日が沈み -6-
一瞬振り返った正吾の目に床に崩れ落ちる真夜が映った。
その瞬間にはもう方向転換している。
迷いどころか、考えることすらしなかった。
視界の奥から幾本かの銀光が飛来する。
今度は身はすくまなかった。
目を見開いて、その中に紛れた糸のついたナイフを探す。
正吾の足元を狙うように投擲された一本がそれだ。
ただその一本だけに注意を払う。
よく見ればその一本だけすでに他のナイフとは軌道が違っている。
天井に立った疾風と同じ重力に影響されているこのナイフは、床に向かって投げられて、天井に向けて落ちる。
だから足元に向かって飛んでいるように見えて実は……、正吾の腹に向けて<落ち>る!
右手で頭をガードして、左手のナイフでその一本を弾く。
触れたその一瞬だけ重力が逆転して胃がせりあがったが、直後に腕に突き刺さったナイフの痛みが勝った。
痛みというよりは衝撃。
腕を貫かれたというのに、痛みは全身に広がった。
だがあの時ほどではない。
火災の中、姉の手を掴んだ腕を瓦礫で切った。あの時に比べればっ!
正吾は自然と口元が緩むのを感じた。
――いける。全然大したことないじゃないか。
真夜をかばうようにその前に躍り出る。
獣の返り血を浴びた真夜は床に倒れ付して小刻みに痙攣していた。
熱のせいではない、獣の突進を受けたダメージだ。
骨折か、下手をすれば内蔵を損傷している。
こうなればもう一か八かしかない。
つまり疾風を倒して、真夜を病院に連れて行く。
「にげ……て……」
「置いてはいかない。必ず連れて帰る」
真夜の持ってきた剣のうち透明なほうを持ち上げる。
疾風の能力は視界を遮っても意味のないものだ。
だから防御がしやすいほうがいい。
右手には何も持たないことにする。
小回りの利かない腕なので、大きな剣は邪魔なだけだ。
「なんだよ。俺の相手はお前か。赤の後継者とか言うが、ただの感染者じゃねーか。それともお前は俺をイカせてくれるのかよっ!」
投擲。
しかしこれまでと比べ数が少ない。
威勢の良さとナイフの残量は別ということだ。
それに加え、幅広の剣はかざすだけで真っ直ぐ飛んでくるナイフはすべて弾くことができる。
気をつけなければいけないのは疾風の立ち位置だ。
天井に立っているのなら下から、左の壁に立っているのであれば右から、右の壁ならば左から、それぞれ糸付きのナイフが落下してくる可能性がある。
だがそれにさえ気をつけていれば!
正吾はぐんぐんと疾風との距離を詰めた。
疾風のナイフがなくなるまで待ってなどいられない。
糸付きのナイフが足元に飛んでくる。
正吾はそれを剣で弾かずに、わざと右手で受けた。
手のひらをダガーナイフが貫いて、刃先が手の甲から覗いた。
正吾はそのまま右手を握り込んだ。
世界の上下が反転して、正吾は天井に向かって落ちた。
「へへ――、捕まえたぞ。てめぇ」
糸で繋がっている間は疾風と同じ重力圏に取り込まれる。
ということは糸さえ捕まえてしまえば、土俵は同じ。
地面の向きが違うだけだ。
「発症者たってピンきりだな」
「感染者ごときがっ!」
疾風がナイフを両手に構える。
同じ立場に立ったところで本来ならば正吾には勝ち目がない。
彼の右腕は駅ビル火災の時の怪我で不自由だったし、単純に発症者は感染者よりも強い。
さらに左手に持った剣は真夜のもので使い慣れていない。
にも関わらず状況の勢いを正吾は掴んだ。
ただの感染者が死を、発症者を恐れず立ち向かってくるというだけで、疾風にしてみればありえないことであり、それに加え能力を把握されて利用されるなどあってはならないことだ。
その心の隙に正吾は踏み込んだ。
電気の来ていない蛍光灯の脇を踏みつけると、左手の剣を思い切り振り払った。
この剣は間合いでも重量でも疾風のダガーナイフにはるかに勝る。
疾風はこの一撃を交わして正吾の懐にもぐりこまなければならなかったが、感染者の攻撃を避けるという屈辱を彼は許さなかった。
疾風は受け止めた。
正吾は振り切った。
勢いのついた正吾の一撃を受け止めきれず疾風の体は後ろに倒れた。
――世界の向きが変わった。
上下逆さまのコンコースが、垂直に変わった。
「しまっ――!」
これがつまり真夜の言っていた<常に足元に向かって落ちる>ということなのか。
横300メートルほどのコンコースが一瞬にて縦300メートルに変化した。
駅ビルまで100メートル以上を足場もなく自由落下する。
正吾は咄嗟に右手のナイフを引き抜いて宙に投げた。
途端に世界の向きは正常さを取り戻し、正吾の体は1メートルほどを落下してコンコースの床を転がった。
「げほっ、げほっ……」
ひどい有様だ。
右手の平には穴が空いて糸を引くように血が流れ落ちている。
真夜の剣は取り落としてどこかに行ってしまった。
だが正吾は生きているし、疾風は駅ビルに向かって<落ちて>いった。
ひとまずは勝利したと言っていいだろう。
いいはずだ。
正吾は真夜に駆け寄ると、その体を抱きかかえた。
「いやはや、すばらしい……」
ぱち、ぱち、ぱち――と手を叩く空虚な音が響いた。
「まさか能力も持たずに疾風と百目を撃退するとは、感服しました。赤の後継者」
もはやくれてやる言葉などひとつもない。正吾はそのままよろよろと歩き出す。
「その意思の強さ、決意を実行に移す力、そして判断力。とても素晴らしい。まさに赤の血、あのお方の写し身のような方。素晴らしいのに、残念です。私たちの代表となるつもりはまったくない?」
正吾は応えない。応える必要がないからだ。
「残念、嗚呼、残念――。百目、いい加減に遊ぶのはおやめなさい」
「――エェ、死ンダノニ、マダ働カセルノ? 労働基準法違反ダ! 我々ハ、断固トシテ不当ナ労働実態ニ抗議スル!」
ぎゃあぎゃあと甲高い喚き声がコンコースに響いた。
「使い魔を一体失ったところで痛くも痒くもないでしょう。あなたには」
「差別ダ! 差別ダ! 命ヲ差別スルナ! 一寸ノ虫ニモ五分ノ魂ッテ言ウジャナイ、トコロデ五分ッテドノクライ?」
「一寸の半分ですよ。百目、晩御飯抜きでいいですか?」
「横暴ダ! 横暴ダ! ハハン、サテハだいえっとデ腹減ッテ気ガ立ッテルンジャネ?」
バサバサと羽音を立てながらコンコースの手前側奥、駅ビル側から一羽のオウムがぎゃあぎゃあ叫びながら飛んできた。
さらにその背後からさっき真夜が倒したばかりの獣がもう一体、意識を失った風の疾風を背に乗せて現れる。
それだけではない。
5体、10体と階段から獣たちがコンコースに上がってくる。
思わず振り返ると紅月の背後の階段からも同様に獣が上がってきた。
20体を超えたところで正吾は数えるのを止めた。
百目というからには50体くらいはいるのかもしれない。
どちらにせよ、正吾の対処能力をとっくに超えたことだけは明らかだ。
「百目は3日飯抜きにしましょう。赤の後継者を捕まえれば1日にします。生きたまま捕らえられたら今晩はデザートもつけましょう」
「ヨッ! 太ッ腹! デブ!」
「一週間飯抜きがお望みですか?」
「ヤダナー、冗談ッスヨ。トイウワケナンデ、大人シク捕マッテクンナイ? デザートワケタゲルヨ?」
甘く見ていた。
結局、正吾は赤の代行者とやらの戦力を、発症者の能力を甘くみていた。
自身が言ったとおりに発症者の能力はピンきりだ。
そしてこの百目とやらはとんでもない使い手だった。
「真夜、どう思う」
「ろくなことにはなんないね……」
腕の中で真夜は力なく笑う。
「ああ、同感だな。姉さんならこういう時どうするだろう?」
「まず面倒だなあって言って、大見得を切る」
「それも同感」
「面倒な性分だね、わたしたち……」
真夜が正吾の体を押して、自分の足で立った。
がくがくとその膝が揺れる。
「なに、一人30匹も倒せばおつりが来るだろ」
正吾は右腕に刺さったままだったダガーナイフを抜いた。
血があふれ出すが、今更だ。
「わたしが40やるから、兄さんは20でいいよ」
「年長者には獲物を譲るもんだ」
「無理やりだなあ。でも兄さんのそんなとこ好きだよ」
「そりゃそうだろ。姉さん譲りだからな」
二人は背中を合わせて肩を揺らせて笑う。
「オオイ、俺ノ飯ノコトモ考エテヨ。ゴ飯抜キ辛イノワカルデショ」
「それがどうした。かかってこい。カニとかエビとかみたいな外見しやがって、お前らまとめて鍋にしてやる」
正吾と真夜を囲んだ獣の輪が崩れた。一気に中央に向けて傾れ、そして激突した。




