彼女のフェルメール・ブルー
檸檬 絵郎様 主催
「アートの借景」企画参加作品
「なあ小峰。お前は、絵描くの好きか?」
薄暗い美術室。部活の時間も終わりを告げ、後片づけをしていた時だった。唐突に美術部の部長である、山百合沙織さんから話しかけられた。
「ええ、好きじゃなきゃ美術部なんて入りませんよ。部長をおちょくる為だけに入部するのもやぶさかではないですけど。——いてっ」
べちん、と手刀を頭にくらった。痛い。まあ実際、絵を描くのは好きだ。どちらかというと僕は絵画よりもイラストを描くほうが得意だ。白い紙とペン、あと少しの色味があればとたんに僕の世界は広がる。安あがりだと見くびらないで頂きたいね。そこから生まれる可能性は、無限だ。
「部長こそ、絵描くのと、可愛い可愛い後輩である僕と、どっちが好きですか?——へぶっ」
今度はグーで殴られた。すげー痛い。そんなの聞かなくても答えなんて知ってるんだから、嘘でもいいから僕だって言ってくれても良いじゃないか。
部長は僕と違って、でっかいキャンバスに筆で大胆に絵を描くのが好きだ。絵の具をたっぷりのせて、色彩豊かで重みのある作品を生み出していく。あんな華奢な身体からどうやってあんな迫力ある絵を生み出しているか不思議に思うくらいだ。
「……じゃあ、描きたい絵のために、大切なモノを捧げることが出来るか?」
突拍子も無い質問だった。でもその声はいつになく不安げで、少しだけ震えていたように思えた。
「どういうことですか?」
「フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』は知っているか」
もちろん知っている。オランダの画家、ヨハネス・フェルメール。彼の絵は精密なタッチと、鮮やかな明暗の対比で、見るものの視線を捉える。それに加え、細かな光の粒を描くことから、光の魔術師とも言われた。その彼が描いた代表作。頭には青いターバン、耳には大粒の真珠、真っ直ぐな視線をこちらに送る少女の絵。それが『真珠の耳飾りの少女』。
「あのターバンの青色な。あれは絵の具の材料にラピスラズリという鉱石を使ってあるんだが、当時それは非常に高価な品だった」
部長の揺れる視線は、窓の外。木枯らしが校庭の木々を揺らしている。どこか遠くを見ている彼女は、僕に何を伝えたいのだろう。
「今は絵の具は割と身近で、どこででも買えるな。安いのだったら100円ショップにも売っている。色によって値段が違う事もない。赤も緑も同じだ。……まあ日本画の絵の具とか例外もあるが」
彼女はいったん言葉を切り、小さく息を吐いた。
「でもあの当時はそうじゃなかった。絵の具は今よりずっと高かった。特にフェルメールのあの青色は、純金をすり潰して描いたようなもんだ」
当時、絵の具は画家が自分で練って作るものだった。色によって材料は様々だが、簡単に言うと鉱石をすり潰し、添加物を加えて粘度を持たせる。色によって材料費が違うのは当たり前だった。安価な青はアズライトが原料であり、先輩が言うフェルメールの青は、ラピスラズリという石を原料としている。日本では瑠璃と呼ばれ、その美しさから宝飾品にも使われた。欧州の近くではアフガニスタンでしか産出されず、ラピスラズリを使った青は海を渡って輸入された事から『ウルトラマリン(海を越えて運ばれた青)』と名付けられた。当時その価値は純金と同等、またはそれ以上かとも言われている。
時が経っても色褪せしない青。鮮やかで高貴な青。その青を惜しげもなく、たっぷりとキャンバスへ使ったのがフェルメールだった。
彼の作品にひときわ強い魅力を持たせたその色を、のちに人々は『フェルメール・ブルー』と呼んだ。
「ただ贅沢な絵を描きたかったのか、純粋にあの色を求めたのかは知らない。ただ事実として彼は描いた。フェルメール自身、借金をかなり背負っていたらしいが、それでもあの絵を描いたんだ」
美術史に詳しい訳でも、フェルメールおたくでもないので、僕も詳しい事は分からない。というか、フェルメールに借金あったとは。初耳情報だ。そっか、お金があってあんな絵を描いたわけじゃないのか。
「……何もかもしらがみを捨てて、絵だけを描いてみたい」
そう言った部長は、遠くを見ながら悲しそうに微笑んだ。
「……ふーん」
なんだかんだで、僕らは色々と縛られている。親や周囲の人間は、「普通」である事を望む。そして腹いっぱい勉強せよ、部活に心身捧げよ、交友関係を大事にせよ、と様々なプレッシャーを与えてくる。自分は自分で己れの能力や環境で見えない壁を作り上げ、視界を狭めている。夢を追えば笑われ、周囲の望むままを振る舞えば心が摩耗する。
部長はそういうものを全部取っ払って、絵だけを描きたいんだろうな。金がなくても材料を揃えて、友達と遊べなくても時間を確保して、成績が落ちようが何しようが、ただ絵を描き続ける。ここまできたら、世間じゃ立派な変人だ。
二、三歩進んで部長の目の前に移動した。身長は僕の方が高いので少し見下ろす感じだ。彼女の視線は変わらず窓の外にあった。おーおー、無防備なこって。僕なんて眼中にありませんってか。なんだか腹が立ったので、僕は部長の小さい鼻をムギュっとつまんでやった。
「——ぷぁっ!?」
「部長のやりたいようにやればいいじゃないですか。らしくない。いつもの強気はどこ行ったんですか」
僕が尊敬するこの部長は、もうとっくに絵の事しか考えてない。こういう事を考えている時点でそうだ。また少し腹が立ったので、つまんだ鼻をグイグイと左右にひっぱる。
「良いですか? 部長が描きたいように描いていいんですよ。その結果大事なもん無くしても、それ以上に大事なのが、絵なんでしょ?」
ふがふが、と何か言っているが無視だ。長いまつ毛に縁取られた瞳は、キッと僕を睨んでいて少しだけ涙で濡れている。やっと僕を見たよ。いいね。愉快な気分になって思わず口元がニヤけた。
「だいたいね、絵描きって昔から変人ばっかりなんですよ。部長だけじゃないですから安心してください」
ふいに彼女のしなやかな足が、僕の足先を思いっきり踏みつけた。まじで痛いんですけど。思わず手を離し、一歩後ろに下がった。
「もう、部長ったら。痛いなぁ」
「小峰が鼻をつまむからだ!」
顔を赤くして怒っている。さっきまでの心ここにあらず状態が一転、きっと目の前の僕のことしか考えてない。ざまあみろだ。
「でも、まあ、」
にこりと微笑む。先輩の目の奥をしっかり見据えて。できる限り爽やかに。できるだけ彼女の印象に残るように。
「大事なもの目一杯つぎ込んで、描けばいいじゃないですか。描きたいだけ描いたらいい。そんでやり過ぎて失敗したら反省すりゃいいんですよ。
もしそれで友達居なくなっても、僕がいますし。将来的には僕も立派な社会人になる訳ですから、お金に困ったんなら言ってください。僕はこれでも、絵に関しては部長をソンケーしてるんですよ」
あ、あっけに取られた顔してる。僕の言葉が予想外だったんだろうか。失礼な。
「小峰……お前、変わってるな」
「あれ、知りませんでした? 絵描きって変人が多いんですよ」
部長が噴き出した。先輩と方向性は違えど、自身も変人の部類に入っているのは自覚している。おかしくなって二人でクスクスと笑った。
「……ありがとな、小峰」
小さくこぼれたそのひと言に、ちょっとだけ胸がうずいた。けれど今は捨て置いておく。代わりにちょっとだけイジワルしてやろうとか思う僕って、やっぱりいい性格してるよね。
「なぁーんの事ですかー? 僕は思ってる事言っただけなんですけどねー。でもそうですね、部長がそんなに感謝の意を示したいっていうなら」
ふわりと彼女の髪の香りが鼻に抜ける。この目の前にいる人を応援したいと思う反面、めちゃくちゃに壊してやりたいという衝動もある。今手を伸ばせば、それができる。その時に彼女は、いったいどんな顔をするんだろう。
「部長。裸婦画描きたいんで、モデルになってくれません? 」
※裸婦画……文字通り、裸のお姉さんの画。
部長は笑顔のまんまピシリと固まった。
よし今だ。僕は部長の制服に手を伸ばした。しかしボタンに手をかけようとしたところで、遮られた。遮られたというか、僕の手をパシンと払いのけたかと思うと、即座に腹に一発食らった。思わず「おっふ」と情けない声がでてゆっくり床に膝をつく。相変わらず容赦がない、重い一撃だ。
「もう!! 小峰のばかっ!!」
僕はそのまま床に倒れ、部長は倒れた僕にさらに蹴りをいれて去っていった。ちょっと意識が飛びそうだ。
まあ、元気になってくれたみたいだからいっか。思わず力が抜けて、ふっと笑ってしまった。横たわったまま、去りゆく部長の後ろ姿を眺める。そう、悩まないで好きなだけ絵を描けばいい。僕はそんな部長に憧れてるんだ。悔しいかな、今の僕じゃまだ手も届かない。横にも立てない。支えもきれない。これじゃ名前も呼べないよ。
僕はゆっくりまぶたを閉じ、彼女の笑顔を思い浮かべた。そして意識が闇に包まれていった。
……カッコよく言ったけど、気失っただけ。
おかげで風邪もひいちゃったよ、ちくしょう。
ヨハネス・フェルメール
「真珠の耳飾りの少女」制作年1665年(?)
所蔵 / マウリッツハイツ美術館ーオランダ