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第16話 昔の記憶

 私は幼少の頃から両親に英才教育を施されて育ってきた。


 物心がついた頃にはすでに習い事は両手に余る数を超え、同い年の子供と遊ぶ暇もなくただ勉強に励んでいた。


 父も母も厳格な人で甘えを一切許さない堅物。父は王都の北に位置する広大な領地を任された権力者で、国境付近の警備を一任されていた。母はその地方の小都市を治める子爵の一人娘。つまりは玉の輿に乗った勝ち組にあたる。だからなのか、母は教養や外面を特に気にする性格だった。


「アリーナ」

「はい。お母様」


 当時の私は5歳くらい。

 フレイム侯爵家の長女として恥ずかしくない教養を身に付けさせようと習い事の日々を送らされていた。


 語学から国の歴史、美術史、挨拶、姿勢、歩き方、食事のマナーから交渉術まで。社交界に向けた練習として休む間も無く勉強を繰り返した。この頃の私は理解していなかったが、社交界にデビューするのは早くても12歳ごろ。だいたいは15歳くらいになる。あまりに気の早い。


 後から知ることになったのだが、母は二つの問題を抱えていた。


 ひとつは男性としての後継者を父が望んでいるのにも関わらず、なかなか子宝に恵まれなかったこと。息子がいない場合、長女である私がフレイム侯爵家を襲爵することになるのだが、貴族社会は男性優位の社会。父は何としても家督を男に継がせたかった。


 それに報いることができない母に対する父のプレッシャーはどれほどだったのだろう。結婚したことがない私にはまるで想像も付かないが、少なくとも娘に対して辛い仕打ちをしなければ精神が保てないほどではあったのだろう。


「歴史の試験で間違いがあったそうね」

「……」


 先日、専属の教師が出した問題のことだ。確か全部で50問くらいの試験だった。国や王族の歴史からフレイム侯爵家の歴史にとどまらず、他の貴族や地名に至るまで、覚えることは山のようにあった。


「どうなの?」


 母が幼い私に詰問する。両足が小さく震える。


「……ごめんなさい。でも」

「でも?」

「1問だけです。それにスペルミスだったから先生も見逃して──」

「だけって何? 間違いは間違いでしょう?」


 母の目が鋭くなる。目の奥に宿るのは教育に対する熱意とは程遠い、暗くて淀んだ漆黒。まるで世の中の不条理に対する苛立ちを全て私に向けるような、そんな錯覚を与えるほどの狂気を孕んでいた。


「あ……あ……」


 震える唇は言葉を発することが出来なかった。母が私の目の前まで歩いてくると、その右手を大きく振りかざす。恐怖で濡れた瞳が写した母の姿を今でもしっかり覚えている。母の顔に貼り付けられた表情は、いつも不機嫌そうな様子からは考えられないほど、実に愉快で楽しそうな笑顔だった。私はその歪んだ笑顔が恐ろしくて何も出来ず、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。


 そして──その日もまた、私は泣いた。




 そんな習い事の日々を過ごした私が8歳の誕生日を迎えたころ。一度だけ褒められたことがあった。人生初といってもいいくらいだ。その後もそんなことは一度も起こっていない。少なくとも15歳の現在までは。


「へび……白い蛇?」


 魔法の習い事。貴族の血縁だけが使役することができる神秘の力。その習い事で発現した私の魔法を見て教師と両親が驚いていた。私の小さな手の上には白くて長い美しい蛇がゆったりと構えている。


「白い蛇とは素晴らしい。これは王家の歴史に伝わる神の使いにそっくりです」


 教師は興奮した様子でそのように私の魔法を評してくれた。それに満足したのか父が、


「さすが私の娘だ」


 誇らしげそう言うと、その大きくて硬い手で私の頭を優しく撫でてくれた。父はいつも遠くから静かに私を見守るだけで、直接何か言ってくれることはほとんどない。だから今でもこの時のことをよく覚えていた。そしてあの母もこの時だけは、「そうね」と褒めてくれた。


 その表情はいつもの不機嫌そうな顔でもなく、折檻の時の歪んだ笑顔でもなく、何か憑き物が落ちたような暖かな微笑みだった。




 それから社交界デビューをする12歳までの4年間が、この魔法学園で過ごす日々を除けば一番穏やかだった時期になる。魔法が顕現したあの日から、母の癇癪は鳴りを潜めていた。些細な間違いで折檻されることもなく、私はようやく、明日に怯えないで済む日常を迎えることができた。


 だがその日々も社交界デビューを迎えた12歳の冬のある日までだった。


 パーティが終わって屋敷に戻った母は荒れに荒れていた。壁際の棚に飾られた高価な調度品が地面に散乱する。花瓶に活けてあった花は無残にも地面に散らされていた。その中心で母が肩で息をしながら地面を激しく睨んでいた。──いや、この時に睨んでいたのはきっと地面ではなく、


「ど、どうかしましたか。お母様?」

「ホーエン侯爵家の糞女が……誰が田舎女だ……バカにして……糞……くそッ」


 母はその場にはいない誰かに向かって罵倒を繰り返していた。その目に宿る漆黒は、幼い頃、折檻される時によく見たそれと同じ色をしていた。


 また……昔に戻ってしまったことに気がついてしまった。そしておそらく、もともと昔からこうだったのだろう。幼かった私が気がつかなかっただけで。母はきっと自分の出自に自信が持てないでいたのだ。


 子爵の娘という決して低い身分ではないにも関わらず、その身はもっと上の高潔さを求めて焦がれていたのだろう。どうしようもないというのに。そこで母は自分の分身として私にその役目を担がせようとしたのだ。


「……アリーナ。そこにいたのね」


 乱れた髪の奥から覗く母の瞳は昔と同じ狂気に彩られていた。私は喉を鳴らして、その場を動けずにいた。この目に睨まれると何もできない。トラウマのように私の心が苛まれる。


「あれほど教育したのにどうして……どうして……あの場で一番輝けなかったのかしら……私が甘かったのね。反省しなきゃ……一番美しいのは誰なのか全員に知らしめるのよ……」


 そういえば、父と母が一緒にいる姿を長く見ていない。つまりはそういうことなのだろう。全ての支えを失った母はもうとっくの前から壊れていたのかもしれない。だけど、どれほど成長したとしても私はこの目から逃げる小さな勇気すら持てなかった。

 そして私も母も、昔の姿に戻ってしまった。




「あら、大丈夫かしら?」


 14歳のある日。

 王都で開かれた王族主催のパーティに招かれていた。


 その一角で私の隣で女性が地面に膝をついて倒れていた。そのドレスは女性が手に持っていた飲み物で汚れている。動揺する彼女を気遣うように近寄ると私はその耳元でそっと囁いた。


「……あなた、場違いなのよ。田舎に帰りなさい」


 女性の顔がみるみると青ざめる。私はその場を立ち去ると、彼女が退場するのを遠くから見守った。絹のように美しい金髪。しなやかで瑞々しい肢体。そして愛らしい表情は周囲を魅了して止まない。放っておけばきっと私の邪魔になっただろう。私は私のために、一番輝く存在でなければならない。その障壁となるものはすべて取り除く必要がある。


「お母様はどこかしら……って、そういえば今日はいないのか。なら無視しても良かったかしら」


 癖ね、と私は呟くと肩を竦めた。それから手に持ったグラスを口につける。足元には先ほどの女性の足を絡め取った、私が魔法で生み出した蛇が戻ってきていた。その表面は幼い頃に見た白い表皮ではなく、黒く澱んだ色をしていた。まるで母の瞳に宿っている暗闇のようだった。


 きっと、先ほどの女性の瞳に映った私の顔は、幼い頃見た私の母の顔と同じだったのだろうと、ついついそんなことを考えてしまう。最初の頃にあった罪悪感も今では微塵も感じなくなってしまった。所詮、蛙の子は蛙ということなのだろう。


 来年は魔法学園に入学。そうしたら、王族とお近づきになれる機会が生まれる。母の宿願である高音に咲く花になる夢もきっと叶う。そうしたら……一度だけ見せてくれたあの笑顔をもう一度だけ見ることができるのだろうか。


 目を閉じれば、鮮明に思い出すことができる。

 人は悪い記憶は忘れないというが、日頃から悪い記憶しかなかった私にはあの出来事が逆に鮮明に思い出せてしまう。両親が笑って私のことを褒めてくれたあの日のことを。大きな手で優しく私の頭を撫でてくれた父と、それを隣で優しく見守ってくれた母を。


「我ながら子供ね……」


 誰に聞かせるわけでもなく、唇から言葉が溢れ出した。言葉はパーティを楽しむ周りの声に掻き消される。私は空いたグラスをテーブルに置くとパーティ会場を後にした。





「あっ、おかえりなさーい!」

「ミシェル? それにクラーラとミオも」


 寮に帰ると、三人はロビーのソファでくつろいでいた。


「あ、アリーナ様! おかえりなさいませ!」

「おかえりなさい」


 ミオとクラーラも楽しそうな表情を浮かべている。


 ……なんか無性に腹が立ってきた。

 さりげなく私はこの二人に攻撃魔法くらってるのよね。

 なのになんでこの子たちが私のミシェルの側にいるの?

 しばかれたいの?


「あれ……もしかして少し元気ない?」


 ミシェルが私の顔を覗き込むように近寄ってきた。

 鼻と鼻がぶつかりそうになる。

 ミシェルの甘い香りが漂ってくる。

 不思議と、それだけでささくれた私の心が穏やかになる。


「……平気。心配してくれてありがと、ミシェル」


 私はそう言って笑うと、その輪に加わった。

読んでいただきありがとうございます。

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まだの方はこの機会に是非どうぞ。


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