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Red eyes the outsiders  作者: 二上たいら
後日談的おまけ
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夜が明けて -5-

 ――あ……、……さい! ……。


 ざあざあと降り注ぐ水の音に混じって聞こえた何かが、朝子の意識を地獄へと引き戻した。

 ぼんやりの夢の残滓に浸りながら、朝子はどちらが現実なのかを決定できずにいた。

 肩口から降り注ぐ水の量は最初に意識を取り戻したときとほとんど変わっていない。

 放水が終わっていないのか。

 ほとんど時間が過ぎていないのか。

 そもそもいつ放水が始まったのか。

 火災は消火に向かっているのか。


 ――どうでもいいわ。めんどくさい。


 と、朝子はそう結論付けた。

 四方は炎に囲まれていて、朝子が焼け死んでいないのは流れ落ちる水の滝の中にいるからだ。

 それでも体は炙られて酷く熱を持っていた。

 とてもではないが移動する気力は残っていない。

 弓削朝子という人間は無気力で怠け者だ。

 やりたくないことは徹底的にやらないし、やらなくてはいけないことでも、できることならやりたくない。

 たまたまそうも言っていられない事態が常々に彼女に降りかかってくるだけで、彼女が望んで優秀なわけではなかった。


 ――……おうとう……、……い!


 雑音まじりに喚いているのは通信機だった。

 耳掛け式で一見するとアクセサリーかなにかにしか見えない。

 これは特捜でもごく一部の幹部にしか支給されていない無線通信機だった。


「……な……に……」


 声がかすれる。朝子は喉を痛めていた。

 仕事のことを思い出して不快だった。

 せっかくゆっくり休んでいるところなのだから、もう少し放っておいてくれてもいいものを。

 しかしそんな朝子の思いなど他所に通信士は喚き続ける。

 雑音と混じって何を言っているのか聞き取れない。

 その間も生ぬるい水はざーざーと降り注ぎ、ざぶざぶと音を立てる。


 ――応答してください! 意識はありますか!?


 意識を失っていたら返答のしようもないだろう。

 朝子は思わず少し笑って、そして煙を混じった空気を吸い、咳き込んだ。


 ――だいじょうぶですか!?


「だいじょうぶ、だから……すこしだまってて」


 なんてことはない。

 声が届かないのは水音に遮られているからなのだった。

 頭を動かして、せめて水音が入るのを少しは防ぐ。

 あまりに動くと今度は炎に巻かれてしまう。


 ――申し訳ないですが、時間がありません!


「わたしは、やすみ、よ……」


 呂律が回らない。意識がはっきりしない。


 ――貴女には緊急出動命令が出ています。


 首をがくりとうなだれると、滝の中に顔を突っ込んでしまう。

 それでようやく意識がはっきりした。


「……ああ、就職なんかするんじゃなかった……」


 朝子の中でスイッチが入る。

 彼女の中にはどこかに気力の詰まった袋があって、その緒を彼女はしっかりとコントロールしているのだった。

 全身をチェック。

 打撲、打ち身、擦り傷と満身創痍ではあるが、致命的ではなかった。

 大きな出血も見当たらない。

 奇跡的なことに行動にはなんの支障もなかった。

 続いて状況。

 降り注いでいる水の出所はスプリンクラーか、消防の放水だろう。

 それが崩れた天井から流れ落ちている。

 転落した7階から6階の光景はこんなではなかったから、恐らく床を突き破って5階に落ちたのだろう。


「それで……、わざわざ通信士が登場するってことは、これはそう、なのね?」


 ――そうです。


 朝子は薄く笑う。


「最悪だ」


 ――その通りですね、最悪です。


「状況を教えて」


 朝子は四方に目を走らせた。

 煙、煙、煙――。

 視界はほとんどない。


 ――火災発生直後に<眼>が未登録発症者を駅ビルに発見しました。


 炎も見えるが、それ以上に熱を持った空気と煙が厄介だった。

 今は水のカーテンに遮られているからいいが、ここを出たらどれくらい持つのか分からない。


 ――確保のため特捜1課第11分隊が向かいましたが、全員が消息不明。発症者は健在です。


 行くとすればこの滝の流れる先だ。

 この生ぬるい水にどれほどの冷却作用があるかは未知数だが、すくなくとも焼けた肌を冷やすくらいはできるだろう。


 ――火災の通報から1時間が過ぎましたが、今のところ4階より上階の避難は確認されていません。


「な……ん、ですって……」


 急に右手の痛みを思い出す。

 その右手には正吾の手の形に青黒く痣ができている。


「誰も……」


 手が震えた。正吾の手を振り払って彼を7階に置き去りにしたのは朝子だった。


 ――つまりショーゴを引きずり落としていれば一緒に助かったということか。


「――はは」


 朝子は哂う。こみ上げてくる笑いをこらえることができない。


「ははは――」


 ――そちらの状況を教えてください。


「ははっ、7階の床が崩落したのに巻き込まれて意識を失っていた。ここはおそらく5階。紳士服売り場みたいだから――。視界はゼロ。呼吸できてるのが不思議なくらいの煙。死んでないのは放水のおかげ」


 ――外からの放水は5階まで届いてません。スプリンクラーが生きてるんですね。


「大災害前の技術に乾杯しましょ。生きて出られたらの話だけど」


 ――そこから移動はできそうですか?


「かなり難しい。さっきも言ったけれど呼吸できているのが不思議」


 ――不可能ではありませんね?


「……なにが、いいたいの?」


 ――特捜本部より指令です。特捜3課課長。現在確認されている未登録発症者の処理をしてください。


「ふはっ! げほっ! げほっ!」


 思わず朝子は吹き出した。ついでに煙を吸い込んで派手に咳き込む。


「はははっ、わはははは――」


 全身どこを探しても痛く無い場所など無い。

 皮膚は赤く腫れ、呼吸をする度に肺がきしみをあげる。

 酸素が圧倒的に足りていないのだ。


「あははははははは――」


 だがどうにも笑いだけは止められなかった。

 つまり本部は朝子に、発症者に突っ込んで死に様をモニターさせろ。と、言っている。

 人外の能力を持つ発症者を相手にただの感染者である朝子に何ができるというだろう。

 たとえ相手が能力を使える状態でなかったとしても、多くの発症者の身体能力は人間を遥かに上回るのだ。


「ひーっ、ひーっ……」


 笑いすぎて息切れした朝子は、滝の中に一度顔を突っ込んで頭を落ち着けた。

 ぶるぶると頭を振って髪から滴を払う。


「オーケー、分かった。やるわ。状況から推測して発症者はこの5階近辺にいるはずよね」


 ――<眼>はそう言っています。


「ならそうなんでしょう」


 そう言って朝子は自身を守っていた滝から炎の中に身を投じた。

 躊躇などしなかったし、深く考えている暇も無かった。

 炎は容赦なく濡れていたはずの朝子の髪を焼き、服を焼き、肌を焼いた。

 だがそう長い時間でもなかった。

 延焼と空気の流れの関係上、酸素が無くなり炎が燃え続けることができなくなった一角、行き止まりの角に朝子は転がり込む。

 床を転がり体の火を消すと、息を止めたまま水の流れを追ってもう一度炎の中に飛び込んだ。


 ――そうか、もう真夜とは会えないのか。


 めまぐるしく働く思考の隅で、ふと朝子はそんなことを考えた。




 朝子がその子に初めてあったのは特捜の犬になってから4年が過ぎた頃だった。

 封鎖暦は当初の想定を越えてすでに19年を数えており、西暦に直せば2018年となる。

 もうすでに煉瓦台市市民は西暦を忘れつつある。

 朝子はこの年学校を卒業し、特捜司法官の試験に合格した。

 とはいえ、それも黒崎静との取引に含まれていた。

 静はこの4年の間に煉瓦台記念病院での地位をさらに高めていた。

 特捜の使い走りに過ぎなかった彼女は、今では主任研究員だ。


「ここよ」


 そこは管理自治機構本部の地下にある核シェルターである。

 ここの存在を知っているものは煉瓦台市の中にもそう多くはいない。

 外部世界が内部世界を危険視してその絶滅を図ったときに避難するために作られたのだというこのシェルターは現在、煉瓦台市市民にも秘密にされたまま、特捜に保護された子どもたちの居住区となっていた。


「この時間ならみんな公園にいるはずね」


 シェルター内は地面を掘り返して作られており、まるで炭鉱内部のようだった。

 ちかちかと点滅する蛍光灯に照らされた狭い通路を進んでいくとやがて大きく開けた部屋に辿り着いた。

 そこは球場ほどの大きさだろうか。

 どこかからか自然光が取り入れられている。

 辺りには木々が生い茂っており、小さな森のようになっていた。


「なかなかのものでしょう? 特に採光には苦労したのよ。百を越える採光口があってね……」


 だが静の言葉はもう朝子の耳には届いていなかった。

 この公園に入ってすぐに彼女の姿に気がついたからだ。

 他の子どもらと走り回っている小さな少女がいた。

 誰もが羨むに違いない艶のある黒い髪。

 幼いが整った顔立ちはその将来を期待させるに足るものだ。

 面影があった。


「彼女の名前はなんていうんですか?」


「ここでは双剣と呼ばれているわ」


「そうけん?」


「ええ、ここにいる子どもたちはみんな家族からは引き離されてきた子ばかり。だからあだ名で呼び合うのよ。それにあの子には本名がないでしょ」


 煉瓦台市市民にとって名前とはつまり血縁の証明に違いない。

 死亡率の高さによって家族という単位が随時再構成を余儀なくされる以上、実際の血縁者を示す指標が名字であり、名前なのだ。

 しかし彼女は親から名前を授けてもらえなかった。


「なぜ双剣なんですか? もっとこう女の子らしいあだ名もあるでしょうに」


「あなたはこの4年間、まるで機械みたいに何でもこなしてきたわりに、あの子のこととなると途端に人間臭くなるわね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「人間として? それとも特捜司法官として?」


「どうでも」


 静の印象などどうでもいい。

 それが正直な朝子の感想だった。

 今こうして彼女を見つけて、眩暈のような感慨に囚われている。


「双剣!」


 静に呼ばれ、双剣という名の少女は駆け寄ってきた。

 その腰には左右にまだ幼い少女の腕ほどの長さもある鞘が差さっている。

 それが双剣の名の由来であるのは想像に難くない。


「こんにちは!」


 行儀良く挨拶した少女は、染色されていない麻布を繋ぎ合わせた服を着ていた。

 まるで古代人のようだ。

 もうちょっとマシな服だってあるだろうに。

 朝子は彼女のために服を用意してこようと決めた。


「こんにちは。双剣、この人が新しい通信士よ。君たち、ちびっ子隊のね」


「わたしはもうちびっ子じゃないわ!」


 少女は胸を張ってそう言った。


「白炎にも勝ったもん」


「彼に勝ったくらいじゃまだまだ自慢にはならないわね」


 静が笑って言うと、少女は矛先を朝子に向けた。


「おねえさんもわたしのことちっちゃいって思ってる?」


「まさか!」


 そんなこと思うわけがない。

 朝子は膝を曲げて少女の目線に合わせた。

 赤く澄んだ瞳。


「私は君がまだ赤ちゃんだったときに一度だけ会ったことがあるのよ。大きくなったね」


「ほらっ、大きいって! きゃっ」


 自慢げに胸を張った少女がたまらなく愛しくなって、朝子は少女を抱きしめた。

 生きていてくれただけでも嬉しいのに、こんなに元気に育ってくれている。


「ごめんなさい」


「おねえさん?」


 それは彼女の母親からの伝言であり、また朝子自身の心からの謝罪でもあった。


 ――ごめんなさい。あの時あなたを、あなたのお母さんを守ってあげられなくてごめんなさい。


「どうしたの? 泣かないで、ねえ?」


 少女の手が朝子の頬にぐいと押し付けられて、その涙を拭いた。

 泣いてはいけない。

 全てを話すことは今はまだ許されていないし、少女に疑問を抱かれたくはなかった。

 だが止めようと思っても涙は次々と湧いて溢れてくる。


「おねえさんが泣いたらわたしもかなっ、しっ……」


 後半はもう鼻声で、朝子に釣られ少女まで泣き出してしまう。

 二人はしばらくわんわんと声をあげて泣いた。




「……落ち着いた?」


 朝子の嗚咽が止むまで十分ばかりの時間を要した。

 少女は泣きつかれたのか眠ってしまっている。


「すみません……」


 ここまで取り乱すとは朝子自身にも思いもよらなかった。

 外壁に背中を預け、腕の中には少女がいる。


「この子に名前をあげたいのですが……」


「法的に、かしら?」


「できれば……」


「ん~」


 静は腕組みをして、しばらく考え込んだ。


「問題があるわ。彼女には煉瓦台市市民としての戸籍がない。まあ三課には死んだことになっている人も少なくないけれど、彼女の場合はそもそも生まれてきたという記録そのものが存在しないのよ」


「ここの戸籍はそれほど厳密なものでもないんじゃないですか?」


 煉瓦台市における戸籍情報は大災害により壊滅し、その後時間をかけて編修されたという経緯がある。

 しかも資料をまとめたのは管理自治機構だが、その管理を任されているのは煉瓦台記念病院だ。

 だから静になら融通がつけられるはずだった。


「減らす分にはね。いないはずの人間が増えるわけにはいかない。人口に関してはきっちり外部に報告してるもの。無い戸籍をでっちあげるわけにはいかないわ。いきなり8歳の子どもが戸籍に現れては、病院の管理能力を問われることになりかねない。機構や外部世界に弱みを握られるわけにはいかないの。分かるわね?」


「つまりこの子はこの世には存在しない。ということですか?」


「……存在はしている。けれど厳密には人間ではない。そしてそれは嘘や詭弁じゃないのよ」


 朝子は自分の足を枕にして眠っている少女の髪をそっと撫でた。

 どこから見ても普通の小さな女の子なのに、彼女の置かれた環境はどこまでも残酷だ。

 生まれる前に発症し、誕生と同時に自衛隊に確保された彼女は公式には死産だったことになっている。

 死産の場合、その赤子の戸籍は発生しない。

 よって彼女はこの世に生まれてきたことを認めてもらえない。


「でもこの子は生きている。間違いなく、ここにいる」


「事実と現実は常に同一でなくてはならないことはないでしょ。彼女は発症者だけれども生きていてここにいる。それは私も認める。ただ人間としてそれを紙に書いて残せない。それだけのことだわ」


「そう、それだけのことですよね」


 実際にそれだけのことなのだ。

 戸籍の在る無しはさほど問題ではない。

 配給は受けられないが、貨幣が流通している現在では他の手段で生活していくことも十分に可能だからだ。


「けれどどうしてもイヤなんです。この子には幸せになってほしい。そう思うのはいけないことでしょうか?」


「……好意や善意が常に正しい結果を生むというのは妄想に過ぎないわ。良いことをしたつもりでいる人が一番性質が悪いものよ」


 朝子は首を横に振った。

 自分の発した言葉が、自分の思いを的確には表現していないと悟ったからだ。


「いいえ、問題はそこではないですね。するかしないか、であれば私はします。どうすればいいですか?」


 しばらく静は押し黙った。


「あなたは特捜司法官向きだわね」


「私は特捜司法官です」


「そうだったわ」


 そう言って静はちらりと腕時計を確認した。


「ちょっと長居しすぎたわね。私は予定が詰まっているのでこれで失礼するわ。弓削朝子司法官!」


「はいっ!」


「あなたの職場はここで、あなたは通信士。担当するのはその子とそして他の子どもたち。だから親交を深めておくように。呼び方くらいは自由に決めていいわ。ああ、それと定期報告忘れないようにね。こっちの子にかかりきりになって、あっちの子を忘れちゃだめよ」


 ひらひらと手を振って、黒崎静は管理自治機構本部地下の公園を後にする。

 それが朝子と彼女との出会いだった。

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