第一話 君を、同じ地獄で待つ
「めちゃくちゃにしてやる」
そう言う立木さんの表情は、その声音とは裏腹に酷く冷めたものだった。じりじりと私迫ってくる。私は尻もちをついたまま後退した。
「な、何するの……?」
立木さんは何も答えず、私の肩を押した。私は抵抗しようと手を前に出すが、その手は絡め取られて、そのまま押し倒される。立木さんは私の上に覆いかぶさった。
「ひ……っ」
私は明確な身の危険を感じた。そしてこれからされることを想像し、恐怖する。首筋が冷えて、鳥肌が立ち、手足の感覚が鈍った。その怯え切った私の表情を見て、初めて立木さんの瞳に感情が宿る。
「そんな顔もするんだ」
そして、私の首をつつっと撫でた。「ひう」と押し殺せなかった声が私の口から漏れる。
「私しか知らないね。ざまぁみろ……人気者」
「またテスト赤点だたぁ!」
私────旭ホシネは返却されたテストの点数を見て、がっくりと机に突っ伏す。全十一科目中、赤点回避はたった二科目。実力テスト終わりの私に、ゴールデンウイークは来ないらしい。
「ドンマイ、ホシネ」
「ケイちゃん……慰めてくれるの?」
「ゴールデンウィーク楽しみだなぁ、どこ行く? あ、ごめん補修と追試か!」
「酷い裏切りだ~!」
私は後ろから覗き込んできたケイちゃんをぽこぽこ叩く。しかし身体が小さい私から出る力ではケイちゃんに何のダメージを与えられない。「くすぐったいなぁ」とケイちゃんは余裕そうだ。
「ま、もう高三だし遊べないよなぁ」
「だよねぇ……勉強やだな……」
私は遠い目をする。特に勉強したいことや将来の目標も無いから進路をまだ決めきれずにいるのだ。
「あたしと一緒に専門目指す?」
「うーん……ありがたいけど、専門ってそれがやりたい人が集まる場所でしょ?」
「基本的にね」
「じゃあ、別に目標が無い私が行ったら迷惑だよ」
「ふぅん。親はなんか言ってんの?」
「なーんも。その話題すら出ない」
「それはまたすごいな……」
今日はテスト返しで授業が終わりの日だから、クラスのみんなはいそいそと帰り支度をしている。もうすぐ高三のゴールデンウィーク。そろそろみんなも受験に向けて態勢を整えてくる頃だ。今から図書室は一杯になるだろう。
「ホシネ! また明日!」
「ばいばいホシネ」
「ホシちゃん。はい、バイバイの飴」
「ホッちゃん、じゃあねー」
みんないいひとだ。帰る時も朝に教室で会った時も、必ず私に挨拶をしてくれる。私はみんなが大好きだ。前のクラスが同じだった子も、今年初めて同じクラスになった子も私と仲良くしてくれている。勉強も運動も苦手な私に構ってくれるなんて良い友達を持ったなぁ、と毎日感謝だ。
「相変わらずクラスの人気者だな」
そんな私をケイちゃんがクスクス笑って見ている。
「人気者だなんてそんなぁ」
「人徳かねぇ」
「じんとく? でも私はみんなのことが大好きだよ! あ、もちろんケイちゃんのことも大好きだよ?」
「はいはい愛は伝わってる。ま、私も友達がクラスの人気者だと嬉しいよ」
「ケイちゃんが嬉しいなら私も嬉しい!」
ケイちゃんは眩しそうに目を細め、「こういうとこなんだよな……」と呟いた。
「この後どっか寄ってくの?」
「……さすがに、テストの見直しする」
「そっか。じゃ、また明日」
ケイちゃんも教室を出て行く。教室には私を含めて数人しか残らなかった。
私は苦々しくテスト用紙に目を落とした。流石に高三でこの成績はまずいのでは? そろそろ危機感を持った方がいいかもしれない。まだ大学も決めてないのに……。そもそも大学に進学するのかも決めてないのに……
私が自分の席で頭を抱えていると、後ろから声を掛けられる。
「旭さん」
声のした方に振り向くと、そこには立木ユイさんが立っていた。
立木ユイさん。学校始まって以来の秀才と話題の人物だ。綺麗な黒髪、すらっとした出で立ち。どこか涼しそうな雰囲気。見た目だけでも人の目を引くのに、さらに私とは違って勉強は全国模試のトップクラスで中学時代は陸上で全中に出場したらしい。天は二物を与えずというのは嘘らしい。
そんな独特の雰囲気と近寄りがたさを持つが故に、普段は一人でいることが多い。
「どうしたの? 立木さん」
私はこのクラスで唯一立木さんと接点が無い。一度体育の時間にペアになったくらいだ。時々私のことをじっと見ているので、いつかはお話ししたいと思っていた。
「それ……」
立木さんの目線の方向には、私の散々なテスト結果があった。私は恥ずかしくなって一つ結びにした髪を弄る。
「いやぁ、お恥ずかしいものを……それより、どうしたの?」
「勉強、苦手なの?」
「え? あ、うん。苦手って言うか、敵って言うか……」
「じゃあ……」
立木さんは髪を弄りながら、
「勉強教えようか」
するりと彼女の口から飛び出た言葉。それに対し私は、
「え?」
と間抜けな声を出しただけだった。
テスト返却の日からゴールデンウィークにかけての数日間、放課後に立木さんに勉強を教わることになった。場所は図書室とか、カフェとか、デパートのフードコートでだ。
立木さんは頭が良いだけじゃなく、とにかく説明が上手かった。どうしてこんな単純なことが分からなかったんだろうと、自分が自分に疑問を抱くくらいだ。
「ありがとう! 立木さんのおかげで勉強楽しくなってきた!」
「そっか、よかった」
そう言いながら柔らかく微笑む立木さん。帰り道。夕陽が彼女の横顔と黒髪を照らしてキラキラ輝いている。私はなんだかとても高貴なものを見てしまった気がして、慌てて目を逸らした。
「そ、そういえば! 立木さんはどうして私に勉強を教えてくれたの?」
「…………」
沈黙。私は逸らしていた目を再び上げる。
「ゴールデンウィーク、うちで勉強合宿しない?」
「へ?」
急な申し出に、私は少し舞い上がる。
「私はもちろんありがたいけど……立木さんはいいの? 自分の勉強とか」
「旭さんの勉強見てたら自分の復習になるからいい。むしろ手伝わせてほしいな」
「じゃ、じゃあ行く! もっと立木さんのこと知りたい!」
「そう?」
「うん! 立木さんすっごいいいひとだし、もしよかったら友達になりたくて」
「そっか……」
立木さんは髪を耳にかけた。ぞっとするくらい綺麗な笑みを浮かべる。
「じゃあ友達のしるしに、合宿に来てくれたら、私があなたに勉強を教える理由を教えてあげる」
そして、現在に至る。
私は立木さんに押し倒され、彼女は私の首に手を掛けている。そして彼女のもう一方の手は私の両手を拘束していた。
「り、立木さん……?」
まったく力が入らない。それ以上に立木さんの力が強すぎて抵抗できない。
「旭さん。今からあなたを滅茶苦茶に壊すから」
首に置かれた手に力が入った気がした。
「め、滅茶苦茶……?」
「ずっとあなたが嫌いだった」
立木さんが顔を私の首に近づける。痛みと生温かさが全身を走った。噛みつかれたみたいだ。
「誰からも好かれて、それが当然みたいな顔して、何にも考えてなさそうに、毎日、毎日過ごして……っ!」
両手を拘束している手が握られる。
「い、痛い。痛いよ」
「痛いでしょ? でもしょうがないよね。今までこんな痛みも知らずに過ごしてきたツケだよ。私は何倍も痛い」
立木さんは私の目を覗き込む。その瞳はどろどろしていて、何か得体の知れないものが渦巻いていて、それらすべてが私を睨みつけていた。
私の口が乱暴の開かれる。立木さんの指が私の舌を引っ張る。立木さんがそこに唇を重ねてきた。
「うぐっ、んむっ……」
立木さんの舌が容赦なく私の口の中で暴れまわった。意識が飛びそうになる。呼吸が止まって、怖くて、どんどん立木さんの手に籠められる力が強くなる。
「ぷはっ……」
ようやく解放されて、私は大きく息を吸い込む。咳き込んで、涙が出てきた。
「はは……泣くんだね。人間なんだ。良かった」
立木さんは指を私の口に突っ込んで奥に突っ込む。えずく。歯を撫でられた。奥歯から、前歯まで、丁寧に。
「抵抗しないの? ここまでされてさ。ほら噛みなよ。今なら私を蹴っ飛ばして、逃げて、襲われましたって警察に逃げ込めばいい。レイプされたって。裁判にもできるよ。そこまでされたら私も罪を認める。ほら。早く噛んでよ。ほら」
立木さんは誘うように私の犬歯を人差し指と親指で触った。
「こんなことやめよ……?」
私が辛うじてそう言うと、立木さんはがっかりしたようにため息を吐いた。そして私の服を無理矢理破いた。
「残念だったね」
そう言われて、再び私は嚙みつかれた。血が滴って、部屋のカーペットに染みた。
ゴールデンウィークが終わって、私はいつも通り学校に登校した。
「おはよ! ケイちゃん」
「おはよ……って、どうしたのその傷!」
ケイちゃんが驚いて私の首筋を指さす。後ろにあって気づかなかった。
「ああ、これは……いとこに噛まれた」
「いとこ?」
「うん、いとこがうちに遊びに来たんだ。ちっちゃい子でね。遊んでたら噛まれちゃった」
「そ、そうなの?」
「うん。育ち盛りだねぇ」
ケイちゃんはまだ疑ってたが、いとこでゴリ押すと「首に噛むなんてその子なかなか……いや、なんでもない」となんとか納得してくれた。
「あっ、立木さん」
立木さんが教室に入ってきて、思わず反応してしまう。
「あれ、知り合い?」
「うん。最近勉強教えてもらってるんだ」
ケイちゃんが目を見開いた。
「あの立木ユイに!?」
「うん。あの立木ユイさんに」
「お前……すごいな」
「いいひとだよ! これで追試は余裕かも!」
スマホが震える。立木さんからだった。
『ちょっといい』
立木さんが教室を出て行くのが見える。
「ごめんねケイちゃん、私お手洗い!」
私は後を追いかけた。
「どういうつもり?」
始業前。誰もいないトイレに入って、いきなり立木さんはそう切り出した。
「どういうって……」
「なに? 『いいひと』って」
立木さんの声は震えていた。
「あれだけのことされてどうしてそんなことが言えるの?」
「だって、立木さん全部理由教えてくれたでしょ」
「それだけ……? 納得したっていうの?」
「うん」
「はぁ!?」
立木さんの声がトイレに反響した。
「何言ってんの……」
ふらり、と立木さんが身体のバランスを崩した。私は慌てて彼女を支えるため手を伸ばす。
「触らないでッ!」
私の手が払われた。そして立木さんは両手のひらで顔を覆う。小刻みに震え出した。
「意味わかんない……なんであんたは……」
「立木さん……?」
立木さんの行動の意味が読み取れず、私はとりあえず彼女を落ち着かせようと手を伸ばす。その手が掴まれた。
「もっと私を恨んでよ!」
立木さんは目から涙をあふれさせながら叫んだ。
「もっと私を憎んでよ! もっと私に怒ってよ! もっと私に傷ついてよ! 何普通の顔して学校来てるわけ!? さも当たり前の日常みたいに過ごしてるわけ!?」
「立木さん……」
「私は……あんたを滅茶苦茶にしたのよ!? 尊厳を踏みにじったの! 人として最低な行いをした! だから────」
「だからって、恨まないよ」
私は彼女の頬に流れる涙を拭った。
「憎まないし、怒らないよ」
「なんで!?」
「してる時、立木さんがずっと苦しそうだったから」
私の身体を触る時、私にキスする時、立木さんはずっと何かに耐えているようだった。
「そんなことで……?」
「分かるもん。立木さんくらい頭が良い人が、理由も無しにあんなことするわけないって。私のこと、嫌いなんだよね。私、全人類から好かれるなんて思ってないから、大丈夫だよ」
「あんた、おかしい」
「うん」
私は立木さんを抱きしめた。
「私、おかしいね」
「…………」
「でもね。私は立木さんのことが好きになっちゃったから、許します」
「何言ってんの……?」
「友達なら、ケンカくらいするし、ぶつかることだってあるよ」
「ばっかじゃないの……」
私の服の袖が掴まれた。弱弱しい。立木さんの震えが伝わって来た。
「私、決めてることがあるの」
立木さんから身体を離す。
「私は人を嫌わない。人だけはいつだって、温かくて、柔らかくて、優しいものだから」
私は立木さんの手を取って、私の胸に押し当てた。
「ちょっ、何して」
「聞こえる?」
顔を赤くする立木さんに構わず、私は尋ねた。
「……鼓動?」
「うん。あと体温」
「ふ、服の上からじゃ……」
「じゃ、こうしようか」
私は躊躇なく制服の上着を脱ぎ、ワイシャツのボタンを外した。
「バ、バカあんた────」
「ね?」
立木さんの手を私の素肌に当てる。彼女の手は白くて、冷たくて、滑らかだった。
「あったかいでしょ?」
「……温かく感じるのは、私の手の方が体温低いからでしょ」
「手が冷たい人は心が温かいんだよ」
「……じゃあ、あんたは実は冷たい人間って言うわけ?」
「あちゃー、実はそうなのかも。一本取られちゃったね」
立木さんは目を伏せた。
「あなた、私に触られて嫌じゃないの?」
「女の子同士だし?」
「でも、一線を超えたじゃない」
「あ、そっか。じゃあ付き合う?」
「はぁ!?」
それは私の知る立木さんとは思えないくらい間抜けな声で、私は吹き出してしまった。
「しょ、しょ、正気!?」
「うん。だって立木さん美人だし、頭良いし、話してると楽しいし。付き合ったら楽しく過ごせそうだなって」
「でも、だから私は……あんたに……」
「じゃあ、責任取ってよ」
立木さんが面食らう。
「私を傷物にした、責任取って」
「…………」
脂汗を浮かべて顔を赤くしたり青くしたりする立木さんは、なんだかとても新鮮だった。今まで見たことのない彼女の表情が見れたのは幸運だ。
「……………………分かった」
最終的に苦悶の表情を浮かべながら、立木さんはお付き合いを了承してくれた。
「やっぱり。立木さんって真面目だね」
「…………」
「あ、じゃあお付き合いするなら、毎日一緒に登校して、毎日一緒に下校してね!」
「…………」
「休みの日もできるだけ会って、寝る前におやすみの電話して、長い休みには泊まりで旅行する! あとラインはちゃんとした理由が無い限りすぐ返すこと! いい?」
「そ、そこまでするの?」
「セキニン」
「わ、分かりました! 毎日一緒! 寝る前の電話もするし休日は合わせるし旅行にも行くから! ラインもすぐ返します」
「あと浮気は許さないから。私以外のひと嫌いになってもキスしちゃだめだし、それ以上ももちろんだめ」
「それ、普通は『好きになっても』じゃないの……?」
「好きになってもだめに決まってるでしょ? 私以外だめ。するなら私。いい?」
「分かったわよ……」
立木さんはため息を吐きながら、「ほんと、意味わかんない」と投げやりに言った。
「じゃあ、お付き合い記念のキスしようよ」
「こっ、ここで!?」
始業前のトイレだ。お世辞にも雰囲気が良いとは言えない。
「初めてがあんななのに? もしかして立木さん普段からあんなことしてるの?」
「してるわけ無いでしょ!? あれが初めてだったに決まって……」
「へぇー」
私がにやにやすると、立木さんは目線をさまよわせて頬を赤らめた。
「わ、悪い?」
「立木さん、可愛いね」
「はぁ? 何言ってん────」
言い終わる前に唇を塞いだ。初めて、私から立木さんにキスをした。私の服から彼女の手を引っこ抜き、手をつなぐ。もう一方も。もちろん恋人繋ぎだ。
無人のトイレの中で、私たちの唇から出る音だけが響いた。
「────ぷは。ひひ、ドキドキするね」
「……っ」
立木さんは手の甲で唇を抑えている。そこで始業のベルが鳴った。
「あーあ。もう鳴っちゃった。教室戻らなきゃだね」
「私」
手を引こうとする私に、立木さんは声を上げた。
「あんたが、分かんない」
私は立木さんに向かって笑いかけた。
「これから知っていこ。お互いのことを」
こうして、私と立木さんの恋人付き合いが始まった。