士だ。それもあって子供が生まれる前から両家は家族同然の付き合いをしており、ロレドスタ家もアディリアを実の娘のように可愛がり甘やかしている。
そういう気心の知れた家に嫁ぐことが決まっているせいか、両家共にアディリアに対して甘くなってしまったのだ。
一般的に見ても厳しく育てられた方であるフェリーナからすれば、面白い話ではない。甘やかされることを当然と思い、向上心もなく努力をしない妹がフェリーナは苦手だった。妹だけではない。妹を猫かわいがりする家族も苦手で、結婚して早く家を出ることがフェリーナの目標だったくらいだ。
「何度も言っているけど、貴方の実力は何を取っても侯爵家には相応しくありません。このままではロレドスタ家にもフォワダム家にも泥を塗ることになりますよ」
と言ったところで、幼少から甘やかされるのが常だったアディリアが変わることはない。無駄なことを言っていると、フェリーナは分かっていた。分かっていても、つい言ってしまうのだ。苦手と言っても妹だ、嫌いなわけではない。今のアディリアではこの先苦労するのが目に見えているから、つい口を出してしまう。
また無意味なことを言ってしまったとフェリーナはため息をついたが、今日のアディリアはいつもと違っていた。
「姉様の言う通りよ。私がこのままで、良いわけないわよね?」
妹の言葉にポカンと口を開いたままのフェリーナに向かって、アディリアは姿勢を正して座り直した。
「姉様のような淑女になれるよう、私を鍛えて!」
必死な表情で教えを乞い頭を下げる妹を、フェリーナは本気で別人なのではないかと疑った。アディリアと言えば、甘やかされた怠惰な人間の代表格なのだ。
フェリーナの腕で寝入ったフィラーを乳母に預けると、いつもヘラヘラしているアディリアらしからぬ真剣な表情をした妹と向き合った。
「何があったのです?」
(何かあったけど、それは言えない。心配してくれたのに、ごめんね。今は何も考えられないほど、何かに打ち込みたい気分なの)
今までのアディリアなら辛いことがあれば、すぐ人に頼っていた。頼るなんてものではない。泣いて縋っていたはずだ。自分で解決する気は最初からなく、一通り不満を口にした後は他人に丸投げして後の対応を任せるのだ。
しかし、酷く悲しい笑顔をしたアディリアは、フルフルと首を横に振る。
「何もないよ。ただ、今までの自分がいかに愚かだったか気づきはしたかな……?」
フェリーナは、こんな殊勝な言葉を口にする妹を前に、目を開いたまま半ば気を失っていた。
周りに甘やかされ、世の中の日の当たる部分にしか目を向けてこなかったアディリアは、日が当たれば影ができることを今朝知ったのだ。
妹の変化を喜んだフェリーナが、アディリアに淑女としての心得を叩きこむと約束してくれた。スパルタのフェリーナらしく、早速その場で特訓が始まった。妥協のない厳しい特訓だったため、帰りの馬車に揺られるアディリアは疲れ切っていた。
できればこのまま、何も考えずに何も感じずに眠ってしまいたい。そう思うのに、アディリアの頭は冴えわたっている。
消し去りたいのに今朝の光景が思い出されては、アディリアが必死になって打ち消す。何度打ち消しても、鮮明に浮き上がってくる光景は、目を閉じても消えることがない。
「もう、見たくないのに……」
そう呟いて馬車の壁に寄りかかったアディリアの目の前に、今朝の光景が広がる。
アディリアの婚約者であるルカーシュ・ロレドスタは、三つ年上で姉のフェリーナと同級生だ。
家族から甘やかされて育ったアディリアだが、一番アディリアを甘やかしているのは、間違いなくルカーシュだ。それは誰もが知っている事実で、フェリーナに至っては『妹の体たらくはルカーシュのせいだ!』と恨んでさえいる。
恨まれても仕方がない。勉強ができなくても、マナーがなっていなくても、常識外れのことを言いだしても、ルカーシュは「そんなリアが可愛いよ」と言ってニッコリと微笑むのだ。甘やかされて考え無しなアディリアは、「大好きなルカ様が言うなら、いっか」となってしまう。
一人っ子のルカーシュは、アディリアを妹のように大事に真綿で包むように慈しんできた。
それに対してアディリアは、子供の頃からルカーシュ一筋だ。ルカーシュしか目に入っておらず、ルカーシュも、もちろん自分と同じ気持ちだと思い込んでいた。ルカーシュの愛情を一身に受けていると思って生きてきたのだ。
だからこそ、ルカーシュとアディリア、そして二人の間に生まれるであろう子供達と両家の両親が、青い空の下で柔らかい陽の光を浴びながら笑い合って、庭でお茶を飲んでいる未来を信じて疑ったことがない。
そんなことばかり想像しながら、お気楽な毎日を送ってきたのだ。
だが、それも今朝までのことだ。
アディリアが勝手に思い描いていた未来の景色は、砕け散り、霧散した。
アディリアとルカーシュの未来の景色は、キラキラと光り輝くものではない。春の日差しのように穏やかなものでもない。灰色一色で光の届かない、優しさの欠片のないものなのだと知った。
読んでいただきありがとうございました。
まだ続きますので、読んでいただければ嬉しいです。