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33「ウノちゃん」


 まさしく、夢のような時間でありました。

 八伏お兄様のお家は、さながら竜宮城と言わざるを得ないでしょう。

 すでに日は沈み、そろそろ学習塾に向かう時間なのだと頭の片隅では理解しているのですが、これがどうにも――


「お兄様、これは一体どのように読むものなのでしょう?」


「うん?」


 私はテーブルの上にあった、いわゆる漫画雑誌を手に取ってお兄様に問いかけます。


「どのようにって……ん? もしかして舞ちゃんマンガ読んだこと」


「恥ずかしながら一度も、お母様に禁じられておりますので……」


「そんな人間、この世にいるんだな……」


 なにやらお兄様はたいへんなショックを受けているご様子。

 ですがお兄様は不勉強な私にも、懇切丁寧に漫画の読み方を教えてくれました。


 なるほど、漫画と言うものはたいへん画期的な読み物でございます。

 そこで綴られる物語はどれも突飛で荒唐無稽で、私の胸を躍らせました。

 私は夢中になってページをめくります。


「なんか気に入ったのあった?」


「……どれもこれも面白いです、しいて言うなら、この漫画がお気に入りですね」


 そう言って、私はある漫画の1ページを指します。

 どれどれ、と覗き込んできた八伏お兄様が突然噴き出しました。


「えっ? 舞ちゃん、え? これ? 本当に?」


「これは面白くないのでしょうか……すみません不勉強なもので、漫画の良し悪しというものが分からず……」


「あ、いや、そうじゃなくて、面白いんだけどさ、だってこれ……」


 お兄様はなんだか歯切れが悪い言い方で、再び開かれたページを覗き込みました。

 「誤って入浴中の幼馴染と鉢合わせになってしまい、赤面する主人公」が描かれたコマであります。

 ちなみにその後には、鼻血を垂らした主人公が幼馴染に風呂桶を投げつけられてお風呂場から追い出されるコマが続きます。


「……本当に面白い?」


「ええ、読んでいてたいへん楽しい気分になれます。主人公を取り囲む女性たちとの関係性がもどかしく、はらはらさせられますね。良作だと思いますが……」


「そっか……舞ちゃんのお母さんにはここでソレ読んだこと絶対言わないでな」


「? 承知いたしました」


 なんだかよく分かりませんでしたが、首を縦に振りました。


 ともかく私は読むものを、この連載漫画の一本に絞りました。

 10数ページのそれが終われば次の号へ、読み終わればまた次の号へ。

 私はこの優柔不断な主人公を取り囲む恋愛模様の行方を見定めるべく、必死でページをめくります。

 これほど何かに熱中したのは、初めての経験でした。


 そして――あるページで手が止まります。


「八伏お兄様、ひとつお尋ねしたいことがあるのですが」


「なんだ?」


「このページなんですけども」


 私はある見開きページを指しました。

 それは主人公の幼馴染――おそらく作中で最も彼を想っているのであろう女性が、満月の下、仰向けになった主人公の上に跨っております。

 服ははだけて頬は上気し、そして彼女から伸びる吹き出しにはこの一文が。


 ――君、私と一つになってください。


「一つになるとはどういうことですか?」


「……」


 だんまりです。

 お兄様は、今までに見たことがないぐらい険しい顔をしておりました。

 ……そんなにも難しい質問だったのでしょうか?


「……そりゃあれだな、一つになろうっていうのは例えの話だよな」


「ええ、それは文脈から分かります」


 まさか文字通り提灯鮟鱇のように融合してしまうわけではないでしょう。

 お兄様は「うううぅぅぅん」と低く唸ります。

 そしてしばらく経ってから、言いました。


「――これはあれだ、プロポーズだ」


「そうなのですか!?」


 私は仰天してしまいました。

 まさか、あの比喩表現にそんな意味があるなんて!


「何故、そのような表現に!?」


「えーと、そりゃあれだ、結婚式の誓いの言葉で“病める時も 健やかなる時も~”ってあるだろ、そういうことだよ」


「……どういうことです?」


「楽しいことも悲しいことも二人で分け合いますってこと、運命共同体? ってやつだよ」


「なるほど!」


 私は目から鱗が落ちる思いでした。

 確かに、婚姻を結ぶと財産などは夫婦共有のものとなります。

 そう考えれば「一つになる」という表現は言いえて妙でした。


「それにしてもプロポーズにしては随分とラフなのですね、ベッドの上で、服もはだけています……馬乗りになってのプロポーズと言うのは一般的なのですか?」


「……」


 再びだんまりのお兄様です。

 娯楽作品を鑑賞する上で、そんな無粋なことを聞くんじゃないと、そういうことでしょうか?

 確かにこのベッドの上でのプロポーズは、なにか文学的な意味合いが込められているのやもしれません。


 ともかく私は納得すると同時に、あることに気付きました。

 そうです、お兄様の言う通りだとしたら、このシーンは今までつかず離れずだった主人公と彼女らの関係に決着がつく重要なシーン!

 つまり主人公は選び取るはずです!


「では、主人公はこの幼馴染と結ばれるのですね!?」


「あーー……違う」


「え?」


 呆けた声をあげる私に、八伏お兄様が次の号を手渡してきました。

 私はこれを受け取り、そして彼と幼馴染の行く先を見届けようとしたのですが――


「……完?」


 最後のコマの下に、小さくそんな文字が記されてありました。

 にわかには信じがたいことですが、主人公は幼馴染はおろかついぞ誰と結ばれることもなく、つかず離れずの関係を保ったまま――物語が終わってしまったのです。


「それで終わりだよその連載」


「……作者様には何か断筆せざるを得ない、並々ならぬ事情が?」


「いや、単行本換算で21巻分、それで綺麗に完結、打ち切りでもなんでもなく」


「そんな」


 信じられませんでした。

 あれだけ多くの女性が主人公に言い寄っていたのに、結局のところ関係は何一つ進展しなかったのです。

 特に物語冒頭から主人公に好意を寄せていた幼馴染は、依然幼馴染という関係性のままで……


「何故、幼馴染の子は主人公と結ばれなかったのですか」


「何故って言われても……」


「彼女は間違いなく作中の登場人物の中で最も主人公に好意を抱いており、そして作中を通してアプローチの回数も人一倍多かった。容姿は端麗で、学業の成績も悪くない、加えて家事全般を得意としており、捨て猫を保護するなど道徳観念も優れていることがうかがえます。更に幼少時代から築かれた交友関係は非常に強固で……それなのに何故、結ばれないのです、何故報われないのですか」


 八伏お兄様は再び「うううぅぅぅん」と低く唸りました。

 そして、ややあって


「……恋愛って、案外そういうもんじゃねえの?」


 そういうもの。

 私の矮小な頭は、パンク寸前でした。


「理解できません……」


 私は誰に言うでもなく、ひとりごちます。

 その時――突然、なんらかの電子音が室内に鳴り響きました。

 音は、テーブルの上に置かれたお兄様のスマートフォンから。


「随分と遅かったな、お母様」


 お兄様がスマートフォンを手に取り、その画面を眺めながら言いました。

 私はその時、はっとなって時計を見ます。

 時刻はすでに九時近く、家を追い出されてから三時間以上が経過していました。


 全身からさあっと血の気が引いていくのを感じました。

 我に返った、という表現が近いかもしれません。

 どうしよう、どうしよう。

 こんな時間まで誰かの家で遊んでいたなんて、お母様に知られれば――


 すでに絶縁を宣告されたことなど、頭の片隅にもありませんでした。

 自然身体が震えます。嫌な汗がにじみ出てきます。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう――!


 そんな時、お兄様はおもむろに言うのです。


「――なあ、ゲームをしようぜ」


「え……?」


 初め、私はお兄様が何を言っているのか分かりませんでした。

 スマートフォンは依然電子音を発し続けています。


「ルールは簡単、お母様が舞ちゃんを迎えにくることになったら俺の勝ち、逆に俺が舞ちゃんを家まで送ることになったら舞ちゃんの勝ちね、負けたほうは罰ゲーム」


「お、お兄様なにを……」


「じゃあ、スタート」


 そう言って、お兄様は画面を軽く一度タップし、スマートフォンを耳に当てます。


「あー、もしもし八伏です、ん? ああ、舞ちゃんのお母様ですか、ご無沙汰してます、どうしましたこんな時間に?」


 やっぱり、お母様だ。

 私は緊張に身体をこわばらせます。


「うん? なんですか、舞ちゃんを知らないかって? ええ、知ってますよ。というか俺の部屋にいます、あ、電話は替われませんので悪しからず、彼女疲れ果てて眠ってます」


「!?」


 あまりにストレートな物言いに、私は思わず声をあげてしまいそうになりました。

 そんなことを伝えれば、お母様は十中八九、烈火のごとく怒ります。


 事実そうなりました。

 電話口で喚く、お母様のヒステリックな声がこちらまで届いてきます。

 お兄様はすかさず音量ボタンをいじり、そして悪戯っぽく舌を出しました。


「いやぁ、そうは言われましてもね、親戚で、しかも年頃の女の子がこんな時間に外をフラフラしてたら保護するでしょ普通。……さっさと警察に届けろ? ははは、アンタ国民の血税をなんだと思ってるんですか」


 もはや私は気が気でありません。

 私ならばすぐに無礼な発言の謝罪に徹したはずです。

 しかし、どうしてですか。

 何故あんなにも恐ろしいお母様の叱責に対して、あなたはそんなにも笑っていられるのです――?


「家庭の問題に口出すな? いやだってアンタ親子の縁切ったんでしょ? ……冗談? 教育の一環? 冗談でも言っていいことと悪いことあると思いますけどね ……警察を呼ぶぞって? はは、それこそ血税をなんだと思ってるんです、普通に迎えに来れば普通に返しますよ、はい、はい……ん? 責任をもって送り届けろ? そんで謝罪しろ?」


 その時、私は見ました。

 先ほどまで悪戯っぽく笑っていたお兄様が、一転して般若の形相になる、その瞬間を。


「――ふざけんな!! 自分が追い出した娘ぐらい自分で迎えに来い! そんで謝罪しろ! 俺じゃなくて舞ちゃんにだ! 子供が家に帰れなくなることなんて、あってたまるか!!」


 お兄様が画面をタップして、通話を終えます。

 私は、すっかり呆けてしまっていました。

 そんな私に向かって、お兄様はにっかり笑い、言うのです。


「ゲームは俺の勝ちだな、ウノちゃん」


「ウノ……ちゃん……?」


「負けたほうは罰ゲームって言っただろ? ちなみに今回の罰ゲームは“安直なあだ名をつけられる”でした、河野舞だから、ウノちゃん」


 なはは、と彼は何がおかしいのか笑いました。

 すると――私は泣いてばかりです、またも目から熱いしずくが溢れて、止まらなくなってしまいました。


「ありがとうございます……」


 私は眼鏡を外して涙をぬぐうと、彼に倣って自分が今できる最高の微笑みを浮かべました。

 その時、一瞬八伏お兄様が驚いたようにこちらを見ていたような気がしましたが、きっと気のせいでしょう。

 なんにせよ私はこの時――八伏お兄様に恋をしてしまったのです。


「……迎えが来たみたいだな」


 外から車のエンジン音と、続いてこつこつとヒールの踵が地面を叩く音が聞こえます。

 楽しい時間が終わろうとしていました。

 まだもう少しここにいたい。

 まだもう少し八伏お兄様とお話をしていたい。

 そう思うと、自然と口が動いておりました。


「……八伏お兄様は、どのような女性がタイプですか?」


「た、タイプ?」


 お兄様は、いきなりの質問に面食らったようでしたが、しばらくしてこれに答えました。


「そうだな、しいて言うなら自分にないものを持ってる人がいいな」


「自分にはないもの、ですね、かしこまりました」


「……かしこまりました?」


 お兄様が何か不思議そうな顔をしておりましたが、そんなことはさしたる問題ではありません。

 私は今まさに、自らの目標を手に入れました。


 ――思うに、あの漫画に出てくる幼馴染は純粋に足りなかったのです。

 あらゆる面で、主人公の要望を満たすことが叶わなかった。

 一つになるに、値しなかった。


 私はあの漫画から教訓を得ました。

 意中の男性を手に入れるのならば徹底的に。

 お兄様が自分にないものを求めるというのなら、私は八伏お兄様以外の全てを手中に収めるぐらいの気構えで挑むべきなのです。


 ――ホント、ウチのせがれも舞ちゃんと足して二で割ったらちょうど良くなるのに。


 登美子叔母さまの言葉が脳裏をよぎります。

 ああ、世界とはなんて物語的なのでしょう!

 私の胸中はこれ以上ないほどに澄み渡っております!

 全てが、全てが繋がりました!


 私とお兄様は、いずれ一つになり、世界を半分にするのです!

 病める時も、健やかなる時も、楽しいことも、悲しいことも!


「またお会いしましょうね、八伏お兄様」


「おう、漫画読みたかったらいつでもこいよ、ウノちゃん」


 それが現世における、八伏お兄様との最後の会話になりました。


 この後私はこっぴどくお母様に叱られることとなりましたが、そんなのはさしたる問題ではありませんでした。

 何故ならばお母様にとっての完璧な娘像というのは、私が新たに打ち立てた目標と比べれば、ひどく矮小なものであったからです。

 以前までの私にとって、お母様とは世界の全てでありました。

 しかし、こんなちっぽけな世界をお兄様と分かち合うわけにはいかないのです!


 その日から、私はより一層勉学に打ち込みました。

 より一層自己鍛錬に努めました。


 やはり人間の成長度合いというのは目標の有無によって、まるで違うのです。

 私は、以前の私からでは考えられないほどに成長しました。

 順位争いなどという、つまらないイベントなどもはや眼中にすらありません。

 全てが恋ゆえに、全てを手に入れなくてはならなかったのですから。


 私は、お母様というちっぽけな世界から飛び立ったのです。

 そして私は、高校生になります。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 私が眼鏡からコンタクトに変え、髪を結うのをやめたのとほぼ同時期、お母様の気がふれました。

 支離滅裂な言動が目立つようになり、もはや会話は成り立ちません。

 被害妄想と脈絡のない単語を吐き出す、珍妙な生き物と成り下がりました。


 この時、私は二つのことを知りました。

 一つ、当時のお母様の実家は、お母様が重ねて言うほど貧乏でなく、むしろ比較的豊かな部類で、娘を大学に通わせるぐらいの余裕はあったということ。

 二つ、お母様は当時某名門大学の受験に失敗し、なくなく地元の三流企業へ就職したものの、周りの人間と折り合いがつかず、すぐにやめてしまったこと。


 結局のところお母様は、理想の教育とかこつけて私を怒鳴りつけ、そして抑圧することで、鬱憤を晴らしていただけなのです。

 どうにもならない自らの人生への憤りを。

 だからこそ私がお母様を必要としなくなった途端、彼女の繊細な心は壊れてしまったのです。


 私はそんなお母様を見て――特になんとも思いませんでした。

 しいて言うなら「ああ、なんとちっぽけな女性なのだろう」と思ったくらいです。

 しかし、私の地獄はここからでした。

 元々夫婦仲は

 母のヒステリックに耐え切れなくなった父が、母との離婚に踏み切ったのです。


 止めようにも、すでに書類は役所に受理された後でした。

 これにより、私は母に引き取られることとなり、名字は「河野」から母の旧姓である「鵜渡路」に変わりました。

 いえ、いえ、そんなことは大した問題ではありません。

 問題は、父方の親戚である八伏お兄様との繋がりが、完全に断ち切られてしまったことです。


 私は、すぐさまかつてのアパートを訪ねました。

 八伏お兄様は――すでに大学を卒業し、アパートを出て行った後でした。


「お兄様……」


 バラ色だった日々が一気に、絶望に変わるのを感じました。


 私は以前とは比べ物にならないほど成長しました。

 以前とは比べ物にならないほど多くのものを手に入れました。

 しかし肝心の八伏お兄様の姿がありません。


 もし、もしも次に八伏お兄様と再会することが叶ったら、必ず言おうと決めていたことがあります。


「私と……一つになりましょう……」


 ――さて、私がこことは異なる世界で八伏お兄様と再会したのは、高校二年生の春先のことです。



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