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Red eyes the outsiders  作者: 二上たいら
後日談的おまけ
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夜が明けて -3-

 ――季節も巡る。


「新しいお母さんだ」


 父はそう言ってその女性を紹介した。

 山吹色のスカーフに、艶のある美しい漆黒の長い髪、大きく張ったお腹のことをよく覚えている。

 母が死んで二年ほどが過ぎていた。

 朝子は愕然とした。

 母の死による心の傷は癒えるどころか、まだズキズキと痛む。

 それなのに父はもう別の女性を作ったのだ。

 まだ愛だの恋だのを知る年齢ではなかったが、朝子は父の裏切りを敏感に察知し、それを嫌悪した。


「ごめんなさい」


 新しい母の最初の言葉がそれだった。

 彼女は心から苦しそうにその言葉を紡いだ。

 それで朝子は彼女が決して幸せではないのだと悟った。


「ごめんなさい」


 不思議なものでどんなに思い出そうとしても、それ以外にその人の言葉はほとんど思い出せない。

 もっと他にも言葉を交わしたはずだった。

 そう、それから3ヶ月の間、朝子は彼女と暮らしたはずだったのに。


 くるりと季節が横転した。

 彼女のお腹がこれ以上無いほど大きく張った頃だった。

 学校から帰った朝子が見たのは、キッチンで自らの腹を切り裂き、子を取り出した彼女であった。

 彼女の瞳は赤く染まっており、呆然とその赤子を両手に抱いていた。

 赤子の瞳も赤かった。

 臨月より早かったというのに、ぎゃあぎゃあと元気に泣きわめいている。

 女の子だった。


「ごめんなさい」


 自らの血の海に座り込んだ彼女は、何度も何度も口にしたその言葉を繰り返した。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 よく似ている。と、朝子は思う。

 彼女は謝っている。

 心から謝っている。

 取り返しのつかない過ちを犯したのだから、謝ることしかできないのだ。

 彼女は自らの腹を切り裂いた包丁を振り上げた。

 その目が自らの赤子を見ているのは容易に知れた。


「ダメ!」


 気がつくと朝子は彼女の右手に飛びついていた。

 この新しい母親のことを朝子は決して好きでなかった。

 いっそ発症してしまえと思ったことは一度ではない。

 だがそれは決して本心からではなかった。

 本当に誰かの死を望んだことなどない。

 あの――母を殺した発症者を除いては。

 彼女が好きでないのも結局は父が母を忘れてしまったように感じるからだった。

 彼女自身が嫌いだったわけではない。

 朝子は激しく後悔した。

 なぜもっと仲良くしておかなかったのか。

 なぜもっと話をしておかなかったのか。

 なぜもっと――!

 まだ終わりじゃない。と、朝子は唐突に気付いた。


「ダメだよ! 終わりにしちゃダメ!」


 自分のその思い付きをなんとか彼女に伝えようとして、朝子は必死に考えた。

 情勢の不安定な当時は、煉瓦台市を事実上制圧していた陸上自衛隊の方針で、発症者の即時射殺が許可されていた。

 発症すればそれで終わり。

 誰もがそう思っていた時期だった。

 実際には数人の発症者が保護されて普通の生活を送っていたのだが、そんなことを知る余地もなかった。

 とにかく分かっていたのはこのままでは何もかもが終わってしまうということだけだった。

 だがそれは何もしなければ、ということだ。

 できることはまだあった。


「どこかに行こう! どこか! 一緒に暮らそうよ。おかあさん!」


 自分の口から飛び出した言葉に朝子は驚いた。

 驚いたのは朝子だけではなかった。

 新しい母もまた驚きに顔を歪ませ、包丁を持った手から力を抜いた。


「ありがとう……」


 顔をくしゃくしゃにして母は泣いた。

 驚くべきことにその腹部の傷はほとんど完治していた。

 朝子は彼女を着替えさせ、赤子の血を水で洗い流した。

 ぼろきれでその体を包み込む。

 傷は完治していたが、母は体力を失っていた。

 朝子が赤子を抱いて、彼女の手を引いた。

 そして家を出ようとドアを開けた。

 そこには陸上自衛隊の一個小隊が到着したところで、出会い頭に引かれた引き金で、母の頭に三つ穴が空いた。

 ばっと血か脳漿かが飛び散って、朝子は赤子を抱きしめてしゃがみこんだ。

 母が倒れ込むと、その体にさらに数発の弾丸が撃ち込まれ、朝子は乱暴に引きずり倒されると、無理やりに目を開けさせられた。

 兵士が何か言って、そして朝子の手から赤子を奪い取った。

 驚きの声が上がり、二三の会話があったあと、兵士たちは迅速に撤退していった。

 朝子は一人、血溜りと母の遺体の残る部屋に取り残されて泣いた。

 涙が枯れるまで泣いた。

 そして涙が枯れても母の遺体はそのままだったので、朝子は遺体の足を引きずって庭まで持っていくと、薪を並べて火を放った。

 煉瓦台市では死者を火葬に伏すのは一般的な光景だったので、幼い朝子でも手順は知っていた。

 ぱちぱちと遺体の脂が爆ぜ、涙はすぐに乾いた。


 自衛隊による治安維持が、同時に自衛隊自身による市民への暴力に繋がっていることは、幼い朝子にもすぐに理解できるようになった。

 発症への恐怖。

 また精神錯乱し暴れまわる発症者たちへの恐怖。

 食料難から来る飢えへの恐怖。

 それを押さえつけ、理性的に煉瓦台市を維持するために、市民を圧倒する暴力組織は必要悪であった。

 だが大災害以前からの煉瓦台市民にしてみれば、第一次大規模外部感染によって煉瓦台市民となった陸上自衛隊は他所者であり、彼らに暴力で屈するには抵抗がある。

 それで朝子が直面したような迅速で的確な発症者処理は、煉瓦台市民にとっては一方的で暴力的であるとして捉えられた。

 そしてその一方で、自衛隊の中には強盗や強姦を働くものも確かにおり、市民の自衛隊に対する反感は日々高まっていた。

 封鎖後16年。そんな市の内政状況を省みて特種捜査機動隊が発足する。

 年代がはっきりしているのは、後に試験のために頭に叩き込んだからで、当時の朝子自身が特捜を特に意識していたわけではない。

 同時に煉瓦台市内に存在した陸上自衛隊は解体される。

 2001年の大規模外部感染以降、園山一司陸将によって率いられていた陸上自衛隊は外部との連絡を取れず、独自権限によって治安活動を行っていたが、これによりその歴史に終止符が打たれたことになる。

 煉瓦台市は陸上自衛隊による軍政から、投票によって選ばれた評議員による民政に移行しつつあった。

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