海楼の魔法使い
海楼の魔法使い
陽のよく通った森の中を小さな馬が荷車を引いていた。
その御者台には初老の大男が身体を折り畳んで座っていて、見ている方が窮屈になってくるのだが、本人はまるで気にしていない様子で鼻歌なんかを歌いながら手綱を引いていた。
「お師匠ォ、ほんとにこの道であってるんですか?」
ガタガタと揺れる荷台の中で寝転がっている少女が言った。
道というにはあまりに自然のままだったが、荷車はガタンガタンと上下に揺れながら、森の中とは思えない速さで走っている。
彼女の手の上に乗っているカワウソが『たかいたかい』をされて嬉しそうにきゅきゅうと鳴いた。
「あっておるよ。いいかげん方角くらい星を見て読めるようになれ。それにな、長い付き合いの中で何度も通っている場所だ。間違いやしない」
少女は陽をカワウソで隠して緑の向こうにある青空を見やった。雲ひとつない晴天だ。
「昼間っから星が見えるのなんてお師匠だけでしょ。それに……」
カワウソを抱きかかえて身体を起こし、男の方を向いた。
「前に行ったのって何百年か前だって言ってませんでした? こないだみたいに『忘れてしまった〜』なんてことになってないですか?」
やや間があったが「今度は大丈夫だ」と、キッパリと、しかし煩わしそうに答えがあった。
疑いの目を男の背中に刺しつつも、少女は再び体を横にした。
「だってさ、ファロ〜」
頭を撫でられたカワウソは気分良さげに目を細めて、きゅきゅうと鳴いた。
確かに、先ほどから潮の香りが風に乗ってきているのが感じられている。どうやら、ちゃんと海の近くまでは来ているようだった。
森を抜けたのは昼を過ぎた頃だった。視界が開け、その向こうの地面が途切れた先は一面真っ青だった。空の爽やかな青と海の力強い青の間にははっきりと黒い境界線がある。ギラギラとした光が境界線から下を照らしているのがわかった。不規則な白い輝きが濃紺の上にいくつも浮かび上がっては消え、様々な模様を描いている。動物の毛並みが風に揺れているようだった。
「見えたぞ、カンナ。ディナグルナの海楼だ」
遠く行先に見える断崖の岬に白っぽい建物が立っているのが見えた。かなり背の高い建物であることが遠目からでもわかった。
「おっきいですねぇ」
「灯台の役目もしておるからな」
「とうだい? とうだいって何ですか?」
「船の道標になる建物のことだ。夜に灯りを点けると船の目印になる」
「なるほど……。夜でも海の人々を守っているってことですね!」
男は物言いげに横目でカンナを見たが、何も言わずに前に向き直った。
「何ですか? 今の何ですかお師匠?」
「何でもないわい。静かにしておれ」
「絶対何か言おうとしましたよね? お師匠!?」
「舌を噛むぞ」
そう言って彼は馬の足をさらに速めたので、カンナは荷物を押さえて荷台で大人しくしているほかなくなってしまった。
海楼は、近づいて見ると巻貝のような形をしていた。玄関から硬質で白い壁が滑らかに大きな螺旋を描いて高くまで続いている。2階建てでは収まらないだろう。3階、あるいは4階建てかもしれない。カンナはこれまでに4階建ての建物なぞ、どこぞの貴族のお屋敷でしか見たことがなかった。螺旋の壁には所々突起があって横にも大きく広がっており、白一色であるにもかかわらず複雑な形が織りなす影の立体感が絢爛豪華な城のような佇まいである。そしてなにより、大きな灯ろうである。突き出た踊り場で隠れて先の方しか見えないが、これもまた城を連想させる外観になっていた。
口をポカンと開けたまま足元のファロを抱き上げるカンナの眼前を、土産の袋を担いだ師匠がささっと横切っていった。
彼は後から追いかけてくるカンナを待たず、海楼のドアノックをガンガンガンと叩いた。しかし、反応はなかった。
もう一度叩く。
「ミエネラ! カザルフエスだ! いないか!」
カザルフエスの大きな声が響いた。だがやはり、人の気配は返ってこなかった。
「お師匠、お留守みたいですよ?」
「ふむ」
カザルフエスは、ふうっと息の塊を吐くとドアノックを持ち直して、今度はガンと1つだけ、大きく叩いた。
そこには僅かに魔力が込められていることがカンナにはわかった。
しかし、何も起こらない。
カンナが微動だにしないカザルフエスの背中を眺めていると、海楼の向こうからパーン! と海が崖を打ち付ける音が聞こえ、同時に大きな水柱が立ち上った。
やがて、海楼の後ろから長い金髪の女性が1人歩いてきた。
カンナは彼女と初めて会ったときのことを思い出した。
10年ほど前、カンナがカザルフエスに引き取られてからしばらく経ち、落ち着いた頃だ。魔法使いたちの会合の場で一言二言、言葉を交わしただけだった。本当に美しい人というのは纏っている空気から違うのかと感動したが、今この瞬間もやはり、その空気に感動している。
「おお、ミエネラ。久しいな友よ。息災そうで何よりだ。そして、相変わらず美しい」
「あなたも変わらないわね、カザルフエス。会えて嬉しいわ」
柔らかく、おっとりとした物言いだった。かすかに湿った長い髪をかきあげる仕草は同性のカンナから見ても妖艶で、どきりとした。
「カザルの秘蔵っ子。お久しぶりね。えっと……」
「カンナです、ミエネラさま。お久しぶりです」
「そうだった。カンナちゃん。さあ、二人とも上がって。カワウソくんも、お魚の干物がたくさんあるわよ」
挨拶を交わすと、ミエネラは海楼に入っていった。
ぽぅっとしていたカンナだったが、カザルフエスも中に入ってしまうと慌てて後を追った。
玄関のドアをくぐるとすぐに広間になっていて、大きな暖炉と黒縞の白猫が出迎えてくれた。
「その子はユニップ。この家を守る使い魔」
ユニップは3本の尻尾を揺らした。ファロは少し緊張した様子でユニップを凝視している。
広い部屋だった。暖炉の向かって右側には大きなテーブルがある。1人で使うにはいささか大き過ぎるテーブルだ。テーブルのさらに向こうには大きな窓があり、ディナグルナ海が一望できそうだ。陽光も部屋中にたっぷりと入ってきており、装飾の少ない素朴な室内を橙の光と影が優しく彩っている。すっかり影になっていて見えにくいが、陽光の指す先には炊事場があった。
入口の側のすぐ目の前に螺旋階段があり、その奥にはドアがあるので、さらに部屋があるようだ。
「私はお湯を浴びてくるわね。カンナちゃんも、一緒にどう?」
「え、お風呂があるんですか?」
カンナは浴場といえば大衆浴場か貴族や王の屋敷にあるものしか知らず、こういった一軒家に風呂があるなどとは想像したこともなかった。
「ええ。長旅で湯浴みも久しぶりでしょう?」
カンナがカザルフエスを見やると、彼は何も気にした様子なく答えた。
「いってくるといい。わしはユニップと旧交をあたためるさ」
名前を呼ばれるとすぐ、ユニップはカザルフエスに飛びついた。それを彼は「おっとと」などと言いながら嬉しそうに受け止め、抱き抱えた。
「こっちよ。カワウソくんもいらっしゃい」
ミエネラはカンナがカザルフエスの返事を聞いたときにはすでに上階へ向かって歩き始めていた。カンナもすぐに彼女に従って螺旋階段を登っていった。
2階はわずかな廊下に扉が2つあるだけだった。片方の扉は開かれていて、階段からキラキラと窓からの光を反射する宝石がたくさん置かれているのが見えた。おそらく魔法石だろうとカンナは思った。1階の広さからしてこの2つの部屋も相当に広いはずだが、
3階は真っ暗だった。ミエネラが指をかざすと吊るしてあったランプに灯がともった。先ほどよりもさらに狭いフロアにドアがひとつあるだけだった。螺旋階段は天井まで続いていて、そこの行き着く先には小さな四角いドアが付けられていた。
「どうぞ」
ミエネラがドアを開けた。小部屋になっていた。どうやら脱衣所らしい。大きな衝立がある。浴室はその向こう側だろう。
彼女は中に入ると石のようなものでできた大きな箱の蓋を開けた。箱は壁の高いところにかけられているようで宙ぶらりんにされていた。大きくて重そうで、落ちてこないだろうかと少し心配になる。箱の下には木で編まれた籠がおいてあった。
「脱いだ着物はここに入れて」
そう言って彼女は来ていた白いワンピースを肩から落として脱いだ。着ているものはそれだけだったらしい。白く滑らかな裸体があらわになった。彼女は屈んで床に落としたワンピースを拾い上げると箱の中に入れた。長い髪がサラサラと玉の肌の上を滑る。
ミエネラはカザルフエスよりも年上だと聞いたことがあった。それも何百年かは年上だと。確かカザルフエスが800歳くらいなので、ミエネラは1000歳を超えていてもおかしくはない。それがどうしたことだろうか。見た目の年れいはカザルフエスよりも圧倒的に若いのだ。魔法使いになった歳が若かったのだろうか、それともメロウ族の出身であるからだろうか。
「先に入ってるわね。着物、入れたら蓋をしてちょうだいね」
ミエネラはファロを抱き上げて、衝立の向こうに消えていった。
カンナは彼女を見送ると、はっと我に返って服を脱ぎ、言いつけ通りに石箱に入れた。蓋を閉じようとしたが、上に開かれた蓋は高いところにあったのでつま先で立ってもあと少し届かなかった。カンナは衝立の方を少し見てから、蓋から距離を取った。
軽く助走をつけて飛んだ。指先は蓋を閉じるのに十分な高さまでちゃんと届いた。
(あれ、でもこれって……)
固そうな蓋を飛び上がったこのままの勢いで閉めたら大きな音が出るのではないか、と思い至ったカンナは咄嗟に蓋を指先で摘み、手を上げたまま、つま先を使って高い位置で着地した。蓋の感触は思った通り固く冷たいものだった。
今度は自分の指が挟まれないように蓋の閉まる勢いを殺すように力を加えながら、そおっと踵をついた。蓋は見た目や手触りから思い描くよりずっと軽かった。
ゆっくりと蓋をすると安堵のため息が出たが、すぐ後から何とも言えない情けなさが苦笑いとなって込み上げてきた。今度のため息は長くて深かった。
気を取り直すために衝立の目の前までずかずかと歩み寄り、深呼吸してから向こう側をそっと覗くと扉がもうひとつあった。
ゆっくりと扉を開けると、海風がぶわっと吹き付けてカンナの身体を撫でた。向かいの壁が取っ払われていて浴室が海の方にさらされていたのだ。
高所から遮るものなく見渡すディナグルナ海はどこまでも広く、大きかった。
「うわぁ……」
一歩、二歩、と浴室に出ていく。
おろした髪が風になびいて、一本一本が解けるように宙を舞った。
「こっちにいらっしゃい」
右を向くと全身を濡らしたファロがミエネラの手の中から飛び出したところだった。彼女は長い筒を持っていた。筒からは水が細くいく筋にも分かれて噴き出していた。いや、水が石床にあったったところから湯気が立ち上っている。あれは水ではなく湯なのだ。壁から筒を通して湯が出ているのだ。
カンナがゆっくりとミエネラの元へ行くと、ミエネラは足先に湯をかけ、そこからゆっくりと肩まで順に湯を登らせていき、カンナの身体を温めた。カンナはほぅっと深く息を吐いた。
「髪、洗うわね」
ミエネラは返事を待たずにカンナの髪に湯をかけながら指で梳きはじめた。カンナは一瞬振り返ろうとしたが、すぐに身を委ねミエネラにされるがままになった。ミエネラはひと梳きひと梳き、ゆっくりと手を動かした。
ミエネラの指はカンナの髪の間を一本一本にくまなく触れるように優しく広げ、湯を全体に行き渡らせた。頭皮に指があたるとその細さがよくわかった。そこから指の動きに沿って自分の髪が伸びているのが感じられる。最後に髪を切ったのはいつだったか。最後にミエネラと会った魔法使いの会合が数年前。それからは伸ばしっぱなしのはずだ。
「いろんなところを旅してきたのね」
「はい。海は久しぶりです」
「そう。じゃあ、ゆっくりしていくといいわ。はい、おしまい。湯船につかって温まりなさい」
ミエネラはカンナの髪をさっと整えた。
「はい。ありがとうございます」
言われるままに、カンナは湯船に浸かった。向こうには一面に海が広がっている。空が陽の色に染まってきているが、海はそれとは反対に暗くなり、その青の深さを増してきているようだった。
天空で最も力を持つ太陽がこれから海に飲み込まれようとしている。山の向こうに太陽が隠れていく様子は日常的に見る当たり前の出来事であるが、今目の前にある景色はこれまで見てきたものとは全く違うもののように見えていた。
隣で水面の揺れる音がした。ミエネラが浴槽の縁に座って足だけ湯に浸かった。
「……このお家はミエネラさまが造ったのですか?」
「そうよ。……友達と一緒に、ね」
「すごく素敵です」
「そう? ありがとう」
友達と一緒に。それはどんな人たちなのだろう。その人たちはまだ生きているのだろうか。確かミエネラは人族ではなく、メロウ族だったはずだ。メロウ族は長命な種族ではあるが、陸に家を建てるのであれば人族の人たちと建てたのかもしれない。それだったらもう生きてはいない。そこにはカザルフエスもいたのだろうか。
「そろそろ出ましょう。ごめんなさいね、わたし長湯は、あんまり得意じゃないの」
「ああ、ごめんなさい。気づかなくて」カンナは思わず勢いよく立ち上がった。
「ファロ。おいで」
ずぶ濡れになったファロを抱いて脱衣室に戻った。
「ちょっとじっとしてて」
ミエネラがカンナを包み込むように両手をかざすと突如温かい風がカンナを中心に巻き起こり、噴き上がったと思ったら何事もなかったかのように消えていた。
我に返ったカンナは自分の髪も身体も腕の中のファロまでも、すっかり乾いてサラサラになっていることに気付いた。
「服はそこの籠の中よ」
先ほど脱いだ服を入れた箱の下に置いてあった籠の中に服が入っていた。取り出してみると洗濯の後に乾かした服を取り込んだ時のような手触りだった。いや、まさにその通りなのだ。
背後で風が巻き起こり、乾いたミエネラの手が伸びてきてワンピースを持っていった。
「これって……」
服を抱きしめながら振り返るカンナの両目はこれ以上ないくらいに見開かれていた。
「綺麗になってるわよ。手で洗うよりも綺麗になるの。便利でしょう?」
旅をしていなければこんな便利な道具をカザルフエスも作れるのだろうに。カンナは服を着ながら、自分は修行を終えて一人前になったら旅などしないぞと心に誓っていた。
カンナたちが1階に戻ると、カザルフエスがテーブルにお菓子とティーポットを用意していた。
「おかえり。先にいただいているよ」
カンナの眉間に大きな皺ができた。大きく息を吸ったが、すぐ横をミエネラが歩いて行き、当たり前のようにカザルフエスの向かいに座ったので、カンナは出そうとした声の行き場をなくしてしまった。
カザルフエスは椅子にもたれかかって、くつろいだ様子でカップを掲げてみせた。
「やはりここに来たらこの景色を楽しまなくてはな」
カップを手元の皿に戻しながら窓の方を向いて言った。
お風呂で見たときと違い、窓いっぱいが真っ赤に染まっていた。太陽は鈍く黄金に輝き、空を赤く染め、黒くなった海さえもその黒の上から真紅に塗り替えている。
「カンナや」
「はい」
「海は大きいだろう。ああして太陽を飲み込んでしまう」
「はい。あたしも、なんて大きいんだろうってお風呂で考えてました」
「この景色をよく覚えておきなさい。ここには魔法の深淵が幾重にもなって詰まっている」
言われて、カンナは改めて水平線の景色を見た。
太陽の光が海の上を橙色の道となってまっすぐに伸びてきている。海の上には黒い波が模様となって刻まれているが、陽光は波の揺らぎを上から塗りつぶして、やわらかそうな、しかし確かな、この海楼にまで続く光の道を描いている。
ファロがカンナの足に隠れるように抱きついてきた。視線の先にはユニップがいる。そのユニップはというと我関せずといった風で、あくびなんかをしてキャットタワーの上に座してくつろいでいる。白い毛並みは陽の色に染まっていた。
カザルフエスが立ち上がり、テーブルのティーポットにそっと手をかざしすと、ポットの口からうっすらと湯気が出てきた。そのすぐ後を追うように甘い香りが鼻をなでた。
カップも、そこに注がれる紅茶も、橙色に燃えている。カップに施された金の装飾の一部が強く光を反射して色味を変え、かろうじてその存在を感じさせる。ミエネラの前に差し出される動きに合わせて装飾の輪郭が変わって見えた。
「ありがとう」
「サブールの香茶でな、グアヌラというそうだ。香りは甘いが味はすっきりしておるよ。向こうで飲んできっと気にいると思ってな」
「そう」
ミエネラはカップを持ち上げると、香りを確かめてからほんの少しだけ口に含んだ。表情はほとんど変わらなかったが、カップを置いて、たっぷりと時間をかけて味わっているようだった。
「ほんと、おいしい」
「はっは。よかったよ」
「あなたもお風呂、入ってらっしゃいな。その間に食事、用意しておくわ」
「ああそうだな。では、お言葉に甘えるとしよう」
カザルフエスは自分の旅袋の中から大きい手拭いを取り出すと螺旋階段を登っていった。その他にも旅の荷物の一部が部屋に運んであった。このほんのわずかな間に、空は先ほどまであった鮮烈さを失っていた。徐々に落ち着きを取り戻すように、天頂から紫の暗さがうっすらと気配を漂わせ始めている。
「カンナちゃん」
「はい」呼ばれて、カンナは振り返った。
「お座りなさいな」
カンナが近くの椅子に腰掛けると、ミエネラがお茶を注いでくれた。
「あ、ありがとうございます」
「何か食べ物も欲しいわね」
「あの、いえ。その、どうかおかまいなく……」
「遠慮しないで」
ミエネラは棚から土瓶と小箱、それから小皿と小匙を持ってきた。小箱から堅パンを取り出して小皿に乗せる。
「カルスは知ってる?」
「はい。ここに来るまでに何度か」
ディアナグラ地方では主食として一般的なものらしく、道中に立ち寄った店での食事に出てきていた。ミエネラのカルスは食事のときのものに比べてかなり小さく切られている。カンナでも二口で食べられてしまうくらいの大きさだ。
「これはクミラという果物のジャムよ。このお茶に合うわ」
こちらは初耳だった。土瓶から紫色のジャムが出てきた。クミラのジャムは小匙からとろりと垂れ落ちてカルスの上に乗った。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
カルスを持ち上げると花のような甘い香りが鼻腔の奥を突いた。口に含むとより一層芳醇な甘さで一杯になった。カルスは程よく薄く、サクサクと小気味良い音をたてる。紅茶を啜ると口の中に残るねっとりとした甘さをグアヌラがさっぱりと爽やかにしてくれた。
カンナの向かい側でミエネラも同じようにクミラジャムのカルスをかじっている。グアヌラを一口含むと、とても満足気に微笑んだ。
「ミエネラさまは海を守っておられるのですよね」
「そうよ。海は私の世界だから。カンナちゃんはハリストの出かしら?」
「はい。ジュガ村という田舎の出身です。山の麓にあってヤギをたくさん飼ってるんです。チーズやミルクをたくさん作ってカルイドラっていう大きな街に売りに行くんです」
「あなたは山の人だったのね」
カンナは少しはにかんで答えた。
「いえ、山にはちゃんとした山の人たちが住んでいますから。私たちは半端なものです」
ミエネラが一口飲んだカップが置かれる音が小さく鳴った。
「故郷にはちゃんと帰ってる?」
「はい。たいていは夏至祭りに。お師匠と花火を売りに」
「そう」
微笑むミエネラの顔はいっそう柔らかくなった。
「お料理、手伝ってくれる? 普段たくさん作ることなんてないから、不慣れなの」
「はい。よろこんで」
カンナは調理を手伝っている間、旅であったいろいろなことを話した。(手伝うことより話すことの方がずっと多かった)風呂から戻ったカザルフエスは初めのうちはカンナの話に合いの手を入れていたが、そのうちに長椅子で眠ってしまっていた。
ミエネラが腕を振るってくれた夕食は短い時間で作ったにもかかわらず豪華だった。新鮮な生魚の切身のサラダ、スープ、見たことのない野菜の酢漬けや煮物が色とりどりに並んだ。ミエネラは急な訪問で何も準備がなくて申し訳ないと言ったが決してそんなことはないご馳走で、海の幸を使ったスープがカンナには新鮮な味わいでとても美味しかっし、厚めのカルスにもよく合った。
ミエネラとカザルフエスの2人は酒も楽しんだ。カザルフエスが土産で持ってきた品の一つだった。カンナも飲むこともできたが、体はまだ12歳くらいの子供なせいか、その良さが全くわからず酒は好まなかった。今夜も少し飲んでみてすぐにカザルフエスにカップを渡してしまった。
食事の後、カザルフエスはテラスに出て星を眺めていた。
その傍らにはファロが座っている。目の前には火のついた薪が1本入れられた金属の大皿があった。
ファロが前足で掻くようにすると炎が引き寄せられ、黄色い光の球体ができた。ファロはそれを歯を剥き出して、瞬く間に飲み込んでしまった。薪は赤熱した光だけを出していたが、やがて再び炎を宿した。それを待っていたファロは同じように炎を掻き取って口の中に入れた。
片付けを終えたミエネラがグラスを持ってカザルフエスの隣にやって来た。
「ヒクイカワウソが火を食べてるところ、初めて見るかもしれないわ」
「この辺りにはいない魔獣だからのう」
ミエネラが頭を撫でると頬を擦り付けて戯れたが、再び薪の炎が大きくなるとミエネラの手から離れて炎を食べ始めた。
「何か海に変わりはないか?」
「何かの予兆?」
「……わからん。とにかく星が騒いでおってな。予兆というほどはっきりしたものではない。だが、ディナグルナの地で何かよくないことが起こる予感がする」
「そうね……。今のところ海に大きな変わりはないわ。悪い噂も聞かない」
「……そうか」
「でも、あなたの悪い予感はよく当たるから。いつも悪いものばかり。気にしておくわ」
「良いことはわざわざ言って回らないだけだ」
「なぜ?」
カザルフエスは片眉を上げて言った。
「良いことは思いがけず起こった方が嬉しいだろう?」
ミエネラは少しだけ声を漏らして笑った。
「そう」
カザルフエスがグラスをテーブルに置いた。
「明日の朝にはここを発つことにするよ」
「もっとゆっくりしていけばいいのに」
「早いうちにできるだけ広くこの地方を見ておきたい」
「そう」
「なあに。ディナグルナを離れる前にはまたここに立ち寄るよ」
2人はファロの薪が炭になるまで空を眺めた。そこから見る星空は灯火にすっかりと覆われて白んでいる。普段は暗闇に凛と佇む星々が、水に浮かんで揺蕩い安らいでいるようだった。
翌朝早く、カザルフエスとカンナは馬に荷車を繋いで荷物を乗せ、出立の準備をしていた。
「お師匠ォ、朝ごはんくらい食べてからにしましょうよぉ。ミエネラ様ともちゃんとごあいさつしたいですしぃ」
「挨拶なら昨晩した」
そっけない返事だけを返すだけで、カザルフエス準備の手はまったく緩まなかった。
「わたしはしてないんですってば〜」
そう言いながら、カンナも馬のブラッシングの手を止めることはなかったが「シュルカーも、もうちょっと休んでいきたいよね〜」と愚痴るように馬に話しかけている。話しかけられたシュルカーは鼻息荒く、口をもごつかせているだけだ。
もう出発できるかというほどに準備が整ってきたころ、ショールを羽織ったミエネラが扉から出てきた。
「おはよう。早い出立ね」
手には何やら荷物を持っていた。
「ミエネラ様、昨日はありがとうございました。本当に楽しかったです!」
「よかった。これ、持っていって。昨晩作ったの」
そう言ってカンナの左手を取ると、人差し指に白い指輪をはめた。
カンナがそっと指輪に触れると、魔法の品であることがわかった。陶器のようにすべすべとしたリングに小さな白い石がはまっている。どちらもカンナのマナとよく馴染んでいるのを感じられた。
「ありがとうございます。大切にします」
「マーズキーサの貝殻と永凍氷晶でできてるわ。あなたにぴったり」
そう言いながらミエネラはカンナの髪を優しくなでた。
「また、いつでもいらっしゃい」
「はい!」
準備を終えたカザルフエスが馭者台に乗り上げた。
「世話になった」
「これ」
ミエネラは包みをカザルフエスに渡した。
「ありがとう」
「カルリタ、行くんでしょ?」
「ああ。この子の杖を登録せんとな」
「私たちは気にしないのに。律儀、ね」
「人のきまりは守っておかねば後々面倒だからの」
ミエネラは微笑んだ。
「そ。気をつけて」
「ああ。それじゃあ、達者でな」
手綱が優しく鳴り、荷車が静かに動き出した。滑らかに加速し、あっという間に森の中へと入っていく。
カンナは荷台から、ミエネラが小さくなっていき、その小さな影が美しい海楼の中へ消えていくのまでを見送った。
了




