最後の乗客 (短編17)
空には上弦の月。
街灯のない道路が、広がる田んぼの間をまっすぐ伸びています。バスターミナルの営業所に向かって、この日も小林さんは最終バスを走らせていました。
乗客はいません。
会社帰りの乗客を隣町まで運んでの帰り道。夜も九時を過ぎると、このあたりでバスを待つ客はめったにいないのです。
――あとひと月か……。
小林さんは来月で六十歳になります。
同時に定年退職も迎えます。
――長いこと働いたものだな。
四十年近くバスの運転手をしてきました。よくがんばったもんだ、と思いつつ……淋しい気もします。
五年ほど前に奥さんに先立たれ、それからは独り暮らし。息子と娘、二人の子はいますが、それぞれ遠くの町で暮らしていました。
――あれっ?
小林さんは闇に目をこらしました。
次のバス停に客が立っており、ライトに浮かぶ小さな影から子供のように思われました。
――こんな時間に……。
小林さんはブレーキペダルを踏みました。
バス停にバスを止めてドアを開けると、バックミラーにやはり子供の姿が映りました。
その子は乗るとすぐに運転席にやって来ました。
「ねえ、運転手さん。このバス、町立病院のある町に行くの?」
「ああ、行くよ」
そう答えて振り向いたとたん、小林さんは腰を抜かすほどおどろきました。なんと、その子はカカシだったのです。
――カカシがバスに乗るなんて。しかも、こんなに夜おそく……。おそらく、これにはわけがあるにちがいないぞ。
小林さんは気になってたずねました。
「町立病院に行きたいのかね?」
「うん」
カカシがコクリとうなずきます。
どんな病院だって、まさかカカシの診察はしないでしょう。小林さんはますます気になりました。
「どこか、ぐあいが悪いのかな?」
「ううん。おじいさんが、救急車でそこに運ばれたらしいの。それで会いに行くんだ」
「そうなのか。なら病院まで、わたしが連れていってやろうな」
「ホント?」
「ああ、この仕事が終わったらな」
「ありがとう」
カカシが目を輝かせます。
「発進ー」
号令を声に出し、小林さんはカカシを乗せバスを発進させました。
それから一時間後。
小林さんはカカシを連れ、おじいさんが入院している病室を訪ねました。
「おじいさん!」
カカシがベッドにかけよります。
「おう、お見舞いに来てくれたのか」
カカシを見て、おじいさんはベッドの上に起き上がりました。思ったより元気そうです。
「もう、だいじょうぶだ。暑さのせいで、ちょっと目をまわしただけだからな」
おじいさんはカカシの頭をなでてから、小林さんに向き直りました。
「おたくは、たしかバスの運転手さんでは?」
「はい。毎日、あの道路を走っています」
「どこかでお見かけした方だと思ったが、やはりそうでしたか」
「小林と申します。じつは……」
自分がなぜここに来たのかを、小林さんはおじいさんに話して聞かせました。
「わざわざすみませんなあ」
「いえ、とんでもありません。それより、おうかがいしたいことが」
小林さんはカカシに目をやってから不思議に思っていたことをたずねました。
「人のようにしゃべって、しかも歩くなんて、どうしてなんです?」
「じつはですな」
おじいさんは思い出すように話し始めました。
自分たち夫婦は一人息子を幼くして失った。それからは毎年、亡くなった息子だと思ってカカシを作り始めた。
「この服も息子の残したものでしてな」
おじいさんはなつかしむように、カカシの服を見つめながら話を続けました。
するといつかしら……。
カカシに魂が宿り、こうして話をしたり、歩いたりするようになった。今では死んだ息子のように思っている。
「妻がなくなって三年になりますが、その妻のためにもカカシを作り続けてるんですよ」
「そうでしたか」
小林さんの頭からは、それまでの不思議がすっかり消えていました。カカシがバスに乗ったことも、カカシが子供であることも……。
「ですが、このとおり老いさらばえました。田んぼを作れるのも、今年で最後のようです」
「それではカカシも?」
「いや、カカシだけは作り続けますよ。この体が動き続けるかぎりはですね」
おじいさんはそう言うと、いとおしそうにカカシの頭をなでたのでした。
二週間後。
小林さんがバスを走らせていますと……。
おじいさんの田んぼを、実った稲を刈りとるコンバインがひっきりなしに動いていました。
今も、おじいさんは入院しているはずです。そんなおじいさんにかわって、近所の農家の人が手伝っているようでした。
運転席から目でカカシを探しました。けれど、前日まであったカカシの姿はどこにもありませんでした。
その夜。
小林さんは仕事を終えてからおじいさんの田んぼに行きました。消えたカカシのことが気にかかっていたのです。
道路から目をこらすも、やはりどこにもカカシは見えません。それからは道路から田んぼに足を踏み入れて、真っ暗な奥の方まで探し歩きました。
――あっ!
小林さんは声をあげて立ち止まりました。
あぜ道に見覚えのある布きれが灰といっしょにあって、それは黒く焼けこげていたのでした。
――稲刈りが終わって用がすんだんで……。
その場に立ちつくしていますと、
「小林さん!」
カカシの声が聞こえました。
――えっ?
小林さんはあわててあたりを見まわしました。
そこには闇があるだけで、どこにもカカシの姿は見えません。
「焼かれても、魂は田んぼに残るんだよ」
闇の中からふたたび声がします。
「そうだったのかい。焼かれているのを見て、びっくりしたよ」
小林さんは闇に向かって声をかけました。
「それでね。おじいさんが新しいカカシを作ってくれるまで、こうしてここで待ってるの」
「じゃあ来年、また会えるんだな?」
「うん。そのときは、またバスに乗せてね」
「もちろんだよ」
つい返事をしてから、そのときの自分はもうバスの運転手じゃないことに気がつきました。
――まあいいか。
がっかりさせることもありません。
「来年、また会おうな」
小林さんはカカシの魂に手をふってみせました。
定年を迎えた日。
いつもと同じバス路線、いつもと同じ時刻、小林さんは最終バスを走らせていました。
これが最後の仕事。
営業所のバスターミナルまで走れば、もうバスの運転手ではなくなります。
カカシのいた田んぼにさしかかりました。
――あのおじいさん、なんとも幸せだな。
おじいさんには待っていてくれる者がいます。たとえそれがカカシであってもです。
ひきかえ、自分には待ってくれる者がいません。家に帰っても、いつだってひとりぼっちです。
――うん?
あの夜のようにバス停に目をこらしました。
カカシを乗せたバス停に、たくさんの乗客が立っていたのです。
――最後の乗客だな。
小林さんはうれしくなって、バスを止め乗降ドアを開けました。
ガヤガヤとにぎやかに、十人ほどの乗客が乗りこんできます。
「お疲れさま」
乗客がやってきて、目の前に大きな花束が差し出されました。
――えっ?
なんと息子ではありませんか。
「長い間、ごくろうさま」
こちらは娘です。
それからも、息子の嫁、娘の夫、孫たちと、それぞれがねぎらいの言葉をかけてくれました。
小林さんの目に涙が浮かびます。
「オマエたち、どうして?」
「お父さんをおどろかせようと思ってね。みんなで相談して決めたんだ」
息子が満面笑みで言いました。
「お父さんのバスに乗るのが、やっぱり一番の親孝行だと思ったの」
娘もこぼれんばかりの笑顔です。
「ありがとう、みんな……」
小林さんは気がつきました。
自分にも待っていてくれる者がいることに……。
「発車ー」
いつもより大きな声で号令をかけ、それからいつものようにバスを発進させました。