夜が明けて -6-
火災発生から1時間と20分が過ぎた。
この間朝子を支え続けていたのは単純に意地であった。
今も特捜通信部では必死に朝子の状態をモニタリングし続けているだろう。
そしてそれはすべて記録として残される。
つまりあの子も見る、ということだ。
このまま助からないにしてもみっともないところは見せられない。
その思いだけが朝子を支えていた。
「ね、あなた家族は?」
水の流れる階段を一段一段手すりにつかまりながら朝子は降りていく。
――今はそんな話をしている場合じゃないでしょう。
通信士の言うことはもっともだったが、朝子の意見としてはそうではない。
どんな話であったとしても今話しておかなければもう二度と話せないのだ。
どんな話にもそれなりの価値はある。
「いいじゃない。聞かせなさいよ。死に瀕している人間のお願いは聞くものよ」
通信機の向こうで軽いため息が漏れた。
――両親と兄がひとり。弟がひとりいます。
「血は繋がってるの?」
――幸いにして。
「それはなによりだわ。大切にしなさい」
――……そうします。
「そういえば名前を聞いてなかったわ。あなたなんて名前なの?」
――自分は福原貴志です。
「特捜隊員じゃないの?」
大抵の特捜隊員は自分の名前の後に所属をつけたがる。
――いいえ、ですが3課に関する機密に触れる権限はもらっています。
「優秀なのね」
――貴女ほどではありません。
「私がこの年で3課の課長だからそう思うのね」
朝子は喉を鳴らして笑った。
「そんな立派なものじゃないわよ」
階段の踊り場で朝子は息をついた。
できる限り5階は見て回ったが発症者は発見できなかったので、下に向かうことにしたのだ。
――自分もそれほど立派なものではありません。親の七光りですから。
「そうなの?」
朝子は特捜幹部の中に福原姓がいたかどうかを思い出そうとしたが、頭がまったく回らない。
普段なら幹部級ならすらすらと思い出せるのに、だ。
「良くない」
思考力の減衰は仕方ない。
だが程度を把握できてないのは不味かった。
これではいざという時に自分自身の過失で足元をすくわれるかもしれない。
だがひとまず今は4階にたどりついた。
「――見つけた」
――……!
通信機の向こうから息を呑む音。
「違うわよ。突入したという第11分隊ね。いちにさん、と、全員死亡扱いでいいわよ」
4人分の焼死体だった。
4階に突入直後に焼き払われたのだろう。
折り重なるようにして倒れている。
まだ生焼けでぶすぶすと音を立て肉の焼ける臭いが漂っていた。
そしてそのそばにもうひとつ制服の遺体があった。
焼け残った襟章は開いた本と剣をモチーフにしたものだ。
「あらま、誰だか元特捜司法官の遺体も確認。珍しい武器を使う人だったみたいね」
――突入したメンバーの中の元特捜司法官はと言うと、ええと、春山澤美特捜1課特遊、申請されてる武器は弓。確かに珍しいですね。
「有効ではあると思うけれどね。当たるなら、だけど」
金属製のその弓を朝子は持ち上げた。
ずしりと重い。
多少熱くなっていたが持てないほどではない。
矢筒もすぐそばに落ちていた。
「ふぅん。弓の背に刃をいくつも縫い付けてあるのか。これなら接近戦でも使えそうね」
軽く振り回してみると、思ったよりは扱いやすい。
弦があることを忘れなければ棍のように使えないこともないだろう。
矢筒を背負ってベルトを締める。
「矢も変な形。やっぱり特捜司法官は変なヤツばかりだったのね」
1本引き抜いた矢は金属製で矢羽がついていなかった。
その代わり表面にまるでライフリングのような溝がついている。
「ところで、お願いがあるの」
――なんでしょう?
「後を頼むわ」
通信士が深読みしてくれることを祈りながら朝子は弓に矢をつがえた。
想像していたよりも弦が重い。
キリキリと弓が鳴いた。
もうもうと辺りを包む煙の向こうに向けて射掛けようとした瞬間、まるで煙を割るように炎が踊りかかってきた。
とっさに狙いをつけずに矢を放つ。
煙の中に消えた矢がどうなったか確認せずに朝子は後ろに跳んだ。
階段まで後退して壁に身を隠す。
一気に体内の酸素が足りなくなって朝子は何度も深く息を吸い込んだ。
「いた、わ。多分。4階、東側の階段近くで接触。発火能力者の可能性が高い」
幸いだったのは煙のせいで極端に視界が狭くなっているということだった。
発症者の能力は視界に強く影響を受けるので、このように視界が限定されている状況下では最大限の効率を発揮できない。
だが同時に自分の居場所が知られた以上、そして自分が単独である以上、弓の優位性は完全に失われたと言っていい。
気づかれる前に死角から射掛けてこその弓だ。
――五階に戻って西側の階段まで行って再び四階に戻ってくるか?
朝子は横に首を振った。
時間がかかりすぎる。
せっかく見つけたのにまた見失ってしまう可能性のほうが高い。
それならこの視界の限定された状況下であるうちに決着をつけたほうがいい。
矢筒からもう1本引き抜いた。
使うかどうかは分からないが準備しておいて損はすまい。
――コンコン――。
「うひゃぅ!」
と、すぐそばで壁を叩く音がして朝子は飛び上がって驚いた。
「やっぱり、その声は君か」
鈴の鳴るような男の声が煙の向こうから聞こえてきた。
その独特の声に朝子は覚えがあった。
「白炎!?」
「そうだよ。ひさしぶりだねぇ」
「ウソでしょ。どうしてあなたが、ここにいるの? ううん、1年もどうしてたのよっ!」
「僕は赤の代行者になったんだよ」
軽やかな返答に朝子は唇をかみ締めた。
「……どいつも、こいつも……」
去年の第二次大規模外部感染事件以降に突如として煉瓦台市に出現した赤の代行者という組織は瞬く間に煉瓦台市を揺るがした。
いっそ外部世界に感染を拡大させれば、隔離は解かれて自由になれる。
という自分本位にも程があるその主張は、だがしかしいくらかの支持を得た。
外部世界の情報がなだれ込んだことで自分らが隔離されているという実感が湧き始めていたというのもよくなかった。
「それで、なに? 命乞いでもしにきたわけ?」
「ふふっ、君は相変わらず強がりだねぇ」
「言ってなさい」
酷く嫌な感じだった。
特捜3課の任務は基本的に1課の手に負えないと判断された発症者の処分である。
そしてそういった発症者は基本的に精神錯乱している。
だから朝子にはこれから処理すべき発症者とこうして会話した経験というのはほとんどない。
もう正気を失って取り返しがつかないから仕方なく殺している、という建前があるから平気で殺すように命令できるのだ。
しかも今回の場合、白炎は顔見知りであった。
「いや、せっかく知り合いに会えたことだし、君を赤の代行者に勧誘しようと思ってね」
「断る」
「おいおい、話くらい聞いてくれてもいいじゃないんじゃないかなぁ」
「いきなりこんな火災に巻き込んでおいてよく言うわ。それとも私ひとりを勧誘するためだけにこんな事件を起こしたわけ?」
「まさか! 君がここにいるだなんて思いもしてなかった。もし知ってたら先に忠告くらいはしたかもしれないな。赤の代行者は君のことを結構買ってるんだ」
「理由は想像が付くわ」
元特捜司法官で現3課課長ともなれば影響力はそこそこある。
弓削朝子が赤の代行者になったのなら自分も、という人々が少なからず発生するだろうことは簡単に想像できた。
「悪いようにはしない。それに赤の代行者は発症者をとても大事にするんだ。いくら自治政府が発症者の人権を認めたとは言っても差別は消えていないだろう。君の可愛い双剣のために世界を変えようとは思わないのかい」
その言葉には十分に魅力があって、朝子はわずかに興味を感じてしまう。
だが根本的にこの火災を引き起こしたのが白炎であるということだけで、その考えを振り払うことは容易だった。
「自分らしく生きるために他人を犠牲にしていいということはないわ。もちろん程度はあるでしょうけれど、あなたたちのは度を過ぎている」
「外部世界が安全に生きるために僕らを犠牲にしているのは度を過ぎてないと言えるのかい? 君の言っていることは踏みにじられる側のあえぎ声みたいなものだ。現実には踏み潰さなければ踏み潰されるんだ」
「ならばまず私を踏み潰しなさい。赤の代行者!」
あたりをつけて朝子は階段から飛び出した。
白炎の声は近かったので、接近戦に持ち込める可能性があった。
朝子の記憶にある限り、白炎は最弱の発症者のひとりだった。
彼の能力は可視範囲全域発火というとてつもないものだったが、その炎が彼自身も焼くという特性を持っているため、実際に人を焼き殺すほどに炎を使うと彼自身も焼け死んでしまうという難点をも持っていた。
それであったので結局彼には視界を覆い、通信士になる以外に道はなかった。
白兵戦の訓練も普通の隊員には相手にしてもらえず、子どもたちとの遊戯を兼ねる程度のものしかしていなかった。
その上、子どもたちにいつも負けていたのだ。
さらにこれだけ煙に覆われていれば発火能力も大きく制限を受ける。
朝子には勝算があった。
そして朝子の読みどおり、すぐそばに白炎はいた。
相変わらず若いようにも年寄りのようにも見える。
線の細い美しい横顔。
手にした弓を振り上げる。
繋ぎ合わせられた刃は一撃では決定打にはならない。
せいぜい皮膚を切り裂ける程度だろう。
だが朝子は横なぎに白炎の目を狙った。
狙うつもりだった。
だが手が止まった。
振り払うつもりだったのだ。
本当に。
だが白炎の顔を見たとたんにその最後の一歩が踏み出せなくなってしまった。
「うわああああああああああああああああああああ」
朝子は吼えた。
動け、動け、動け! と何度も体に命じたが、まるで自分のものではなくなってしまったかのように体は動いてくれなかった。
白炎がすっと手を伸ばして朝子の耳の通信機を握りつぶす。
彼の肩の上には一匹の大鷲が乗っていた。
朝子は発症者に関するファイルの中の特記事項、識連結のことを思い出した。
発症者は自分の命を分け与えることによって、自分ではない生き物を自分の一部として扱える。
つまり白炎には見えているのだ。
かつてのように目を開けることができないという弱点をすでに克服しているのだ。
通信機を壊されたこともあって朝子の中の糸がぷつんと音を立てて切れた。
弓が手から滑り落ちる。
彼女は膝から地面に落ちた。
――ああ、もうどうでもいいや。
体ももう限界を超えていた。
炎と煙の中を今まで走り回れたほうが異常だったのだ。
全身は焼けただれ、自慢だった髪もすっかり丸まってしまっていた。
すっと白炎の手が伸びてきて朝子の体を支えた。
「やっぱり君は優しいんだねぇ」
「優しい、ですって」
くっくっと笑いがもれるたびに肺がぎゅっと痛んだ。
白炎は優しく朝子の体を抱き上げる。
それに抵抗するだけの体力も気力も朝子には残っていない。
「私をどうするの?」
「連れて行くよ。君の意見などどうでもいいので無理やり連れて行くことにした」
「赤の代行者になんてならないわよ」
「構わないよ。君と意見が合わないのは昔からのことだからね。考えてみれば初めて会ったときから君とは喧嘩ばっかりだったなぁ」
ふふっと白炎は見れば誰もがとろけそうな優しい笑みを浮かべた。
「まあ、ほとんどが双剣がらみのことだったねぇ。君は本当に双剣のこととなると人が変わる。僕はそれが妬ましくてしかたなかった」
朝子は鼻で笑い飛ばした。
「私に双剣を取られたやきもちってわけ?」
「君は本当に嫌な女だなぁ」
白炎はそう言って朝子の額に張り付いた髪を梳いた。
「僕がなぜこんなに君にこだわるのか分からないのかい? 僕がなぜ他の特捜隊員にそうしたように君を焼き殺さなかったか分からないのかい?」
「知るもんですか。勝手に行方をくらませたような奴のことなんか分かるわけない」
「――僕は君を手に入れたいんだよ。朝子」
「バカバカしい。それがあなたの私を懐柔する手段というわけ?」
「本当だよ。初めて会ったときから君に心惹かれていた。ウソじゃない」
朝子は何も答えずに白炎の整った顔を見上げた。
彼の顔は酷く真剣で、どう考えても信用できる場面ではないのに、朝子は彼の言葉に嘘はないような気がしてしまう。
「好きに、すれば……、できるものならだけど……」
「君は本当に強がりだなぁ」
そう言って白炎が朝子に唇を寄せた。
どうでもよくなって朝子はそれを受け入れた。
気を利かせたのか大鷲はぷいと余所を向いた。
朝子はスカートをまくりあげ、太ももに隠した高圧銃を引き抜いた。
そしてそれを白炎の左目に突きつけた。
銃口の冷たい感触に白炎は大鷲を振り向かせたがもう遅かった。
朝子は引き金を引いた。
装填されているカートリッジには御堂寺静の開発した抑制剤が詰まっている。
発症者の皮下に打ち込めばたちまちに能力を制限し、肉体強化さえ失わせる。
効果時間はおよそ6から12時間。
そして高圧で発射された抑制剤は白炎の右目を突き破って体内に打ち込まれた。
「ぎゃああああああああああああああああああああああ」
白炎の絶叫が響き渡る。
その腕から放り出された朝子は床に体を強打する。
だがこれでまだ終わりというわけではない。朝子は這うようにして特捜隊員の遺体に近づいた。
装備を探っていると、火事場に持ち込むのにはありえない武装に指が当たる。
その迂闊さに朝子は思わず苦笑した。
「あさこ、あさこ、あさこおおおおおおおおおお」
右目を押さえた白炎が左目を開けて辺りを見回していた。
「なぁに?」
狂気をはらんだ白炎の瞳が朝子を見た。
だが朝子の体は燃え上がらない。
抑制剤によって彼の能力は完全に押さえ込まれている。
「ころしてやるぅぅぅぅ――――」
這うようにして白炎が朝子に近づいてくる。
その姿は哀れになるほどだったが、朝子も似たようなものだった。
白炎は朝子にのしかかり、その首を左手で掴み締め上げる。
「結局それがあなたの本性よ」
かすれる声でそう言って、朝子は白炎の前にその手に持ったものを掲げた。
それは手榴弾だった。
ただの人間が発症者と戦うときにはどうしても必要なものだった。
「ばかなっ! おまえも死ぬぞっ!」
くっ、と朝子は喉を鳴らして笑った。
なぜか最後に思い出したのはあの子ではなく、朝子を助けようと必死になっていた正吾の姿だった。
そして彼の子どもらしかぬ口癖だった。
「それがどうした」
そう言って朝子はピンを抜き、それを白炎の顔に押し付けた。
逃げられぬように左手で白炎の体を掴む。
「やめろやめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおおおおおおおお」
気の遠くなるような爆発までのその時間を、朝子と白炎は激しく揉みあった。
朝子を振り払って逃げようとする白炎を掴み、引きずり倒し、顔を殴られ、殴り返し、その間も手に持ったそれを決して手放さなかった。
弓削朝子という人間は本来、無気力で怠け者だったが、やらなくてはいけないことをやらなかったことは一度もないと自負していた。
彼女はやらないといけないことはどんなにやりたくなくてもやったし、やらなくてもいいと言われたことても自身がやらなければならないと感じれば必ずやり通した。
彼女はやり通した。
最後までやり通したのだ。
夜が明けて はこれにて終わりです。
明日は 日が沈み を投稿します。




