日が沈み -1-
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光の中から闇を見ることはできない。
闇の中では何も見ることはできない。
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「あなたは赤の後継者です」
玖玲正吾がそんな言葉をかけられたのは通学路の途中。秋の終わり、冬の始まり、そんななんでもない朝の出来事だった。
隣では通学鞄を手にした妹の真夜がきょとんとした顔で目の前の女性と正吾を交互に見比べた。
「知ってる人?」
「知らん」
とにかくワケの分からん人には係わり合いにならないのが一番である。
正吾は女性を無視して歩き出した。
昨晩から今朝方まで降り続けた雪がまだそこらに残っており、ひどく寒い。息を吐くと白い煙になって山からの風に吹かれて消える。雪の冠をかぶった山からの風は切るように鋭く冷たい。
真夜がコートの襟元を掴んで、小さく震えた。
壁と屋根の偉大さを再確認した正吾は真夜の手を掴み、足を速めた。学校に着けばストーブにありつける。急げばそれだけ早く学校に着くし体も暖まる。
正吾が早歩きすると真夜は小走りになった。
「晩飯は何にしようか」
「てんぷらがいい」
消極的な真夜にしては珍しく希望が出てくる。
「となると、たまねぎ、さつまいも、にんじん、ししとう、かぼちゃ」
「ウグイもね」
「油もそんなに残ってないな。今日は市場で買い物して帰るか」
「うん!」
こんなに寒いというのに真夜の機嫌は妙にいい。
「いやいやいや、ちょっと待ってくださいよ」
後ろから追いすがってきた女が正吾たちと並走して声をかけてくる。
「なんかこう、もうちょっと反応があってもいいんじゃないですかね、普通」
「急いでるんで、あと幸せなので神様には困ってないです」
「宗教じゃないですよ。こう言えば分かります? 私は赤の代行者なんです」
思わず足が止まった。
繋いだ真夜の手にもきゅっと力が入る。
そんなこちらの反応に満足したのか、女はしたり顔で二人の前に立ちふさがった。
<赤の代行者>、その名前を知らない人は煉瓦台市、いや内部世界には一人もいないだろう。
いわゆる外部進出主義、内部世界の隔離を解くべきだとする思想の中でも特に過激な一派である。
思想は実行によってのみ価値を持つ、という主義を掲げ、煉瓦台解放の名の下にテロを繰り返し、多くの犠牲者を出している。
ほとんどの煉瓦台市民が彼らを恐れているが、一方で自治政府の統治に不満を持っている層、特に政権が変わる以前に離反者と呼ばれていた人の多くは<赤の代行者>を圧制と戦うヒーローとして歓迎し、支持している。
その割合は意外に多く、実際に数年前の評議員選挙において赤の代行者は一議席を獲得している。
しかしそれでもなお赤の代行者はテロリストかそれに準じる過激派であり、たとえ自分がそれを支持していても人前で口にするようなことではないし、間違っても自分がその一員などと名乗るようなものではない。
そして何よりも正吾にとって赤の代行者は姉の命を奪った仇であった。
「5年前の駅ビル火災を覚えているか?」
その思いが思わず口をついた。
正吾自身もその被害者の一人である。
彼の右腕はそのとき負った負傷が元で、肘があまり曲がらない。
指を動かすのにも痺れが残っていて、物を掴もうとしても取りこぼすことがままあるほどだ。
「え――?」
女はきょとんとした。
よく見てみればそこそこいい年齢の女性だ。
30代か、40代、いい年の子どもがいてもおかしくない。
だったら間違ってもあの駅ビル火災を知らないわけはない。
「あ、ああ、あー、はいはい。あれですね。大襲撃の時の、実に惜しかったんですけどねぇ」
正吾はぎゅっと右手を握り締めた。じんとした痺れが腕全体に走る。
100名以上の死者を出した駅ビル火災は単なるテロではなく、赤の代行者が絶対境界線地下通路の強行突破を試みるために行った陽動作戦のひとつだったことが後日判明した。
正吾の姉の命を奪ったあの火災はただの陽動だったのだ。
左手を掴んだ真夜の手がぎゅうと握り締められる。
「俺はあの時駅ビルにいた。分かったら俺たちの前から消えてくれ」
「まあまあ、そう言わずにちょっとお話だけ」
こちらの話など聞いちゃいない。
そんな女の様子に不快感しか感じなかったので正吾は再び歩き始めた。
しかし女も負けじと追いかけてくる。
「あなたは赤の後継者なんですよ!」
女は最初にも言ったわけのわからない言葉を繰り返した。
「それがどうした」
意味など知りたくもなかったので聞き返しはしなかった。
しかし返事をしたことで女は嬉々として続きを口にした。
「つまりですね、あなたは赤の代行者の代表に選ばれたんです」
「…………」
意味が分からない。
正吾は過去一度、一瞬足りとも赤の代行者であったことはない。
なりたいと思ったこともない。
思想に傾いたこともない。
共感できる部分などひとつもない。
「なにかの間違いだ」
「いえいえいえ、そんなことはないですよ」
「じゃあ今日を持って赤の代行者は解散だ」
「またまた、ご冗談を」
女は本当に面白かったというように笑い、手を扇いだ。
最初から分かっていたが話をして通じる相手ではない。
それにこんな女を少しでも真夜に関わらせたくなかった。
「おい、真夜。走るぞ」
「……、うん!」
元気良く頷いた真夜が手を放して先に駆け出した。
まるで兎のように雪の残る朝の町並みを駆けていく。
正吾も慌ててそれを追いかけた。
「いよっす、青春してるねー!」
学校まで数百メートルのあたりで一人の女生徒がランニングに乱入してきた。
通学路には他の生徒の姿も見え始め、先ほどの変な女の姿はすでに見えない。
「ぜーっ、ぜーっ……」
荒く息をつきながら正吾は足を遅くした。
参ったことに真夜は百メートル以上先を疲れた様子もなく走っていく。
声をかけてきた女生徒の方は正吾に合わせてスローダウンした。
「お、なに? リタイア?」
「ちげぇ……、ちょっと変な女に、絡まれた」
「なにそれ! ひどっ! あたしのこと!?」
勘違いした女生徒は眉を吊り上げて憤りを露わにする。
「ちげー、そいつから逃げてきたんだよ。黒崎のことじゃねー」
いつもなら冗談で返して多少の言い合いにもつれ込むのだが、言葉の応酬を楽しむ体力が残っていない。
「そっか、なんかよく分からないけど災難だったねー」
怒りが収まると女生徒はとたんにほややんとした穏やかな顔になる。
性格はともかく顔の作りが大人しいのだ。
彼女は正吾の同級生で名前を黒崎美奈という。
活発な性格とその容貌で押しも押されぬクラスの人気者である。
「しかし黒崎が朝から来るなんてめずらしーな」
「出席ヤバいからねー」
黒崎はそう言ってけらけらと笑った。
「あたしは卒業なんてどーでもいいんだけど、母さんが高校は出とけってうるさくてさー。あーあ、玖玲はいいよね。うちの母さんも昔は超放任主義だったのに急に教育ママに目覚めちゃってさー。っても家にいないからやりたい放題なんだけど。あ、そうだ。いい蟹が手に入ったんだけど、持っていくから鍋しない、鍋。蟹以外は全部そっち持ちで」
「鍋か、いいな」
こんなに寒いと鍋をつつきたくなるのは人情というものだろう。
しかも蟹である。
黒崎が言うのだから間違っても沢蟹ではないだろう。
海に面していないこの煉瓦台で海産物は稀少でぜいたく品だ。
せっかくご馳走にありつける機会を別の誰かに譲るのももったいない。
「よし、乗った」
と言いかけた正吾の目の前に人影が立ちふさがった。
「うー」
唸り声を上げているのは先に行ってたはずの真夜だった。
頬を膨らませて正吾を睨みつけている。
「今夜はてんぷらって言った」
「ええと、あー、てんぷらは明日でもいいじゃんか」
しどろもどろになる正吾をよそに黒崎は明るく真夜に手を振った。
「真夜ちゃん、おはー、元気してた? 鍋おいしいよー」
「鍋もおいしいです、けど……」
さっきまでの上機嫌はどこへやら、真夜は歯切れ悪く俯いた。
こうなると仕方ない。
そういうもんだ。
「悪い、黒崎。鍋もうまそうだけどてんぷらの材料もう買ってあるしさ。今度なんか手に入ったらご馳走するよ」
片手を上げて謝意を示すと、黒崎は肩をすくめたが顔は笑っていた。
「ふむ、そうか、なら仕方ないねー。ホント、シスコンだねー」
「一言余計だ」
「ひっひっひっ、んじゃお先~」
ぶんぶんと手を振って駆け出した黒崎はすぐに別の生徒を見つけて絡んでいった。
あの社交性だけは見習いたいものだ。
「さて、俺らも行くか」
歩き出した正吾に真夜は少し遅れて付いてくる。
「え、あ、……ごめんなさい」
謝られてびっくりして振り返ると真夜の目には一杯に涙がたまっていて、もう一度びっくりする。
「ちょ、なんで」
「う……、わたし、つい、わがまま、言って……」
「バカ、そんなのわがままのうちに入るかよ」
しかし真夜は正吾の歩調に合わせて歩きながら、肩を震わせ始めた。
いくら妹とは言え、こんな往来のど真ん中で女の子を泣かせていたらどんな噂を立てられるか分かったものじゃない。
「ああ、もう」
ハンカチを取り出そうとポケットに手を突っ込むと、がさりと柔らかくない感触がした。
引っ張り出すとそれは入れた覚えのない紙切れでこう書かれていた。
『弓削朝子は生きている。今夜12時、煉瓦台駅のホームに』
「…………」
思わず固まっていると、俯いた真夜がしゃくりあげながら服の肘の辺りを掴んで、そのまま身を寄せてきた。
正吾は慌てて紙切れを握りつぶすと、ポケットに押し込んでハンカチを引っ張り出して真夜の頬を拭った。




