月へ還る
ただ人として生きたかった魂の物語
2010年冬。
湖の深い蒼に満月が放つ淡い光が一筋。
その光の筋を進む2つの影。一つは白く、一つは黒い。
あれは山犬か。いや、もっと大きな獣。
例えば、狼……。
写真家の片山は数日前にこの山奥の隠れ里・大神村に入った。
先輩の太田から「村の奥に森に囲まれた湖があって、満月を映してできる光の筋・月の道撮影のベストスポットだ」と聞いたのがきっかけ。太田はこうも言っていた。
「村では野宿が基本になるぞ。宿がないのはもちろん、村の風習で『月忌み』というのがあって、満月の夜は村人は家に籠ってしまうんだ」「かわりにやたらとでかい犬が繋がれもせずうろうろしていやがる。襲ってこないから飼われているとは思うが、少々怖いぞ」
あれが例の犬か。ちょうど面白い位置を泳いでいる。カメラのセッティングをしつつ1度だけシャッターを切った。
思いの外綺麗な絵柄。狙わず無欲に切ったシャッターが絶妙な一瞬を捉えることはままあるものだ。「狙って撮らなきゃプロじゃない」というのは、偶然の一瞬をも自分の手柄にしたい者の詭弁だと片山は思う。
少しだけ周りの照度が変わった。
「まいったな。欲しい色が出なくなっちまう」
原因とおぼしき月を仰ぎ見た。さっきまで白く輝く完全な円だった天体は、ほの暗いオレンジ色に変色し左から欠け始めていた。
月蝕。
これもまた片山の今夜の狙い。だが、月蝕は日蝕ほど大きな照度の変化はないのが普通ではないのか。不思議に思いつつ2台あるうちの1台のカメラをより暗い状態に合わせて微調整した時、月が完全に隠れ、闇が濃度を増した。
漆黒の夜空にうっすらと浮かぶ月の輪郭は天体の姿ではなく、もっと暗いうろのように見えた。
夢中でシャッターを切る。
鈍色の月の欠片が、少しずつ輝きを取り戻しつつ膨張していく。
月が完全に元の姿を取り戻した時、片山は妙な胸騒ぎを感じた。
あの2匹が、どこにもいない……。
疾風は大神村に生を受けた。
何の変哲もない山間の村。退屈極まりない日常と、さらに退屈な満月の「月忌み」が支配する村。
中学生の頃、疾風は祖父に尋ねた。
「なんで月忌みなんてするの」
「満月の夜には恐ろしい人狼が出るからだ」
「それ、テレビの見過ぎじゃない。今時そんなのマジで信じてるの」
「とにかく、満月の夜は外に出るものじゃないんだ。大人になれば、嫌でもその意味がわかる」
大人がくだらない迷信を信じている。そのせいで、好きなロック歌手の歌のように夜中に家を抜け出すこともままならない退屈な村。
もう、こんな村たくさんだ。家出してやる。
疾風がそう決意するのにたいして時間はかからなかった。
次の満月の夜、疾風はバッグ1つに少しの着替えと小遣いを忍ばせ家を出た。満月といってもこの日は曇り。握りしめた懐中電灯を頼りに山道を国道に向かって歩いていたつもりが森の奥に迷い込み、湖の畔に辿り着いた。
雲の切れ間に青白い満月が顔を出した。
「なんだよ。満月って別にただ丸い月じゃないかよ」
懐中電灯を放り出し、生まれてはじめての満月に見入った。
ただの丸い月。
それなのに、どうしても目が離せない。
身体の奥が熱い。とにかく熱い。なんだこれは。
「村の子ね」
少女の声が静かな闇を抜けて頭の中に直接響く。
「ごめん、振り向かないで」
「は?誰だよお前」
「私には名前はないの」
「頭おかしいのかよ」
疾風は思わず振り向いた。そこには銀色に近い白い毛並みがなんとも美しい獣がいた。
「だから振り向かないでって言ったでしょ」
声は直接頭に響く。不思議と怖くなかった。
「私の声が聞こえるってことは、あんた大神家の子よね」
「そうだけど。ってか、お前、犬?」
「まだ知らないのね。今日は満月よ。あなたも今はヒトじゃないわ」
なんなんだこいつ。とにかく落ち着こう。まずは灯り……。
疾風の手が懐中電灯を虚しくなでる。掴めない。手の指が開かない。月の光にうっすらと見えたそれは、黒い獣の前足。
「蝕になるわ。お願い、見ないで」
その言葉とともに、月が大きく陰った。闇が濃くなると同時に、白い毛並みは同じく白い少女の肌に変化していった。そして、疾風の身体もまた……。
翌朝、疾風はそっと家に戻り、家出のことも湖畔での出来事も誰にも話さなかった。そして、もう二度と「月忌み」について大人を問いつめることもしなかった。
もうわかった。
わかってしまった。
この村の者に流れる呪われた血。
特に数十年に一人、満月の夜に生まれる者は誕生の瞬間獣の姿であるせいか、一生のほとんどを獣のまま過ごす。数年に一度の皆既月蝕の間にだけヒトの姿になる。その獣を神とし、神の声が聞ける者が生まれる一族・大神家が村を統べてきたのだ。
そして、もう一つ重大なこと。
神の声が聞けるのは、神一人に対し大神家の誰か一人だけ。
彼女の声が聞けるのは疾風ただ一人。
それから疾風は、皆既月蝕だけを待ち望んで生きた。
彼女の声は、どんなに離れていても頭の中に直接響く。けれど、獣の時の彼女は村の神としての思考しかできない。疾風と心を通わせるようなことは言わないし、疾風が想いを伝えてもそれ自体理解できない。ヒトとしての彼女の想いを感じ、触れられる機会は皆既月蝕のほんのわずかな時間だけ。
2007年8月28日、皆既月蝕。
その夜、疾風はヒトとなった彼女に訊いた。
「このままでいいのか」
返事はなかった。
「俺はお前の声を聞いて村の者に伝え、長の血筋を絶やさないために村の誰かと一緒にさせられる。けど、俺が本当に一緒になりたいのは……」
最後は言葉にならなかった。長い沈黙の後、彼女は言った。
「そんなこと言われても、どうにもならないじゃない。私にはヒトとしての戸籍も名前もない。寿命も普通のヒトよりうんと短いのよ」「死んだ後もヒトには戻れないのよ」
「ヒトとして死にたいか」
疾風は聞いた。
「できるだけ長く二人で居るよりも?」
「一緒に居ても、蝕以外の時は疾風の声が遠い。時々何を言っているのかわからない。私、どうして獣なの。ヒトじゃないの」
青い月が満ち始めた。彼女がヒトでいる時が終る。
「次の蝕の日、一緒に逝こう。蝕の間ならヒトでいられるだろ」
白銀の毛並みが頷いたように見えた。
2011年冬。
1年前のあの日、片山は月明かりを映す湖面に2匹の獣の姿を探した。
しかし、どんなに目を凝らしても獣の姿どころか流木一つない、鏡のような湖が広がるばかりだった。
「綺麗に。綺麗に撮ってください」
そう言って撮影のベストスポットを教えてくれた村の青年大神疾風が、名も知れぬ女性と互いの手首を紐で結んだ水死体で発見されたのは、それから1週間後のことだった。
「疾風君、君たちの姿、綺麗に撮ったよ。見てくれ」
片山は『月へ還る』と題した写真を鞄から取り出した。某新聞社主催のコンクール特選に選ばれ、片山を一躍有名にした1枚。
月の道をひたすら泳ぐ白と黒一対の獣。
そして、その作品と対をなすもう1枚。
「これは燃やしていくよ。二人の秘密、だろ」
片山は、高くかざした写真にジッポの火をそっと近づけた。
その写真には、皆既月蝕の月の陰と湖が織りなす漆黒の世界に寄り添う男女の、凛とした後ろ姿が映し出されていた。