日が沈み -5-
こんなにも死をはっきりと感じたのは人生で二度目のことだった。
一度目は思い出すまでも無い。
あの駅ビル火災だ。
普通に考えれば正吾はあの時死んでいたはずだった。
いくつもの幸運が重なって、偶然生き残ったに過ぎない。
では二度目はどうだ。
記憶にある迫り来る炎と、目の前の獣を見比べた。
――似たようなもんだな。
生き残れるという気がしないという点においては、そっくりそのままだ。
だが絶望を感じないという点においても同様だった。
諦めなければ機会はあるはずだ。
正吾にしたってこの5年を遊んで過ごしていたわけではない。
朝子に託された真夜を守るために自分を鍛えてきた。
真夜との手合わせで一度も勝ったことがないものの、ずぶの素人というわけではない。
倒せなくとも身を守るくらいはしなくてはいけない。
獣を視界から外さないようにしながら辺りを見回した。
ベンチ、植木、ぼろぼろになったスタンド、障害物は多くはないが、一応ある。
ぐいと獣が身を屈めた。
頭を下げ、下半身を高く上げる。
獲物に飛び掛る寸前の猫のような仕草だ。
とにかく最初の一撃だ。
それを交わさなければ始まらない。
右手に見えるスタンドが身を紛らわせるのには最適に思えた。
タイミングを計ることなどしない。
思いついた時点で動き出すのが最速に決まっている。
正吾が床を蹴った。
獣が床を蹴った。
スタートはほぼ同時だった。
耳障りな音が響いて、コンコースの床が削り取られる。
床の破片を撒き散らしながら獣は正吾に襲い掛かる。
正吾は迷わずにスタンドの中に頭から突っ込んだ。
直後、獣がスタンドに突っ込んで木片を撒き散らした。
そのあまりの勢いにさらに2、3台のスタンドを破壊しつつ20メートルほど直進してようやく止まる。
「あちち……」
スタンドの残骸の中から正吾は起き上がった。
細かい木屑が手に刺さってちくちくと痛む。
手袋をしてくるべきだったと悔やんだがもう遅い。
拾い上げたナイフをしっかりと握る。
さっき男が投擲して真夜が弾き落としたうちの1本だ。
両刃のダガーナイフは重心が先にあって重い。
厚みもあって、切るよりは刺すのに適している。
とは言ってもあの獣の甲羅を貫けるかというと、あまり自信はなかった。
だがとにかく初撃はしのぎきった。
一度生き延びた。つまり二度目もありうる。
ナイフ使いの男ともはや理解外の戦いを繰り広げていた真夜が、一度切り結んだ後、正吾の前に落下してきた。
「まずいね」
「ああ、まずいな」
小さく囁きあう。
今なら後方はがら空きだ。
逃げられそうにも思えるが、獣とナイフ使いが同時に攻撃してきた場合、真夜には防ぎ切れないだろうし、正吾の逃げ足では獣よりも早く階段にたどり着けない。
「傷は平気か?」
「致命傷じゃないけど、こんなに動いてると血が止まらないね」
つまり長引けば長引くだけ不利になっていくということだ。
「……俺はどうすればいい?」
「なんとか逃げられないかな。わたしなら二人相手でも逃げ切れるし」
「あのバケモノから逃げ切れるような足は無いな」
「疾風相手なら逃げられる?」
「あの男か」
「うん。重力制御能力で接点のある相手にも影響を及ぼせるの。だから糸のついたナイフを食らうとあいつと同じ重力圏に取り込まれる」
「逆に言えばそれさえ食らわなければ普通の人間と変わらないわけだな?」
「普通の発症者ね。発症者の身体能力が普通の人より高いことを忘れないで。でも疾風には弱点もある。足下に向けて落下する能力だから、屋外ではまともに運用できないの。空に向けて落ちたら自滅だからね」
「なるほど。外まで逃げ切れば分があるんだな。分かった。それしかなさそうだ」
「白いのは任せておいて、止めてみせるから」
「ああ、頼ん――」
ちらりと見た真夜の横顔にはっとする。
赤く火照った顔は戦闘による興奮だけではない。
思わず後ろからその額に手を当てる。
すごく熱い――。
「お前、熱あるじゃねーか!」
「平気だよ。これくらいなんともない」
「なんともなくねぇ!」
「おいおい、こそこそ話してるかと思ったら仲間割れか? こっちの相手もしてくれよ。死んじゃうぜ、寂しくて俺が死ぬぜ」
げらげらと疾風という男が哂う。
獣がぶるるると鼻息も荒く、その場で前足を床に何度か叩きつけた。
「大人しくこちらに投降していただけるのなら、命までは取りませんがどうでしょう」
「冗談じゃねーぞ、紅月。ここまでヤったら最後までイクしかねーだろ。百目もそうだろ、なあ」
ぐるるると獣は紅月と呼ばれた女に向かって唸りを上げた。
「あなたたちは!」
紅月という女の口調からして、三人の中では紅月がもっとも高い権限を与えられているようだったが、それが有効に機能しているとは言いがたいようだった。
少なくとも今現在、疾風と百目という発症者たちは紅月の命令を聞きそうには思えない。
「一度交わせば階段までいけるよね」
「ああ、だけど置いてはいかないぞ」
「うん、すぐ後ろをついていくよ」
「じゃ、そうしよう」
紅月と疾風がまだぎゃあぎゃあ言い合っている今のうちだ。
正吾は真夜の肩に軽く手を置いて、それを合図に振り返って走り出した。
真っ先に反応したのは百目と呼ばれた獣だった。
鋭く吼えて床を削る。
突進というにはあまりに暴力的なそれは、ハリケーンのように進路上にあるものをすべて吹き飛ばしながら、正吾と真夜に迫った。
正吾は真っ直ぐ階段に向かって走った。
真夜は足を止めて振り返った。
その視界にはもはや避けるには近すぎる位置に獣の顎が迫っている。
だが真夜には避けるつもりなど毛頭ない。
止めると約束したのだ。
ここで止める!
振り返った勢いに乗せた右手の楯剣清澄を、獣の鼻先に目掛け振り回す。
防御行動を兼ねたそれは能力によるブーストがかかり、人の限界を超えた速さで真夜と獣の間に割り込んだ。
人間相手なら両断できるほどのタイミングと力だった。
実際、獣の鼻先の甲羅は砕けた。
割れた。
だが獣の勢いは止まらなかった。
そのまま真夜の体に獣の巨体がぶち当たる。
真夜のブーツの鉄鋲が床と擦れて甲高い悲鳴を上げた。
「止ま、れえええええええええええ!」
牙に食い止められた楯剣清澄を強く押し、獣との相対距離を開ける。
左手の楯剣夜天をすばやく逆手に持ち直し、甲羅の割れた鼻先目掛けて突き入れた。
鼻先から肉を断った刃はそのまま獣の顎の骨を粉砕し、頭蓋に到達した。
真夜の腕の力というよりは獣の突進力が頭蓋を貫いた。
脳を割り、その向こうの頭蓋をも割って、後頭部の甲羅の内側に剣先が当たって、ようやくそこで剣は止まった。
しかしそれでもなお獣は前進した。
死んでいるにも関わらず、10メートルほど前進し、そこで足元をふらつかせ、やがてゆっくりと倒れる。
巨体が沈むと、コンコースの床が揺れた。
うまくやった。
出来すぎなほどだ。
足止めできれば十分だと考えていたが、これでかなり楽になった。
真夜は正吾を追うために振り返えろうとして、そして足をもつれさせて倒れた。
「あ、れ……」
視界が上手く定まらない。
足が上手く動かない。
さっきまで我慢できていたはずのだるさが、もはや抗えないほど大きな波になって全身を包んでいる。
――まだ! まだ待って!
しかし体は動かなかった。残酷にも意識は落ちなかった。




