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30「三万六千と五百」


 奇妙な光景であった。


 先ほどまで阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた港町の一角が、今やのどかな春の陽気をたたえている。

 視界に広がるは野花咲き誇る一面の花畑。

 ずらり並んだ見事な桜並木に、見上げんばかりの枝垂桜。


 そのどれもがかすかに発光し、夜の闇を淡く照らしている。

 それは誰もがほうと溜息を吐いてしまうほど、幻想的な光景であった。


「ワハハ、絶景かな絶景かな」


 俺は腰に手をあて、精一杯魔王っぽい台詞を口にしてみる。

 それは魔王と言うより、殿では?

 そんなツッコミあがる間もなく――町は歓声に包まれた。


「すげえ! すげえぞ兄ちゃん! まさかあの怪物を!」


「Bランクロール持ちですらまるで歯が立たなかったのに! それを、こんな、こんな……!」


「俺は信じてたぜ! 兄ちゃんが魔王のロール持ちだって!」


 おい、一人死ぬほど調子のいい奴がいるぞ、お前さっきブーイング飛ばしてたのちゃんと見てたからな。

 でも、まぁ、いいさ。


 ふいに熱を感じる。

 イオネが俺の胸に顔をうずめてきていたのだ。


「……どこで手に入れたんだよ、そんなスゲー力」


「自分探ししてたら友達に譲ってもらった」


「何が自分探しだよ、気取りやがって……今度からはボクも連れてけ」


 ひゅーひゅーと観衆がはやし立ててくる。

 おっさんどもの生暖かい視線が、妙に鬱陶しい。


「おいおいおい! あのイオネちゃんが、これ……信じられるか!?」


「青春だ! 青春だろこれ! 甘酸っぺえ!」


「あのクソ生意気なイオネも、いつまでもガキのままじゃねえんだな……」


 よよよ、と涙を流すおっさんさえいる始末。

 イオネはというと、いつもならばきっとぎゃあぎゃあと言い返しているところだろうが、意外にも無言で、ただぎゅっと抱き寄せてくる。

 現状を正しく把握できていないのは、おそらく俺だけだ。


 え、なにその反応。

 男同士が抱き合って、こんな感じになるの?


 ……まぁ、皆楽しそうだからいっか!

 何を隠そう、俺の強みとはこの能天気さである。


 ――そんな時、ずずううん、とやけに重たい音がして、世界が揺れた。


「うお、なんだこんな時に!?」


「地震か!?」


 誰かが言った。

 しかし――違う。

 魔王のロールを得た俺は、これがもっと悍ましい何かであることを直感する。


「イオネ! 飛ぶぞ!」


「え、と、飛ぶって、まさか……」


 そのまさか。

 俺は膝を折り曲げて、バネのようにしならせ、そして飛翔する。

 周りからあがる驚嘆の声は、すぐに遠くなった。


 視界が一気に開ける。

 そこからはリューデンブルグの景観が一望でき、そして海も……

 俺は歯噛みをした。


「……こりゃあ、いよいよだな」


「なんだよ、これ……」


 イオネがその光景を見て、絶句する。

 それはそうだろう。

 果てもなく続く水平線が――なくなっていたのだから。


 一体どういう仕組みなのか、リューデンブルグを囲む海がある場所からぷっつりと途切れている。

 いや、海だけでない。

 大地も、空も、まるで町の周りだけを切り取ってしまったかのようだ。

 先に広がるは光も射さない無限の闇。

 ――世界の果ては、すぐそこまで迫ってきていた。


「終末だ……」


 イオネがぼそりと呟く。

 ……そうとも、その通りだ。


 俺は魔王のロールを得たことで、世界の意思と呼ぶべきものとも繋がることが叶った。

 そしてメイファンやペルナート、魔王が危惧していたものの正体を知ったのだ。


「……世界が収縮を始めた」


 ――ロールとは、単なる役割ではない。

 それは人に与えられたシステムの欠片。

 世界を構成する要素そのもの。

 各々がロールに従って生きることで、世界は形を保つことが叶う。


 だが、翻ってこの騒動の元凶、鵜渡路舞の能力はどうだ。

 彼女のロール“愛の勇者”の祝福(ギフト)融和は“一時的に他者のロールを拝借する”というもの。

 しかし鵜渡路は、ロールを拝借したのちに相手を殺害した場合、ロールは返却されないという抜け道を見つけて、数多のロールを自らの中に取り込んだ。

 それはすなわち、この世界を構成するシステムそのものを自らの中に内包してしまうことに他ならない。


 いかな創造神といえ間違いはある。

 あの時の王様の言が、脳裏をよぎる。


 そう、その点で言えばこの愛の勇者のロールの存在こそが創造神の致命的な誤りである。

 何故ならば、愛の勇者のロールとは世界そのものを破壊しかねない、最凶のチートなのだから。


「……いや、収縮なんて生温いもんじゃない、逆転(・・)し始めたんだ」


「――ええ、その通りですわ、さすが八伏お兄様」


 頭上から身の毛もよだつほど美しい、女の声。

 ……ああ、そろそろ来る頃だと思ってたぜ。

 俺はゆっくりと頭上を見上げる。


 初め月が落ちてきたのかと思ったのだが、もちろん違う。

 天女の如し羽衣を身に纏った彼女の放つ後光が、そう思わせたのだ。


「……また一段と人間離れしたな、鵜渡路」


「誉め言葉として受け取っておきますね」


 鵜渡路舞が、にこりと微笑を浮かべる。

 イオネが遅れて顔を見上げようとしていたが、俺は「見るな!」と一喝して、彼の目を覆った。

 もはや鵜渡路は女神にも等しき存在と化した。

 常人があんなものを直視してしまえば、間違いなく気がふれてしまう。


「あら八伏お兄様、随分と仲がよろしいですのね、私、嫉妬してしまいますわ」


「俺はお前に嫉妬しっぱなしだよ、……一体、いくつのロールを取り込んだ?」


「道すがらに、ざっと三万六千と五百(・・・・・・・)ほどです、大した数ではありません」


 あまりにも彼女がさらりと答えるので、俺は冷や汗を流した。


 そりゃあ逆転もするだろう。

 三万六千人以上のロール持ちが、鵜渡路によって殺害され、流転の輪から断ち切られたのだ。

 そして今、三万六千と五百のロールが彼女の中で破壊と再生を繰り返し、新たな世界を構築し始めている。

 それはおおよそ人に耐えられる代物ではない。


 王は、かつての愛の勇者がその慈愛の深さゆえに争いを好まず、自ら命を絶ったと言っていたが、おそらく真実は違う。

 前代の愛の勇者は、このロールの恐ろしさに気付いていたのだ。

 もしくは実際に他者のロールを取り込み、その耐えがたい苦痛に死を選んだのかもしれない。

 しかし鵜渡路はそれすらも完璧な笑みをたたえながら、飲み込んだ。


 それはもはや、神の領域――


「魔王のロールは私が八伏お兄様に差し上げる予定でしたのに……ですがまぁ、ここは手間が省けたと思って喜ぶこととしましょう、もうすぐ私の悲願が成るのですから」


「……それは大層なことだ鵜渡路舞、いや」


 俺はここで一旦言葉を区切り、そして改めて彼女の名を呼ぶ。


「――河野舞ちゃん」


 彼女はふふふと微笑んで、おどけたように言う。


「ですから、あの時のように気軽にウノちゃんとお呼びくださいと申しているじゃありませんか、八伏お兄様」


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