最終話 明日を掴んで立つ
最近困ったことがある。
「ねぇ、立木さん。さっきの授業で分かんないとこがあってさぁ」
「立木さん! 一緒にお昼ご飯食べよ!」
「ユイちゃん、飴いる?」
「ユイ、部活の助っ人に来てよ」
先日の私がプールで溺れた一件以降、遠ざけられていたユイはみんなのヒーローになった。さらにとどめの一言『私は彼女の恋人なので』(私は当然覚えていない)で、尊敬のまなざしを向けられてしまっている。
もうすぐ夏休み、そして期末テスト。それも相まってユイはクラスで大人気だ。
「立木ぃ、あたしもさっきの授業で分かんないとこがさ」
「えー!? ケイちゃんも!?」
どさくさに紛れてケイちゃんまでユイに質問しようとしている。ユイの周りにはたくさんの友達がいた。ユイは大変そうだけど楽しそうだ。
「なんだよ、いいだろ別に」
「ケイちゃんはもともとそんなに悪くないでしょ」
「推薦だからテストはちゃんと良い点取らなきゃいけないの」
分からないところを分かりやすく説明されて、質問した子は嬉しそうにお礼を言っている。お礼を言われてまんざらでもない表情のユイ。
「…………」
「なに? やきもち?」
ニヤニヤしながらケイちゃんが聞いてきた。私は頬を膨らませながら答える。
「べっつにぃ。一番ユイに勉強教えてもらってるのは私だし。放課後は私とずっと一緒だし。学校にいるくらいは許してあげてもいいけどって思ってるだけ」
「やきもちじゃん。かわいいな、お前」
ケイちゃんは私の髪をぐしゃぐしゃかき回した。
「ごめんね。今日はホシネとご飯食べる約束してるから」
お昼休みになって、やっとユイは人だかりから解放された。ヒューヒュー言われている。すっかり私たちはクラスの公認カップルになってしまった。
「お待たせ。行こ、ホシネ」
「……はぁい」
一緒に食堂に行き、お昼ご飯を食べる。
「どうしたの? ずっと難しい顔をしてるけど」
行儀よくハンバーグを刻みながらユイが尋ねてくる。
「ユイがクラスに馴染んで嬉しいなぁって」
「そんな表情には見えないけど……」
ユイは苦笑する。
「でも、初めて学校が楽しいって思ってる。ありがとう、ホシネ」
「私は何にもしてないよ」
「ホシネのおかげで私は変われてるんだよ。だからありがとう」
「……うん」
私はなんだかその視線を真正面から受け止められなくて、チャーハンをかきこんだ。
放課後は相変わらず二人で勉強会だ。今日の授業で分からなかったところを質問して、復習して、予習して、問題集を解く。
「うん、これもマル」
ユイは私のノートに大きく赤マルを描いた。
「ホシネ、すごいよ。だいぶできるようになった」
「でしょ? えへへ。結構要領つかめてきたかも」
ユイのスパルタ教育が功を奏して、私の成績はみるみる上がっていた。今回の期末テストも自己ベストを狙えるかもしれない。
「この調子なら充分受験に間に合うね」
「ユイは……って、聞かなくてもいいか」
「まぁね」
私は無言の中、二人で別々の問題を解いているこの時間が好きだ。ユイが頑張っていると、私も頑張ろうと思える。時折ユイが手を止めて私をじっと見ていることもあるけれど、それに注意するのも好きだ。
「ユイはさぁ……大学受かったら、一人暮らしするの?」
でも結局こうして話しかけてしまう。
「どうだろう。今も半分一人暮らしみたいなものだから。ホシネは?」
「私は……どうしようかな。してみたいな」
「心配だな」
「家事? 覚えるよ」
「違う」
ユイは首を横に振り、耳に髪をかけた。
「ホシネは魅力的だから、一人暮らしなんかしたら狙われちゃうよ。おじいさまとおばあさまのところにずっといて」
「ええー? そうかなぁ」
私は一つ結びにした髪を弄る。
「でも、ずっとあの家にはいられないよ。いつか出なきゃ」
「……そうだね」
ユイはシャーペンを唇に当てた。
「じゃあ……一緒に住む?」
「え?」
ユイは視線を赤本に落としながら言った。
「二人で。私がホシネを守るよ」
「……ほんと?」
「ほんと」
「ほんとのほんと?」
「ほんとだってば」
「そっか……」
想像してみる。毎日ユイと一緒。おはようからおやすみまで。
「それは……かなり最高かも」
「私にとっては最高だよ。ホシネもそうだったら嬉しい」
それに、とユイは続ける。
「お父さまとお母さまに、幸せにするって誓ったから」
「またプロポーズされた」
「言い過ぎ?」
「ううん。毎日でもいいよ」
「……毎日は、恥ずかしい」
ユイは黙りこくって問題を解く手を速める。分かりやすいなぁ、と私も笑って、自分の問題に取り組んだ。
期末テストが終わった。今回はかなり自信がある。何度も見直しもできた。時間配分も百点満点だ。
「これで夏休みだねぇ」
「受験の天王山だな」
隣の席のケイちゃんは余裕そうだ。
「ケイちゃん、かなりできた感じ?」
「うん。ホシネもな」
いえーい、と二人でハイタッチする。
「テスト良い感じだったし、私はさすがにちょっとは遊ぶかな」
「私も遊びたい……なぁ……」
「受験組は大変だな。いやぁ、マジで立木大明神だ」
テストが終わったクラスは、みんな表情が朗らかだった。ユイがみんなに勉強を教えていたおかげで全員手ごたえがあったみたいだ。
「でもいいじゃん。ホシユイカップルは勉強がデートみたいなもんだろ?」
「何その略し方……。てか、そんなんじゃないよ! こっちは真剣にやってるもん」
「どーだか。勉強と称して乳繰り合ってんじゃないの?」
「言い方がおじさんクサいよ……」
付き合う時に長い休みは旅行に行く、と約束したが、本格的に勉強し始めてしまった今となっては許されるだろうか、と不安になってくる。
「ダメに決まってるじゃない」
「えー!?」
帰り道、旅行の話をするとあっさり拒否された。
「や、約束したじゃん」
「それはそうだけど……でも、それ以上に私はホシネに大学に受かってほしいから」
「うう……嬉しいから抵抗できない……」
「夏休みは受験の天王山。ここできっちりできるかなんだから」
「ユイはどうなのさ」
「ちゃんと毎日やるよ、さすがに。それに夏休みだからいっぱい勉強するんじゃないの。夏休みも安定してやり続けられるかどうかなの。みんな休みはだらけるから」
「正論だぁ……」
私はうなだれる。
「日帰りもダメ?」
「ダメ。毎日のリズムが崩れるでしょ。せっかく勉強が習慣づいてるのに」
「うううう……」
私はユイから手を離した。ユイが不思議そうな顔をする。
嫌な時ほど、嫌な記憶がよみがえってくるものだ。クラスから出る時にユイがクラスの子と話していた内容を思い出す。
「そっか、ユイは忙しいもんね。夏休みも友達と一緒に勉強するんだもんね」
「え?」
「だよね、私と遊んでる暇無いもんね。最近、あんまり私に教えてくれなくなったし」
「それは……ホシネが自分で考えて解けるようになってるからでしょ?」
困った顔をするユイに対して、私はそっぽを向いた。
「いいもん。ユイってば最近学校でもデレデレしちゃってさ。みんなからすごい頼りになるって言われて……」
「それはすごい嬉しいと思ってるよ」
その言葉に私はカチンと来た。
「へぇ、嬉しいんだ。私そんなこと毎日言ってるのに。人によって態度変えるんだ」
「人によってって……」
「毎日聞いてたらありがたみ無くなっちゃった? いいよ、じゃあ。もうそう思っても言ってあげない」
「ええ?」
ユイはいよいよ本格的に焦ってきたようだ。
「どうしたの、ホシネ? 旅行行かないのそんなに不満?」
「不満だよ」
「でもそんなの大学行ってからいくらでも行けるでしょ?」
「だって……」
私は俯いた。
「私たち、別の大学じゃん……絶対……」
私が今からどれだけ勉強したところで、ユイのレベルに追いつくことは一生無い。
「一緒に住む約束したから大丈夫だよ」
「でも、学校が違ったらお互いの予定が合わなくなることなんて分かるもん。毎日一緒にいれることは私も幸せだけどさ、それと同じくらいユイと一緒に行きたい所、いっぱいある」
「ありがとう」
「ああ、もう! そうじゃなくて……今しか、一緒の学校にいられないじゃん。高校最後の夏休みだしさ……」
ユイはようやく腑に落ちた顔をした。
「そう思ってくれることは光栄だよ。でも、やっぱり旅行はダメ。せっかく成績上がってるんだし、もう少し頑張ろうよ」
「────もういい!」
私は走ってユイから離れた。
「それで逃げ帰って来たの?」
「そうだよ」
家に帰った私は、おばあが出してくれたお菓子を摘まみながらぐちぐち言っていた。
「だめよ、ユイちゃん困らせちゃ」
「分かってるよ……」
私はため息を吐いた。
「どうしてもっと早くユイと出会わなかったんだろ……」
一年前に出会っていたら、もっと一緒に遊べた。でもそうしたら私はきっと勉強を頑張らなかった。受験前じゃないからいいじゃん、と思っていただろう。そうじゃないならきっと寝不足でプールの授業を受けてないし、ユイに助けてもらえなかった。ユイはクラスのヒーローにならず、勉強で頼りにもされない。
友達に囲まれて嬉しそうなユイの表情を思い出す。色んな感情がぐちゃぐちゃになってきた。
「でも、この後またお勉強するんやろ」
「……するよ……ユイとの約束だし……」
「ほんとに、ホシネちゃんはユイちゃんが好きなんやねぇ」
おばあは微笑ましそうにそう言った。
「ユイちゃんに感謝せなかんよ。ユイちゃんやってホシネちゃんのこと思ってそう言ってくれてるんやから」
「分かってるよ……」
またため息。ユイの言葉は正しいから、本当はそれに従うべきなのに。私のもう一つの心が抵抗している。こんなこと初めてだ。クラスの子たちやユイの色々な表情が頭を巡って、訳が分からなくなってきた。
「勉強してくる!」
「頑張ってね」
お茶とお菓子を持って、私は部屋に向かった。
あの日から結局、私はユイと口を聞かなかった。毎日していたお休みの電話もやめて、メッセージだけのやり取りだ。「おやすみ」「おやすみ、風邪ひかないようにね」「おはよう」「おはよう、いい天気だね」。ぶっききらぼうなメッセージしかしない私に対して、ユイは丁寧に返事してくれた。
「ホシネ、何点だった?」
テスト返しの日。夏休み前最後の登校日。ケイちゃんがそう聞いてきた。
「ん」
私は無造作に答案用紙を見せる。ケイちゃんは目を剥いた。
「うそ、めっちゃできてるじゃん」
「自己ベスト更新」
「すごっ。立木も喜ぶな」
「……どうかなぁ」
ケイちゃんは呆れた様子だ。
「まだケンカしてんの? もういい加減素直になれって」
「分かってるよぉ……」
私が悪いことは分かっているのに、素直に悪いと認めてしまうとそれはそれでなんか嫌だ。言語化できない。なんか嫌なのだ。
「立木は全然怒ってないしむしろ落ち込んでるみたいだけど。こないだ相談されたもん。『ホシネって今、どんな感じなの?』って。そっちが一番知ってるだろって返したけど」
「ユイぃ……」
私は机に突っ伏して頭を抱えた。本当にこんなこと初めてだ。大切なひとに対して素直になれない。
「どうしてこんなにすれ違うんだろう」
「すれ違いっていうか、くだらない痴話ゲンカっていうか」
ケイちゃんがスマホを弄りながら言う。
「とにかく早いとこ話し合えって。せっかくお互いゾッコンなのに」
「言い方がおじさんクサいよ……」
しかしケイちゃんの忠告にも従えず、そのまま夏休みに入ってしまった。
夏休みに入って数日。お昼時。勉強していた私に、いきなりのインターフォンが聞こえてきた。
「はぁい」
おばあが玄関に向かう。私は気にせず勉強を続けようとした。
「あら、ユイちゃん。いらっしゃい」
「えっ!?」
びっくりしてシャーペンを落としてしまった。
「お邪魔します、おばあさま」
「ホシネちゃんは居間で勉強しとるよ」
「ありがとうございます」
ユイが居間にやってきた。私はユイの姿を見て動けなくなった。風鈴がりんりん鳴る音だけが流れる。
「ホシネ、こんにちは」
「こ、こんにちは」
ユイは私の隣に座ってきた。近くに大きなバッグを置く。
「じゃあ、行こうか」
「……どこに?」
「旅行」
「はい!?」
もう驚くことしかできない。
「ど、ど、どういう」
「ケイさんに聞いた。ホシネの点数」
ユイはスマホを見せてくる。ケイちゃんとのトーク画面だ。
「スパイじゃん!」
「ケイさんは悪くない。私が頼んだことだから」
ユイは表情を綻ばせた。
「頑張ったね、ホシネ」
頭を撫でられる。そこから温かさが私の全身にじんわり伝わってくる。
「で、でしょ。えへへ……え、ていうか旅行って」
「うん。二泊三日で予約取ったから。温泉」
「おんせん……」
「私からのご褒美。その代わり、移動時間は単語帳読んで、旅行中も一日二時間は勉強すること。守れる?」
「う、うん! うんっ!!」
私は首が取れそうなくらい頷いた。
「でも、準備なんてしてないし……」
「ホシネちゃん、これ」
おばあが私の旅行バッグを持ってきた。
「行っておいで」
「おばあ! え、知ってたの?」
「もちろん。旅館はおばあの友達がやっとるとこだもんで、そこ紹介したんやよ」
ユイはおばあに頭を下げた。
「ありがとうございます、おばあさま」
「ええよええよ。楽しんどいでね」
おばあに手を振られながら、私たちは家を後にした。
「暑いね……」
空は真っ青だ。日差しが強い。蝉の声がますます大きくなっている。
「あの時、ホシネに高校最後の夏休みって言われて、たしかにって思ったよ」
手を繋ぎながらユイは言う。こんな炎天下の中でも、ユイの手は冷たくて滑らかだった。
「もちろん私もホシネと一緒に旅行したかった。でも、ホシネが頑張ってるのも知ってるから。ここで甘やかすとホシネの努力も無くなっちゃうかもって思った。だからああ言ったの」
ユイは足を止め、私を振り返る。
「でも、もう少し言い方考えればよかったね。ごめんね」
私は嬉しいのと申し訳ないのが綯い交ぜになって、頭をぶんぶん横に振った。
「私こそごめんね。わがまま言って……嫉妬もしちゃった。でも今すごく幸せ」
私はユイの腕に抱き着いた。久々の感触だった。
「こう言うと誤解されるかもしれないけど、あんまり悪い気分じゃなかったよ」
ユイは絡みついている私に手を重ねた。
「嫉妬してくれて。ホシネはそういうのしないと思ってたから」
「私も自分で自分にびっくりしてた。初めてだったから、こんなの」
「そっか。ホシネの初めてを貰えて嬉しい」
ユイは愛おしそうに目を細めた。
「全部あげるよ」
私はユイの頬にキスをした。
「ユイに私の全部、あげる」
ユイは私の顎を支えて、唇を重ね合わせた。一瞬だったけど、永遠のように感じられた。
「行こっか、ホシネ」
「うん!」
ユイに手を引かれ、私は進む。手を合わせながら思う。きっと一人ではここまで幸せでいられなかっただろう。大切なひとが傍にいるから、幸せなのだ。
太陽を見上げた。なんて楽しい地獄なんだろう。生まれ落ちた時から出口など無いこの世界で、私たちはどこまでもいけるだろう。
私はユイの手を強く握った。