『真実の愛』についての見解の相違
「どうか私との縁をお考え下さいませんか?」
シリンの目の前でそう告げるのは婚約者の弟であるルシュ。
(どうしてこうなっているのだろう…)
鈍色の空模様の中、呼び出された王城のテラスで向かい合って座り、にこやかに微笑みを浮かべる男を見て、シリンは瞬きを繰り返すことしかできなかった。
幼少のころから頭脳明晰だった彼は3年ほど隣国へ留学しており、先日故国へ戻ってきたばかりである。
3年ぶりに会った王子は記憶の中よりもずっと成長し、想像よりもはるかに出来が良くなっていた。
留学中に学んだのは学問だけでないようで、彼の希望で手合わせした騎士団の面々が驚くほどの武芸を身につけているらしい。
あくまで伝聞なので、実際にこの目でその姿を見たわけではない。ただ鍛えられた体つきであることはこうして相対しているだけでもわかった。
同じ年齢の自分に対しても高圧的な態度を取ることはない物腰の柔らかさに、容姿端麗であることは言うに及ばず、ぐうの音も出ない『完璧な王子様』がいま求婚してきているというわけである。
「あなたはもうラシード兄上の婚約者ではないのですから」
申し訳なさそうではあるが明確に告げられた言葉に、シリンは間違えていたことに気づいた。
そう、間違えている。彼は『元』婚約者の弟だった。
つい先日、公爵令嬢シリンと第二王子ラシードとの婚約は解消された。王子側からの『真実の愛』をまっとうしたいという理由で。
半年ほど前からどこか様子がおかしくなったラシードだったが、気がつけばその傍らにはいつも一人の女性がいた。書面で告げられた婚約解消を正式なものにするための会談の場でも、ラシードの隣にぴったり寄り添うように立っていた。
シリンに非はないとは言われたが、つまりは彼女を愛したから自分との婚約は解消したい。それが『真実の愛』、そういうことなのだろう。短くはない婚約期間の間に築いたつもりだった関係もすべて独りよがりだったのだ。
「あなたをずっとお慕いしていました。けれどあなたは兄上の婚約者。手の届かぬ人であるから傍にいるのがつらくて、留学と称して逃げた私です」
思考の底に沈みかけるシリンを連れ戻すようにルシュが言葉を続ける。
「ですが今は違います。あなたにこの胸のうちの想いを告げることに何の障害もない。私と婚約していただけませんか?」
ルシュはラシードと一つしか歳が違わず、それなりに仲の良い兄弟あったためシリンも言葉を交わしたことは何度もある。しかしそれはあくまで『婚約者の弟』としての良識の範囲内に過ぎない。このような想いを持たれていたことなど思いもよらなかった。
まっすぐにこちらを見つめる黒い瞳の眼差しはずっと傍にいて、これからも傍にいられると思っていた人とよく似ている。
『元』婚約者のラシードはルシュのような天才肌ではなく、ごくごく普通の人だった。学力も武力も中庸。容姿も体躯も平凡。『完璧な王子様』ではなく『ただの王子』。それでも―――
「……兄上がお好きなのですね」
己が頬を伝うものが涙だとシリンが気がついたのは、ルシュの口からぽつりと落とされた言葉を耳が拾ったときだった。
人前で感情のまま泣き出すなど恥ずべきことだ。シリンがこれまで受けてきた王子妃教育では許容されるものではない。
しかしその教育も意味がなくなったのだからと、自分で自分を許してシリンは流れる涙を止めることはしなかった。
ラシードから捨てられて哀しみに痛む胸が、それでもまだ愛していると思う心が流す涙を止めることなくただハンカチでそっと拭うにとどめた。
「あなたと兄上は家の取り決めによる婚約だと伺っておりましたが」
少し落ち着いたころを絶妙に見計らったルシュに対して、シリンも顔を上げて答える。
「始まりはそうであっても、わたくしがラシード様をどう想うのかはわたくしの自由ですわ」
跡取りではない第二王子と公爵家末の令嬢。年も近いし丁度良い組み合わせだろうという親が決めた婚約だった。シリンと同じ年のルシュとではなかったのは、ラシードの方が兄だから先に決めておこうというただそれだけのこと。
「では私があなたをどう想うのかも私の自由ですね。ずっとあなたが好きでした」
少しも似ていないと噂される彼の眼差しは、シリンには別な男のそれを思い起こすものでしかない。最近はずっとまっすぐに見つめてくれることはなかったから余計に懐かしさを感じていた。
ラシードが『ただの王子』である事実は彼自身が一番よく知っている。年の近い優秀な弟と比較されがちで、心無い言葉を耳にすることは多かった。
そんな環境でも王子であると奢ることはなく、弟の方が優れていると腐ることもなく、そして誰にも臆さず王子である責から逃げずに努力しているラシードをシリンは間近で見ていて尊敬していた。
ラシードが将来持たねばならない力が足りないのであれば、少しでもその助けとなれるようにシリンも自分を高める努力をしてきた。
そのことを『ありがとう、でもけして無理はしないで欲しい』と言ってくれる人だったから、尊敬はすぐに愛情に変わった。
「申し訳ありません。あの方が好きなのです」
「兄上はあなたを捨てたではありませんか。それでも想っていると?」
「愚かしいとお思いでしょう、自分でもそう思います。ですがどうしても心があの方へ向かってしまうのです」
シリンの言葉を噛み砕くように、目を閉じて小さく何度か頷くとルシュは口を開いた。
「だそうですよ、兄上。兄上に見込まれましたが私ではダメだそうです」
その声はテラスの奥に広がる庭の木の陰に向けられていた。ゆっくりと姿を現したのはシリンの想い人。久しぶりに見たその姿にはこれまでなかったものがあった。
光を遮るような薄い色ガラスが嵌った眼鏡と老人が持つ物よりも長く細い杖。
「ラシード様、そのお姿は……」
驚いて立ち上がったシリンも知っていた、その眼鏡と杖は視力に障害がある者が使用することを。
様子がおかしくなった半年前の記憶から、思い当たることが浮かび上がってくる。
日差しがまぶしい庭で会ったお茶の席で、手をあげて何かを振り払うような仕草をしていたこと。
読んでいる本が以前よりずっと顔の近くにあったこと。
歩いていてよく人にぶつかりそうになっていたこと。
「兄上の視力はかなり衰えている。今はまだぼんやりとは見えているがおそらくこの先回復は見込めない」
杖で足元を確認するようにゆっくりとこちらへ向かってくるラシードの後ろにはあの女性がいた。
「彼女は乳母の娘で本来は侍女だ。兄上に頼まれて実家から出仕して、視力が失われつつある目の代わりとして付き添っていたんだ」
ルシュの言葉を受けて彼女は深々とお辞儀をした。その顔は恋する女ではなく、間違いなく主を案じる侍女の顔だった。
「兄上は以前落馬されて頭を打ったことがあったそうだが、大きな外傷はなく見過ごされてしまっていた。そのせいらしい」
その事故はシリンも覚えている。『コブができたくらいで済んでよかったよ』と笑うラシードの笑顔を信じ込んでいた。
あの時もっときちんと診てもらってもっと早く処置してもらっていれば。
「シリン」
後悔の念に言葉が出なくなりそうなシリンを咎めるようにきつい口調で名を呼んだのはラシードだった。ルシュの隣に腰掛けると眼鏡を外し、座るようにと促したシリンの方へ顔を向ける。
「僕がこうなってしまったのはきみのせいではない。僕自身の責だ」
だから自分を責めるなとその眼差しが訴えていた。しかしその黒い瞳がいつの間にか白く濁っていることがシリンにはどうしようもなく悲しかった。
それと同時に思い返す。この人が自らの不幸を誰かのせいにするような人ではなかったことを。
「敬愛する兄上の頼みですから引き受けましたが、想定通りの道化となりましたよ。なので、あとは当事者で解決してください」
そういうと立ち上がったルシュはあっさりシリンに背を向ける。それまでの告白などまるでなかったかのように立ち去っていった。
「ラシード様、お聞きしてもよろしいですか?」
「ああ、山のようにあるだろうね…。今度はきちんと答えるよ」
確かに婚約解消の場では謝罪の言葉ばかりで、山のように聞きたいことへの『答え』は一つも返ってこなかった。しかし今となってはラシード本人に確認したいことがいくつかある程度だ。
「では、視力以外に頭痛などが日常的にあるのですか?」
「………最初の質問がそれか」
なじられるだろうと覚悟していたラシードの心中とは裏腹に、シリンの口から出てきたのはその体を気遣う言葉だった。
「強い日の光がきつく感じるだけで痛みなどは伴わない」
「そうですか…」
少しだけホッとしたシリンを見て、ラシードの緊張も和らぐ。
「僕は今後王族としての責務はもちろん、貴族としても人並みの責務を果たすことは難しいだろう。きみが王子の婚約者として努力してきたことはほぼ無駄になってしまうのが申し訳なかった。だから僕よりもずっと優秀なルシュの婚約者になってもらえればと…」
確かにラシードはこのままでは重要な要職にはつけないだろう。視力が弱くてもと王子の地位に固執するような人ではない。むしろ余計な波風を立てないことを選ぶ。
「心変わりしたように見せかけることで、わたくしの婚約者をルシュ様にしたかったのですね」
ラシードを襲った不幸は彼を少し変えたように思えた。王子として意識して自分を律する人だったから、そんな嘘をつこうとすること自体がシリンには驚きだった。
『真実の愛』をまっとうしたいということの意味は、自分から離れさせることでシリンの幸せを願ったのだろう。
「目のことを正直に話したら、きみが絶対に僕を見捨てないだろうというくらいの自信はあったんだ…」
少しはにかむように告げるラシードにシリンはかなわないと思う。
この人はどうしてこう屈託がないのだろう。鈍感や楽観とは違う。まるで春の丘に一本だけ生えた欅のように穏やかでどこかのんきで、でもどんな状況になっても揺るがない強さが確かにある。
こんなに近くにいてもラシードにシリンの表情が見えているかはわからない。わからないから察してもらおうなどと思わず、きちんと口に出さねばならない。
ルシュが座っていた席に移動して、問答無用でラシードの手を取る。びくりと震えた手を握りしめ強引に自分の頬に触れさせる。
「馬鹿ですか。大馬鹿ですね。そんな自信があるくらいならもっとうぬぼれてくださればよかったのに」
「………すまない……」
シリンの頬を伝うものが何か、見えようが見えまいがその指先で感じているラシードから謝罪の言葉がこぼれる。
「たしかにわたくしのこれまでの努力は王子である方のためのものでした。ですがその努力は自らの意志で行ってきたことであり、その知識はすべてわたくしの糧です。これからがどんな未来であろうと無駄になるものなど一つもありません」
わずかに動かされるラシードの指先が頬を流れる涙をぬぐおうとしている。
どれだけ泣かせれば気が済むのだろうか、物心ついてから今日が一番泣いている気がした。
「ルシュはきっときみを大切にしてくれるはずだ」
「勝手に聞いていらしたくせにもう一度言わせる気ですか?」
「きっと苦労する」
「ラシード様にとっての『真実の愛』がわたくしの幸せを願うものならば、わたくしにとっての『真実の愛』はラシード様の隣にいることです」
これまで一度も『自分のために頑張ってくれ』と言ったことのないラシードにとって、身を引くことよりシリンに苦労させることの方が怖いのかもしれない。
けれどシリンも『はいそうですか』と折れることはできない。
「大馬鹿なラシード様と愚かなわたくしはぴったりだと思いませんか?」
ラシードの両手を自分の頬を包むように押し当てる。どれだけ愛しく思っているか伝わるように、笑っている顔がその手から感じられるように。
「あんな嘘をつけるのなら、もう少し身勝手になってください」
「………言っていいのかな」
「おっしゃって下さらないとわたくしはいつまでもこの手を離せませんわ」
シリンの細い手で包まれているラシードの手に少し力が入る。
唇をかみしめ、零れそうな涙をこらえているラシードにもわかるようにシリンは大きくうなずく。
「つらくなったら我慢しないでほしい」
「はい」
「いやだと思ったら投げ出してくれていい」
「はい」
「耐えられなくなったら捨ててくれ」
「はい」
「傍にいてほしい。これからも」
「……はいとお答えする前に、わたくしからもお願いです」
ラシードの手に重ねていた手を離し、自分のそれと同じようにラシードの頬を包み込む。
「嘘はつかないで、とは申しません」
「うん」
「隠し事もだめです、とも言いません」
「うん」
「迷ったときは話してください」
「うん」
「傍にいて、一緒に考えていきたいのです。これからも」
「はい」
その返事と同時にシリンはラシードの温かな胸に優しく包まれていた。
テラスから自室に戻り一人になったルシュは小さく息を吐いた。
『真実の愛』
真実も愛も人によって違う。
ラシードがシリンから離れようとしたことも、シリンがそれを是としなかったことも、それぞれにとっての『真実の愛』だ。
ではルシュにとっての『真実の愛』は。
もしかしたらラシードは自分の本心を察していたかもしれない。
微かな、蜘蛛の糸のように極々細い希望にすがってルシュはシリンに愛を告げた。
結果は蜘蛛の糸よりもはるかに確かな絆があることをみせられてしまった。それでも―――
「あなたを愛しています」
ずっと愛している人にそう告げて、正面から愛を乞うことができた。
彼女からの愛を得ることはできずとも、あの眼差しが自分だけに向けられた事実があること。
この先シリンと兄が結ばれる姿を見て、胸がどれほど疼こうが、彼女を求める心の乾きが癒さなくとも。
それがルシュにとっての『真実の愛』だった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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