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第三話 生まれ落ちた時から、居場所など無い

 翌朝。日曜日。目を覚ました私はけだるさを感じながらスマホを探した。隣に寝息を感じる。ユイの綺麗な髪の毛は昨日一晩ですっかり乱れてしまって、ぐちゃぐちゃに枕の上で積み重なっていった。なんだか昨日の話に出てきたクラゲみたいだ。にやけてしまう。

 「よい、しょっと……」

 布団から出ると肌寒い。裸だからだ。脱ぎ散らかされた服の山からスマホを取り出した。もうお昼前だ。

 「ホシネ……?」

 眠たそうな声が降って来た。

 「おはよ、ユイ」

 「おはよ……ふぁ……」

 ユイは大きなあくびをして、シーツに包まる。

 「今何時……?」

 「十一時過ぎ」

 「そんな遅起き初めて……」

 「やった。またユイの初めて貰っちゃった」

 「全部あげるよ」

 ユイが私を見つめてくれている。

 「私の全部、あなたにあげる」

 「……もしかして、プロポーズ?」

 「指輪無くてごめん。近い将来、ちゃんと良いの渡すから」

 「いいの? まだ十八なのに、将来の相手決めちゃって」

 「いいよ」

 ユイは微笑んだ。今まで見てきた一番柔らかい笑顔だった。

 「ホシネがいい」

 「参ったな。私、そんなにお返しできる気がしないや」

 「お返しなんてしなくていいよ。ホシネはホシネのままでいて」

 「もう……可愛いこと言っちゃってさ」

 その後は二人でシャワーを浴びて、ユイの家で遅めの朝ご飯をいただくことになった。

 「そういえば、ユイって進路決まってるの?」

 「正直どこでも受かるから迷ってる」

 「うわ……」

 そういえば机の上に置かれていた模試結果には、名だたる有名大学の隣にA判定が並んでいた。点数もほとんどが満点に近い。いくつかは満点だった。

 「これじゃユイと一緒の大学には行けなさそうだね……」

 ご飯に韓国のりを巻きながら、私は遠い目をする。

 「この一年本気で勉強すれば大丈夫だよ」

 「ええー? トーダイとか?」

 「……ドラゴン桜なら行ける」

 「ねぇ、ここはフィクションじゃなくて現実だよ?」

 はぁ、とため息が出てしまった。

 「それこそホシネは、まだ進路決まってないの?」

 「うん……だって基本的に勉強苦手だし、特にやりたいことも無いし……」

 勉強は本当に苦手だ。嫌いなわけじゃなく、苦手。思わず顔を顰めてしまう。

 「そこまで苦手意識あったんだ。高校にはどうやって入ったの?」

 「ふつうに試験だよ!? 結構ギリギリだったけど……」

 「じゃあちゃんと勉強できるってことじゃないの?」

 「そこは泣きながら頑張ったっていうか……おじいが高校までは絶対行けって言うから」

 「ふうん……」

 ユイは頬杖をついた。

 「まぁ、私も特に大学でやりたいことは無いけど。学歴があると得かなって思ってるだけで」

 「でもユイは頭が良いから選びたい放題じゃん。私は選択肢すら無いのに」

 「大丈夫。ホシネの分まで私働くから」

 「それは流石に気が引けるよ……」

 毎日毎日を楽しく生きることに精一杯の私は、将来のことを考えるのがすこぶる苦手だった。今はユイのおかげで成績は上がりつつあるが、大学に受かるレベルまで行くとなると話は別だ。

 「大学って、どんなところなんだろうなぁ……」

 私はそう呟いた。先のこと過ぎて想像できないのだ。

 「勉強するところ」

 「うう……」

 「あとは、新しい人間に出会える場所」

 私は信じられずにユイを見る。

 「って、きっとホシネなら言えるよ」

 「ユイ……」

 「私も、変わらなきゃ。背中押してもらったし」

 「うん……うん!」

 私は嬉しくなって立ち上がった。

 「よし、私も勉強する! ユイと同じ大学には行けないかもしれないけど……やるだけやってみる! ユイと一緒に頑張る!」

 ユイは目じりを綻ばせて頷いた。

 「私も手伝うよ。むしろ手伝わせて」

 「ほんとに!? ありがとう!」




 「だ、大丈夫かよホシネ……」

 ケイちゃんの心配そうな声が聞こえてくる。私は机に突っ伏したまま、片手を挙げることしかできなかった。

 あの宣言から二か月近く。もう蝉の声が聞こえ始めた六月の終りだ。ユイは私の恋人兼家庭教師になっていた。ユイは結構スパルタで、そこまでしないといけない程私の現状はひどいようだ。

 「ちょっとお勉強がね……はは……」

 「クマすごいぞ」

 「昨日のノルマ、きつかったから……」

 「立木に勉強教えてもらってるんだっけ? あいつ、結構厳しいんだな……」

 「私の出来が悪いからさ……はは……」

 クラスのみんなも心配して席の近くに来てくれる。飴や冷えピタや蒸気が出るホットアイマスクを置いていってくれる子もいた。ありがたいことだ。

 「ユイはほんとに優しいんだよ。ただほんとに、なんで今まで勉強してこなかったんだろ……はは……」

 「そうか、まぁそれはこれからに期待ってことで……ん、ユイ?」

 ケイちゃんは怪訝そうな顔をした。

 「あれ、いつの間にそんな仲が良くなってたんだよ」

 「そりゃ、ユイと私は恋人どう────」

 「旭さん!」

 いきなりの大声にびくっとなる。声のした方を向くと焦った表情のユイがいた。そうだ、眠すぎてうっかりしていた。ユイには恋人関係を他人に言わないよう釘を刺されていたのだ。

 「クラスの人気者のホシネと孤立してる私が恋人なんて知られたら、どうなるか分からないでしょ?」

 というのがユイの言い分だ。もちろん私はそんなことないと言ったが、

 「ほんとはその……恥ずかしいの……」

 と耳まで真っ赤にされて言われたので、あまりのかわいさにオーケーしてしまったのだ。

 「旭さん。次の授業は水泳でしょ? 早く着替えた方がいいんじゃないかしら」

 「あ、はい」

 ケイちゃんの訝しむような視線はスルーして、私はいそいそとロッカーから着替えを取り出したのだった。




 怠い。眠い。日差し強い。しんどい。蝉の声うるさい。

 「ホシネ、いよいよ顔死んでるぞ」

 ケイちゃんが顔を覗き込んでくる。

 「やっぱり休もうかな……すごい身体が重い……」

 「でも今日テストあった気がする」

 「うわぁ」

 私は天を仰いだ。ただでさえ成績が悪いし運動神経まで悪いのに、体育の成績まで落としてられない。最低保証の出席点だけでも確保しないと。

 体育の先生がやってきて、今日はテストをすると告げられる。最初に少し練習時間を設け、そこからテストに入るらしい。

 しっかり準備体操をして、のろのろ練習で泳ぎ、いよいよテストを迎える。

 私の番だ。先生の合図とともに、壁を蹴る。

 足をつった。

 「いっ────」

 口を開けてしまい、水を飲む。沈んでいく。慌てて水面に上がろうとして藻掻くが、裏腹にどんどん遠ざかっていく。やばい。息がもたない。もっと水を飲んだ。不味い。鼻に入った。苦しい。苦しい。寒い。寂しい。辛い。苦しい……。

 ────助けて……ママ……パパ……!

 握ったその手は、もうすっかり冷たくなっていた。


 「ホシネ?」

 ホシネが水面に上がってこない。一緒に泳いでいる子はすでに数メートル先だ。先生や、待っている生徒たちもどよめいている。

 私の中に嫌な予感が走った。それを感じるや否や私はプールに飛び込んだ。

 「立木!?」

 誰かが私を呼ぶ声がする。そんなことはどうでもいい。視界の先に漂っているホシネが見えた。手を伸ばす。

 ホシネッ!

 そう叫んだつもりだったが、不明瞭な音と泡が出てくるだけだった。

 「────ぷはっ!」

 ホシネを連れて水面に顔を出す。

 「ホシネ! ホシネッ!?」

 肩を揺すってもホシネは何も言わない。私はホシネの肩を支え、プールから上げた。

 「ホシネ! 私! 聞こえる!?」

 プールサイドに寝かせて呼びかけても、まだ反応は無い。鼻に耳を近づける。息をしていない。こういうときどうするべきか。保健体育の授業を思い出せ。心臓マッサージだ。

 ホシネの胸に手を当てる。酷く冷たかった。ちがう。ホシネはもっと温かいはずだ。

 まだ反応が無い。顎を持ち上げ、口を開かせ、鼻を塞いだ。

 「起きて……!」

 唇を重ね、息を吹きかける。また心臓マッサージ。もう一度人口呼吸。さらに心臓マッサージ。人工呼吸。

 「…………けほっ」

 「ホシネ!?」

 顔を近づける。頬を叩いた。

 「ホシネ! ホシネ! 私! ユイ! 聞こえる!? 聞こえるなら返事しなさい!」

 「……ママ……」

 「ホシネ……?」

 何かをぼそぼそ呟いた後、ホシネが瞼を開けた。

 「あれ……ユイ……」

 「ホシネッ!」

 私は感極まって抱き着く。涙が出そうだった。途端に身体が震えてくる。私の腕にホシネの手が重なった。

 「ホシネ……っ」

 「どうして、泣いてるの……けほっ。あれ、私たしか溺れて……」

 「ホシネ、ホシネ……良かった……っ! 愛してる!」

 「あ、うん。私も……って、ここ学校だよ?」

 「そんなことどうでもいい! ほんとに良かった……ホシネ……!」

 先生が今更やってくる。

 「先生。私が彼女を保健室まで連れて行きます」

 戸惑う先生に、私は言った。

 「私は彼女の恋人なので」


 私が目を開けると、そこは保健室だった。

 「あれ、ユイ────」

 傍のパイプ椅子に座っていたユイに声を掛けようとすると、飛びつかれて抱きしめられた。

 「ぐぇ。く、苦しいよ、ユイ」

 「ホシネ……ホシネぇ……!」

 私からも抱き返すと、ユイの身体は酷く震えていた。

 「もう、甘えん坊の次は泣き虫さん?」

 「ばか! すき……」

 「はいはい、私も」

 背中をとんとん叩いてあげると、ようやくユイは落ち着いてくれた。ぐすぐす言いながら身体を離してくれる。そして深く頭を下げた。

 「ごめんなさい」

 「ユイってば謝ってばっか」

 「寝不足だったの、知ってたのに。それが私の出した宿題のせいだってことも知ってたのに。私のせいだ……私の……」

 「そんなことないよぉ」

 私はユイの頭を撫でた。

 「私、自分で頑張るって言ったもん。誰かに強制されてしてるわけじゃない。ユイのせいだなんてもっと違うよ」

 「でも」

 「でももストも無いの。ほら、涙拭いて?」

 私はユイの目じりから涙を拭い取る。ユイはその手を両手で包み込んだ。

 「ホシネぇ……」

 「ああ、ほら。鼻水も出てる」

 その後は大事をかんがみて早退になった。

 「私も着いてく」

 「ユイはずる休みになっちゃうよ?」

 「どうでもいい。それよりきちんと親御さんに説明して謝らないと」

 「もう、しょうがないなぁ」

 頑として譲らないユイに苦笑しつつ、私はユイを家まで連れて行くことになった。




 「ここが、ホシネの家?」

 「うん」

 私の家は下町にある瓦屋根の一軒家だ。立派な松の木が生えてる庭、それに面してる縁側に、向こうに見えるちゃぶ台と扇風機。

 「あれ、ホシネちゃん?」

 「おばあ!」

 空いた窓からおばあが顔を出している。私は手を振った。

 「学校はどうしたの?」

 「早退した! ずるじゃないよ、ちゃんと理由があるの!」

 「あら、そうなの。そちらの綺麗な子は?」

 ユイが固まったのが隣にいても分かった。

 「こ、こんにちは。私、ホシネさんのクラスメートの立木ユイといいます。ホシネさんを家まで送りに来ました。それで、少しお話があるのですが……」

 「お友達? 大変、おもてなししないと。お父さん?」

 おばあはあっという間に奥に引っ込んでしまった。

 「あちゃー、またおばあのおもてなし攻撃が始まるよ」

 「ホ、ホシネ。どうすれば」

 「とりあえず行こ?」

 ユイの手を引き、玄関の引き戸を開ける。

 「ホシネちゃんたち、こっちおいで。お饅頭とお茶あるで」

 「わーい。ユイ、早く」

 「う、うん」

 ちゃぶ台の上に並べられた温かい麦茶とお饅頭に舌鼓を打っていると、書斎からおじいが顔を出した。

 「ホシネ、帰ったのか」

 「ただいまおじい」

 「おかえり。君がホシネのお友達かい」

 おじいの少し灰がかった瞳に見つめられ、ユイは背筋を伸ばした。

 「は、はい。立木ユイと申します。実はホシネさんが早退した原因を説明したく……」

 「そうか。まぁ、そこまで固くならんでええよ。足崩しなさい」

 「し、失礼します」

 おじいもお茶を啜った。そして私を見る。

 「でも僕らに説明する前に、言わなかん人がおるやろ?」

 「そうだね」

 私は口の中のお饅頭をお茶で流し込み、ユイを立たせる。

 「ほら、ユイ」

 「え?」

 訳が分からないと言った顔のユイを引っ張って、私はある一室に入る。

 落ち着く、線香の匂いだ。

 「ただいま。パパ、ママ」

 「え……」

 ユイは絶句した。私は仏壇の前にある座布団に正座する。隣の座布団にはユイを座らせた。

 ライターでろうそくに火を付け、そこから線香に火を移す。手で風を送って線香の火を消し、立てる。おりんを叩いて、チーンという音が響いた。手を合わす。ユイも私に倣って手を合わせた。

 「はい。ほら、パパとママに説明してあげて」

 「…………」

 ユイの視線の先には、三人が写った写真があった。一人の男の人と、一人の女の人と、彼の腕に抱かれている小さい女の子。パパとママと私だ。

 「……ホシネさんのお父さま、お母さま。今日、ホシネさんは学校を早退しました。その理由は、プールで溺れられたからです。その原因を作ったのは、私です」

 ユイは三つ指をついた。

 「私が彼女の成績を上げるために、毎日宿題を出していました。ホシネさんは私の予想以上に頑張ってくれました。しかし、それで寝不足になってしまい、今回の一件が起こってしまいました。全ては私の責任です」

 ユイは深く、深く頭を下げた。

 「申し訳ありませんでした」

 数秒経ち、ユイは顔を上げた。しかしまだ床に手をついたままだ。

 「もう一つ、ご報告することがあります」

 ユイは私の両親を見つめた。

 「私は、ホシネさんとお付き合いをさせていただいています。真剣な、お付き合いです」

 再びユイは頭を下げた。

 「女二人です。一筋縄ではいかないでしょう。それでも、必ず、私の命に誓って、ホシネさんを幸せにします。必ずです」

 「ユイ……」

 「ホシネさんは私を救ってくれました。酷い過ちを犯した私を、許してくださいました。この人生全てを使って、必ず、必ず、その恩に報います。よろしくお願いします」

 数秒たち、十数秒経ち、やっとユイは顔を上げた。私を見る。私は頷いた。

 「うん。パパもママも、きっと『娘を頼む』って言ってくれたと思うよ」

 「そうかな……」

 「でもパパはきっと、『娘はやらん!』って言いたかっただろうなぁ」

 私はパパに向かって赤目を剥いた。

 「ま、反対されても関係無いけどね」

 「……ふふ」

 「さ、おじいとおばあのとこに行くよ」

 「うん」

 立ち上がったユイは私の手を取って、指を絡めた。

 「ホシネ」

 「なぁに?」

 「好きだよ」

 「私も」

 居間に戻って、ユイは同じ説明をおじいとおばあにした。おじいたちはユイを叱るなんてことはせず(もちろんそんなことは絶対しないと思ってたけど)、さらに「孫を助けてくれてありがとう」と頭まで下げていた。

 そのまま流れでユイはうちでご飯を食べていくことになり、私の話で盛り上がったあげく、さらに流れで泊まることになった。

 「いいのかな……」

 と遠慮するユイに、私は、

 「大丈夫大丈夫! うちお客様用のお布団たくさんあるから!」

 「そういう問題かな……」

 苦笑いされてしまった。

 お風呂は二人で入れるほど広くないため、私が一番風呂をいただくことになった。


 「ユイさん」

 ホシネの風呂上りを待っている時、不意にホシネのおじいさまから声がかけられた。

 「は、はい」

 「ああ、ええよええよ。緊張せんで。ゆったりして構わんから」

 「ありがとうございます」

 おじいさまは灰がかった瞳を伏せる。

 「君に謝らなかんことがあるんや」

 「はい……?」

 「君がうちの子らに報告しとったこと、聞いてしまった」

 「報告、ですか?」

 「君がホシネとお付き合いしとる言うやつや」

 一瞬恥ずかしくなったけど、居間から仏壇のある部屋まですぐだ。声が聞こえてても不思議ではない。

 「いえ。大丈夫です。嘘偽りは無いので」

 「そうか……」

 おじいさまは嬉しそうに微笑んだ。

 「あの子にも自分の肩を預けられる子ができたんやな」

 「…………」

 「もちろん反対なんかせぇへんよ。最近あの子が頑張って勉強しとるんは君のおかげやろ。感謝しとる。僕らはそう勉強せぇなんて言えへんからな」

 「……ありがとう、ございます」

 おじいさまは深く息を吐いた。

 「下手な男が来たら殺したろ思っとったけど、相手が君でよかったわ。両親に向かってあの口上はなかなか言えへんで。肝が据わっとる」

 「それ以上のものを、ホシネさんから貰ったので」

 「そうか……」

 おじいさまは涙ぐんだ。

 「あの子は……ずっと与えられる側やった。それに感謝を絶やしたことは無い。けどな……与える側になれたんは、きっとあの子も誇りや思とると思うで」

 「与える側……。でも、ホシネさんはいつもクラスで楽しそうにしてて、みんなを幸せにしていますよ」

 「人生の目的、言うやつや」

 おじいさまは首を振った。

 「あの子は自分が誰かの原動力になりたい、と思う子なんや。誰かの力になりたい、与えられたものを返したい。この地獄のような世界の中で、人だけはいつだって、温かくて、柔らかくて、優しいものだから……」

 「いつもそうおっしゃっています」

 「分かっとるよ。だから、君には感謝しとる」

 そう言うおじいさまの目は、とても深い慈しみを湛えていた。

 「あの子、勉強がよぉできんやろ」

 「……………………いえ、決してそのようなことは」

 「ええ、ええ。ほんまのことなんやから」

 おじいさまはポケットからタバコを取り出した。

 「あ、嫌いかい? ホシネは嫌がるでなぁ」

 「いえ、父も吸うので」

 「ありがとう」

 おじいさまはメビウス・ワンを咥えて煙を吐いた。

 「あの子は、中学ちゃんと行ってへんねや」

 「……え!?」

 急に言われた事実に驚いて変な声が出てしまう。

 「中二の途中にやっと行ったんや、その前までは家に籠もっとった」

 「ど、どうして……」

 「君には知る資格がある。いつか、知らなかんことや。あの子と真剣に、この先を生きていくなら」

 おじいさまは私を鋭く見つめた。

 「辛く悲しい事や。もし君が本当にホシネに救われたなら、その恩を一生かけて返さなかん。つまりホシネの過去を背負うっちゅうことや。その覚悟は、あるかい」

 「あります」

 即答した私に対して、おじいさまは頷いた。




 数年前、大地震が起きた。日本全体に影響が出て、今現在も行方不明者が数多く出ている大災害だ。ホシネはその当事者だった。小学生だった。

 ホシネとその両親が住んでいた家は、地震により崩れ落ちた。

 父親と母親はホシネを庇って瓦礫の下敷きになった。彼らの腕に抱きかかえられていたホシネは助かった。

 ホシネは両親の体温が冷たくなっていく様をただ、眺めていた。ホシネが最後に握った両親の手は、酷く冷たかった。

 さらにホシネは同級生を全員亡くした。ホシネの同級生全員が地震により死んだ。ホシネだけが、友達の中で一人だけ生き残った。生き残ってしまった。

 ただそれだけの話だ。それだけで、ホシネは全てを失った。

 ホシネは塞ぎ込み、食事を拒否し、ずっと寝たきりになった。身体が回復しても心は回復しない。そこで祖父母の家に引き取られたのだ。

 祖父母の献身的な世話によって、少しずつホシネは人の心を取り戻していった。しかし自分だけが生き残ってしまった罪悪感は消えない。

 「ごめんなさい……ごめんなさい……パパ……ママ……会いたいよ……みんなに会いたい……」

 あの時に死んでいれば。そう思わない夜は無かった。この世はまさに生き地獄だった。

 「もしもーし」

 その時だった。玄関のインターフォンが鳴ったのは。

 「旭ホシネちゃんはいますか?」

 ホシネが入っていた中学のクラス委員の子だった。ホシネは当然会うことを拒否した。

 クラス委員の子は毎日家に来た。祖父母と一緒にご飯を食べながら、ずっと彼女はホシネを待った。

 一年生が終わっても、ホシネは出てこなかった。

 二年生になり、またクラス委員の子がやってきた。

 「また同じクラスだよ!」

 二年生になっても、彼女はずっとホシネに会いに来た。毎日、毎日、その日あったことを楽しそうに話し、プリントを渡し、帰っていく。

 「どうして」

 秋になって、ようやくホシネは彼女の前に姿を現した。

 「どうしてそんなに会いに来るの!?」

 「やっと会えたね」

 クラス委員の子は笑った。

 「写真で見るよりずっとかわいい」

 ホシネはクラスに引っ張り出された。好奇の目で見られるだろう。そう想像して、ホシネは辛くて辛くてたまらなかった。

 そんなことはなかった。ホシネはあたかも最初からいたかのように扱われる。

 「ホシネちゃん、一緒に移動教室行こうよ」

 「ご飯食べよ」

 「二年になって急に英語むずかしくなったよねー」

 自然に、ホシネは迎え入れられた。ホシネはすぐクラスに馴染んだ。

 「どうして……?」

 涙ながらに問うホシネに対し、クラス委員の子はまたしても笑った。

 「ホシネちゃんが良い子だからだよ」

 ホシネは人の善意に救われた。

 「パパ……ママ……みんな……」

 ホシネは仏壇の前に跪く。

 「どうして、こんなに優しいの……?」

 嗚咽が漏れる。

 「どうしてこんなに温かいの……?」

 絶叫する。

 「パパ……ママ……みんな……ごめんなさい……私……」


 「私……生きててよかった……」


 ホシネは少しずつ明るさを取り戻した。

 中学の最初を休んでいたため勉強は常に遅れていたが、それでも友達と過ごす時間はかけがえのないものだった。

 いつしかホシネは、幸せに生きることが、自分を生かしてくれた人に報いる方法だと悟った。

 あの時守ってくれた両親は、きっと、それを望んでいる。だからあの時私を助けた。

 「この地獄のような世界の中で、人だけはいつだって、温かくて、柔らかくて、優しいもの」

 地獄でなぜ悪い。そこで生きる人は、どこまでも優しい。だから、地獄でなぜ悪い。




 「ここまで聞いて、どう思う」

 「……言葉が……見つかりません」

 おじいさまの問いに対し、私は正直な気持ちを伝えた。

 「でも」

 私は顔を上げた。

 「生きててくれてありがとうって、心から言えます」

 「…………そうか」

 おじいさまは深く頷いた。

 「それなら、いい。ホシネをよろしく頼みます」

 おじいさまは頭を下げた。


 頭を拭いていると、ドアがノックされた。

 「はぁーい」

 「私。今、いい?」

 ユイの声だった。

 「私もう出るよ?」

 「今がいい」

 「じゃあいいよ」

 ユイが洗面室に入ってくる。その目は少し赤い。

 「どうしたの、ユイ────」

 抱きしめられた。なぜ? 戸惑ってしまう。

 「ホシネ」

 押し殺したような声だった。

 「生きててくれてありがとう」

 「……え?」

 その瞬間、全てが分かってしまった。どうしてユイが目を赤くしていたのか。

 「もう、おじいったら。私から言うつもりなのに」

 ため息を吐いてしまった。いつもおじいは心配性なのだ。

 「……おじいはね、この話、絶対人にはするなって言ってたんだよ」

 ユイを見つめる。

 「自分を託せる人が現れた時、初めて言っていいって。でも言い出しっぺのおじいが先に言っちゃうんだもんなぁ」

 「託せる、人……」

 ユイは私の言葉を反芻した。

 「なれるかな、私に」

 もっと強く抱きしめられる。

 「なりたいな……」

 なんて愛おしいんだろう、私の恋人は。たまらなくなってしまった。

 「なってほしいな」

 私は、心の底から、そう言った。


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