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31「出会い」


 お母様はたいへん厳しいお人でした。

 勉強でも運動でも、とにかく何においても娘が一番でなければ気が済まない――そういうお人です。

 加えて真面目すぎるきらいがありました。

 それゆえにお母様は……ほんの少し、周りの人たちを見下していたのです。


「いい? あなたは私の娘なの、あんな馬鹿どもに負けたら恥よ? あなたの恥は、私の恥なの、分かるわよね?」


「私があなたぐらいの頃は、家が貧乏だったから勉強なんてしたくてもできなかったの、あなたにはつらい思いをしてほしくないから、あなたのために言ってるのよ」


 それが、お母様の口癖でした。

 ああ、あとこれも。


「一番になれないなら、私の子どもじゃない」


 そんな具合で、私は常に母との絶縁と隣り合わせの小学生時代を過ごしました。


 寝る間も惜しんで勉強をしました。

 膨大な数の復習と、先の見えない予習に心が折れそうになりました。

 運動も忘れません。毎日頬を伝う塩っぽいソレが、汗なのか涙なのか分からなくなるほどに走りました。

 他にも掃除洗濯炊事――人から褒められることは、なんだってやらされました。


 友人と遊ぶ暇なんてものは当然ありません。

 自己鍛錬の合間に自己鍛錬、息抜きに自己鍛錬です。


 もちろん私も当時小学生であるからして、たまには友達と遊びたいな、などと思うこともあります。

 しかしそんな私に対して、お母様は言いました。


「友達は選びなさい、頭の悪い子と一緒に遊ぶと、あなたまで馬鹿になるの」


 そういうものなんだな、と思って、私はお母様の言う頭の悪い友人と遊ばないよう努めました。

 まぁ、母の基準から言えばそもそも「遊ぶような子は頭が悪い」ので、結局、誰と遊ぶことも叶いませんでしたが。


 ああ、小学校の話をするなら、これを語らずにはいられません。


 私は、学校から帰ればまず、その日返却されたテストの結果を全て報告する義務があるのですが、それ以外にも――教師を含めた周囲の人間が、私へ送った賛辞の言葉も一つ残らずお母様にお伝えしなくてはなりません。

 もちろん私などは未熟な人間ですから、一度も褒められない日というのもままあります。

 しかしそれを素直に伝えるとお母様はひどく、ひどく機嫌が悪くなるので、虚偽の報告をすることもありました。


 頭がいい、育ちがいい、礼儀正しい、優しい、頼りになる。

 このあたりは鉄板で、お母様のお気に入りでもあります。


 言うまでもなく、私はこの時間がなにより嫌いでした。


 そんな風に、規則正しく、誰からも褒められ、恥じることのない小学校時代を送りました。

 幼い私にとって、これはたいへんな重荷でしたが、母が「私のためだ」と言うので、従いました。

 そして私は、中学生になります。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 祝事か弔事か、もはやそれがなんの集まりだったのか、今となっては思い出すことも叶いません。

 しかしそれが、親戚一同が席を同じくする会合であったことだけは、定かであります。


「舞ちゃんはできた子だぁ、俺たちとは頭の作りが違うな」


「今は〇〇中学だってね!? 名門中の名門じゃんか!」


「将来きっといいお嫁さんになるぞぉ!」


 親戚一同が、私を見るなり口々に褒めたたえてきます。

 私としては愛想笑いを返すぐらいしかできないのですが、お母様は鼻高々で気分もよろしいご様子。

 ……その時までは。


「ホント、ウチのせがれも舞ちゃんと足して二で割ったらちょうど良くなるのに、あはは」


 登美子叔母さまが冗談めかしてそう言った時、私はお母様の表情があからさまに引きつるのを確かに見ました。

 母は見ての通りの真面目な人ですから、冗談が得意でないのです。

 私は幼心にもあまりの気まずさに耐え切れず、自らのおさげ頭をいじくりました。


「亮くんは、今何を?」


 お母様は引きつった顔を気取られないようにするためか、別段興味もないだろうに問いかけます。


「ウチのバカ息子はいっちょまえに一人暮らしなんか始めて、呑気に大学生やってるわよ、ああそういえば河野さんのおうちから近いんだっけ? △△ってアパートなんだけど……」


「……いえ、そうではなく、今どこにいるのかということです、姿が見えませんが」


「ああ、なんか久しぶりにこっち帰ってきたから地元の友達と飲むんだって、そういえばまだ帰ってきてないね」


「の、飲む? そう、ですか……親戚の集まりをほっぽいて……」


「バカな息子を持つと苦労するわよ」


 お母様の顔はいよいよしかめっ面と呼ばれる域に達しましたが、叔母さまはまったく気が付きません。

 私のそわそわも極まってしまって、汚れてもいない眼鏡を拭き始めました。

 どうか私に話題が振られませんよう……

 そんなささやかな望みを込めながら。


「――舞ちゃんも、久しぶりに亮と話したいよね!?」


 ……しかしそんな願いもすぐに打ち砕かれました。


「え、えっと、その……」


 言葉に詰まってしまいました。

 なんせ久しぶりに、と言っても、八伏お兄様と話したのは遥か昔、まだ私が小学校に上がる前のことです。

 率直なことを言ってしまえば、話したくはありません。

 何故なら男の人が苦手だからです。

 それが年上ともなれば、もう向き合っただけで身体が強張ってしまいます。


「すみません、私たちそろそろお暇させていただきますので、残念ですがまたの機会ということに」


「そっか、残念だね」


 私に助け船を出した、わけではないでしょう。

 お母様は、どうやら純粋に私と八伏お兄様を会わせたくないようでした。

 しかし、その時です。


「――かあさん!! ライター貸してくれ!!」


 凄まじい大音量が、玄関口から私たちの耳へ飛び込んできました。

 私とお母様はびくりと肩を跳ね上がらせます。

 しかし登美子叔母さまは何か察したらしく「またか」と頭を抱えて、居間の戸を開け放ちました。

 そこには、信じがたい光景が広がっていました。


 なんと――二十歳を超えた大の男三人組が、頭のてっぺんから爪先まで泥だらけになって、玄関先に佇んでいるではないですか!


「なんだいバカ息子! 今度はなにやらかした!?」


 叔母さまが怒鳴りつけます。

 すると、ぐったりとした二人に肩を貸す、中央の男性がこれに答えました。

 もちろん、泥だらけの顔で。


「説明するとスゲー長くなるんだけど!」


「簡潔に!」


「つーちゃんとよっちゃんがべろんべろんに酔っぱらって頭から田んぼに落ちた! だからライター貸してくれ!」


「アンタ昨日の夜からこんな時間まで飲んでたのかい!? そーいうところばっかりとーちゃんの若い頃に似て……! で! なんでライターが要るんだい!?」


「こーいうことだよ!!」


 その時、彼はおもむろに泥濡れのTシャツの裾を掴み、そして胸のあたりまでまくし上げました。

 私は思わず小さな悲鳴を漏らしてしまいます。

 なんせ、男の人の裸を見たことなんて、初めてのことでしたから。

 お母様も、苦虫を噛み潰したような表情です。


「ヒル! ヒルにやられた! いや現在進行形でやられてる!」


 Tシャツの下には、彼の身体にとりつく小さな芋虫のような何か。

 よく見ると、隣でぐったりしている二人の男性の腕や首元にも、ソレがとりついています。


 ここで会場は笑いの渦に包まれました。


「だはははは! 見事にやられてやがる!」


「ひいいっ! 腹いてえ! ここにバカがいるぞ!」


「確かよっちゃんはタバコ吸ってただろ!? ライター持ってねえのかよ!?」


「田んぼに突っ込んだ時全部イカれた!」


 一層、笑いが激しくなります。

 皆が皆、お腹を抱えて笑っていました。

 それこそ、心の底から楽しそうに。


「おーい! 誰か亮にライター持ってきてやれ! 確か仏間にあっただろ! 線香も一緒にな!」


「塩も効くのよね、確かあのへんにしまってあったはず……」


「俺はカメラ持ってくるわ、めちゃくちゃ面白いから」


「おい! 撮るなバカ!」


「バカはアンタだよこのバカ息子!」


 叔母さまが再び彼を怒鳴りつけ、皆がそれを笑います。

 私は思わず、くすりと笑みをもらしてしまいました。

 記憶が正しければ、私はこの時生まれて初めて――心の底から笑ったのです。


「……帰るわよ、舞」


 半ば強引に、お母様に腕を引かれます。

 そして彼らの傍らを通り過ぎようとするとき、彼が私を呼び止めました。


「おお!? もしかして舞ちゃん!? 見ない内に随分と大きくなったな!?」


「え? あ、お、お久しぶりです……」


「ははは、なんかごめんな騒がしくして! えーと、そうだな、なんか悩みとかあったら相談に……」


「――失礼、私たちはもう帰りますので」


 お母様に腕を引かれて、私たちはその場を後にします。

 帰りの車内で、お母様は終始不愉快そうにしていました。


 だからこそ、私はとうとうこれを口に出す機会を失ってしまったのです。

 どうしてかは分かりません。

 しかし、彼のことを見ていたら何故か、重く沈んでいた心が僅かに軽くなるようなそんな気がしたのです。


「八伏、お兄様……」


 ――中学生活初めての中間テストで学年二位に収まったのは、そのすぐ後のことでした。



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