32「金平糖」
言ってしまえばケアレスミスでございます。
今にして思えば……いや、今思っても取るに足らない、実に些細なミスであります。
しかし私はこのささやかな誤りを、生涯忘れることはないでしょう。
なにせこの一事によって私は中間テストでの満点を逃し、そして生まれて初めて、順位のつく競い事で自分以外の誰かに一位の座を譲ってしまったのですから。
「――あなたもう、ウチの子じゃないから」
お母様は最後にそう言って、私を家から閉め出しました。
ご丁寧に、鍵を上下に二つもかけて。
町は、すでに夕焼け色に染まっております。
……おかしな話とは思いますが、当時の私にとってお母様とは世界の全てだったのです。
いえ、世界そのものと言っても過言ではありません。
父母以外での私の交友関係というのは絶無と言ってよく、私の行動原理は全てお母様の期待に沿う事に帰結いたします。
従って、お母様に死ねと言われれば当時の私は自ら命を絶つほかなく、子供でないと言われれば、事実子供ではないのです。
そして私はこの度、世界から締め出され、虚空を漂うこととなりました。
この時の心細さとくれば、今でも胸が苦しくなるほどです。
私はしばらくの間、そこに立ち尽くしていました。
しかし、ここはかつての我が住居、その敷地内であり、留まっていれば不法侵入に問われることは請け合いです。
なんせもう、お母様とは親子の縁を断ち切られてしまったのですから。
ゆえに、私はあてどもなく町を彷徨うことにきめました。
尋ねる友人はありません。
この身一つで追い出されたので、できることも何一つありません。
夕刻を報せるチャイムが町中に鳴り響いておりました。
すれ違う人々は、おそらく各々の家路に着いているのでしょう。
誰も彼もが、心なしか安堵に満ちた表情を浮かべています。
しかし、私に帰る家というものはすでにありません。
ぢりぢりと音を立て、不安と焦燥が私の思考を焦がしてゆきます。
町にはこれだけ幸せそうな人々が溢れているのに、私はどこへ交わることもできない。
あまりの息苦しさに窒息してしまいそうになります。
私は一体どこへ行けばいいのでしょう、私は一体何を為せばいいのでしょう、私は、私は、嗚呼……
私は心の内で叫びました。
誰か、誰か私を助けて。
誰か、私を受け容れて――
「――あれ? 何してんの舞ちゃん」
声なき祈りは、まもなく届きました。
「八伏、お兄様……?」
彼は道端にしゃがみこんで、買い物袋を片手に、ミミズほどの小さな蛇と戯れておりました。
その無邪気で、どこか間の抜けた姿に私が一体どれだけ助けられたのか――きっとあなたは知らないのでしょうね。
「あ、そういえば舞ちゃんって頭いいんだよな、教えてほしいんだけど蛇って金平糖食うかな?」
食べないと、思いますよ。
そう答えたのち、私はとうとう耐え切れず、泣き出してしまいました。
物も分からない幼子のように、みっともなくわんわんと。
「え!? なになに!? 舞ちゃんもしかして蛇嫌いだった!?」
まるで見当はずれのことを言ってしどろもどろするあなたを見ていると、なんだか心の底からあったまってきて、かえって涙が止まらなくなるのでした。
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「ちょっと散らかってるけどごめんなー、今片付けるから」
そう言って八伏お兄様が照明を点けます。
その時私は、お母様が誰かを家に招く際の「ちょっと散らかってるけど」と、八伏お兄様の言う「ちょっと散らかってるけど」に大きな隔たりがあることを知りました。
八伏お兄様のお部屋は、文字通り散らかっておりました。
飲みかけの飲料がそこかしこに散りばめられております。
布団はしきっぱなしで、掛布団はシュークリームみたく丸まっていました。
そしてなんと、読みかけの雑誌には(恐らく栞の代わりでしょうか?)まったく無関係の文庫本が挟まっているではないですか!
初めて足を踏み入れる、一人暮らしの男性の家――
未知でした、目に見える全てが未知でした。
「お、あったあった、これに座ってくれ」
おもむろに、お兄様がある物を手渡してきます。
それは綿が外側に寄り、毛玉のこびりついた、鼠色のクッションです。
お兄様がこれをフローリングに直置きするので、私はおそるおそる腰を下ろします。
――これもまた、初めての体験でした。
「しっかしまあ、ひどいよなぁ」
私が未知を堪能していると、お兄様は床にモップをかけながら言いました。
「テストで2位取っただけで私の子供じゃない、なんてさ、十分すごいじゃんか、俺なんか毎回下から数えたほうが早かったけどなぁ」
私は、沈鬱な気持ちになります。
「……お母様は私のことを思って言ってくれていますから別段ひどいとは思っておりません、お母様の期待に沿えなかった私が悪いんです……」
「親孝行だなぁ、俺んちだったら取っ組み合いの喧嘩になるけど」
「……そんな、できませんよ」
だって、お母様は私の世界ですから。
とまでは、あえて申しません。
「……この度は本当に申し訳ございませんでした……赤子のように泣きじゃくった挙句、家にまで上げてもらうなんて……」
「はは、舞ちゃんかわいくないなー」
「か、かわ……!?」
これには、思わず言葉を失ってしまいました。たとえ冗談とはいえ、誰かに罵られるのも初めての経験です。
「いいんだよ、従兄弟なんだし、泣いてもワガママ言っても、これでも俺もう大人なんだぜ?」
「そ、そうですか……お構いなく……」
「うーん、見事にガチガチだな……じゃあ試しになんかワガママ言ってみ?」
それはたいへん難しい注文であります。
人前で泣くことはおろか、ワガママを言うことなどもってのほか、全てお母様に禁じられております。
ワガママの言い方など、知りません。
言葉に詰まっていると、お兄様はわざとらしく耳を寄せて
「なになに、お菓子が食べたい?」
「え、いえ、私は何も」
「しょうがねえな、ほら」
有無を言わさず、お兄様はある物を手渡してきました。
恥ずかしながら私は一瞬、自らの手の内に星がこぼれ落ちてきたのだと本気で信じてしまいました。
「これは……」
「金平糖、見た目が好きで見かけるとよく買うんだけど、毎回途中で飽きちゃうんだよな、やる」
「で、でも、こういった菓子の類はお母様に禁じられていて……」
「オラァッ!」
「むぐ!?」
有無を言わさず、無理やり口の中に押し込まれました。こんな強引な手を取られるとは、まさか夢にも思っていなかったので、私は目を白黒させてしまいます。
しかし、舌先がそれに触れた時、私は思わず我を忘れてしまいました。
……甘い。ただ甘い。
成分の話をすれば、単なる砂糖の塊。
でも、どうしてでしょうか?
どうしてこれを舌の上で転がすと、こんなにも穏やかな気持ちになるのでしょう?
「腹減ってたら、なんでも美味しく感じるもんさ」
八伏お兄様は悪戯っぽく笑いながら、そう言っていましたが、おそらくこれはそれだけではないはずです。
ですが
「……八伏お兄様は、物知りですね」
私はそう言って彼に微笑み返しました。
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