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Red eyes the outsiders  作者: 二上たいら
後日談的おまけ
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夜が明けて -2-

 一瞬と永遠に違いは無いと誰かが言った。

 ならばこれが走馬灯というものなのだろう。

 朝子はめくれたアスファルトの上に立っていた。

 長く長く連なっているのは配給を待つ人々の列だ。

 その横には黒ずんだ雪が高く積み上げられている。

 どんよりと重い色の空からはひらりひらりと白い欠片が舞っていた。


 ――ああ、これは古い、古い記憶だ。


 朝子の記憶が正しければこれは大災害から10年ほど経った頃の光景だ。

 <壁>の初期工事が終わり、ようやく資材が煉瓦台内部の復興に向き始めた時期のほんの初期の頃――。

 当時はまだ食事は今のように選んで得られることはなく、日々外部から届けられる配給の列に並ばなくてはならなかった。

 配給券の制度もまだ無く、足腰の立たないもの以外は子供でも受け取りにいかなくてはならなかった。

 だったから|朝子は毎日こうして母親と配給の列に並んでいた。


 ――母さん?


 朝子は握られた右手の先を見上げる。

 そこには優しく微笑み返す母の顔があった。

 心臓がどきっとする。

 それは朝子の記憶にある以上に今の朝子とよく似ていた。


 ――けれど母さんのほうが綺麗だ。


 朝子はそう確信する。

 母は化粧をしておらず、髪の手入れもできていない。

 けれどその微笑みは朝子の胸の奥をぎゅっと締め付ける。


 ――私はこんな風に笑うことはできない。


 朝子は母親を本当に心から愛していた。

 当時、父、勇司は煉瓦台市の復興のため各地を飛び回り尽力していたのだが、いてくれない父より、居てくれる母が朝子は好きだった。

 思い出すことのできる母との記憶はどれも幸せに満ちている。

 それは早春の淡い緑の色に似ている。

 ほんの少しの温もりが体をじんわりと暖める、そんな感じだ。

 それは幸せだった。

 本当に幸せだった。

 配給の食事は味気なく、レトルトや缶詰ばかりが配られた。

 風呂は無く、雨水を貯めたタンクから水を汲んで、濡らしたタオルで体を拭いた。

 暖房もなく、燃やせるものならなんでも燃やして暖を取った。

 雪の重みで建物がいくつも壊れて沢山の人が死んだ。

 毎日配給の列に並んだ。

 1日1回のそれを繰り返していれば季節は過ぎる。

 季節が過ぎれば春が来る。

 そのことを朝子らは知っていた。

 明けない夜が無いように、終わらない冬もまた無い。




 ――時が巡る。

 それは分厚い雲の隙間から、光の帯が大地に向けて幾本も伸びる日だった。

 子供の仕事と言えば、遊ぶことと配給の列に並ぶことだ。

 その日も朝子は配給のサイレンが鳴るまで瓦礫の街で他の子供らと一緒に遊んでいた。

 石で地面に絵を書いたり、追いかけっこをしたり、ままごとをしたり、どんな環境下でも子供らがする遊びというのは似たり寄ったりだ。

 その日はかくれんぼをすることになり、じゃんけんで鬼を決めると朝子たちは一斉に隠れるために散った。

 その頃は外でも隠れる場所は豊富にあった。

 崩れた建物や、瓦礫の隙間など、時にはそのまま本当に見つからなくなる子供もいたものだ。

 朝子は地面に落ちて刺さった標識の陰に隠れることにした。

 見つかりやすい場所だったが、服がそんなに汚れない場所でもあった。

 他の子供たちは隠れるためにならウサギの巣くらいの大きさの穴にだって潜り込んでしまうから、いつも服は泥だらけだった。

 そこは日が遮られて暗かったが、標識に開いた穴から光が差し込んでいた。

 その光の先、アスファルトがめくれた土の地面。

 どこから種が紛れ込んだのか、一輪のつぼみが首を伸ばしていた。

 朝子はかくれんぼをしていたことも忘れて標識の陰から飛び出した。


 ――花が咲こうとしてる!


 それは春の訪れを告げるもの。

 誰かが朝子の名前を叫んだが、誰がそんなことを気にするだろう。

 朝子は真っ先に母に知らせたかったのだ。

 現代とは違い当時はまだ井戸端会議が本当に井戸端で行われていた。

 井戸とは言っても給水タンクであり、その中身は雨水を貯めたものだ。

 飲める水は配給によって配られるものと、自分らで蒸留したものしかない。

 だったから雨水でも生活の中で必需品だった。

 体を拭いたり、掃除をしたりするのにどうしても水は使う。

 もっとも洗濯は川で済ますのが通例ではあった。

 そうであったから朝子が母を捜すのに苦心することはなかった。

 配給前のこの時間であれば大抵は給水タンクのあたりにいたからだ。

 朝子の思ったとおり、給水タンクの側には複数の人影が見えたが、その様子はいつもとは違っていた。

 皆、折り重なるように倒れていた。


 ――え?


 朝子は目に見えた光景が理解できなかった。

 地面に折り重なる人の形。

 だが人はあのように折り重なったりはしない。

 倒れた人の上にまた人、人、人、人、人、人、ひとだ。

 朝子に見えている世界の中に立っているのはたった一人だった。


「ア――」


 それと目が合った瞬間に朝子は理解した。

 これは違う。

 これは違う。

 これは違う。

 これは違う。

 これは、別の生き物だ。

 ダカラダレヒトリ立ッテナドイナイ。

 膝が折れた。

 腰が抜けた。

 幼い少女の下半身が完全に麻痺した。

 恐怖が全身にとどまらず、精神すらも侵した。

 恐怖が過ぎると震えさえ起きない。

 目を閉じることができず、朝子はそれを凝視していた。

 目を逸らすことすらできなかった。

 紅。

 それは一面の紅だった。

 両眼は真紅。

 絵の具より赤い。

 夕陽より赤い。

 顔にこびり付いたのは鈍い朱。

 固まりきらぬ血の色だ。

 唇から零れるのは唾液が混じった鮮血の赤。

 そのまとう服は黒に近い銅褐色の赤。

 元の色は分からないが、返り血が凝固した色だ。

 朝子はただ真っ赤だな、と思った。


「ごめんね……」


 それは言った。

 距離があるにも関わらずはっきりと聞こえた。

 恐怖は再燃する。

 それは謝った。

 これからすることに対して謝った。

 先に謝っておかなくては少女が謝罪を聞くことすらできぬと知っているから謝った。

 逃げなくちゃ、と朝子は思った。

 けれどその小さな体は動かなかった。

 それを知ってか知らずか紅のそれは歩み寄ってきた。

 それはその外見を除けば普通に見えた。

 普通の人間のように動き、普通の人間のように言葉も発した。


「ご飯食べなくちゃいけないの」


「……配給は、まだだよ……」


 恐怖のあまりに混乱したのか、朝子にはこれ以上の言葉がなかった。

 いや、そもそもそれの言う食事が何か、朝子には分かっていなかった。


「殺さないように食べるの、難しいの。だから、あなたは、がんばってね?」


 気がつけばそれは朝子の目の前に立っていた。

 朝子は完全に麻痺していて、もう言葉を発することも、指先を動かすこともできなかった。


 ――これは死ぬ。


 これで死なないわけがない。

 これだけ精神錯乱した発症者に接近されて生き残った例はこの後も含めてほとんどないからだ。

 そしてそれの手が朝子の頭に触れ、恐怖が臨界に達した少女はついに目を閉じた。

 だがそれの手は少女の頭に触れたままで止まった。

 永遠のように長い一瞬の後、朝子は恐る恐る目を開けた。

 最初に視界一杯に飛び込んできたのは赤。

 その真ん中に黒。

 それはそれの背中からお腹まで貫いた鉄の棒だ。

 そのときになって朝子は気づく。

 それのお腹は大きい。

 太っているのとは明らかに違う膨らみ。

 今にも弾けんばかりに膨らんだそれは、明らかに赤子がそこにいる証だ。

 その腹部を鉄の棒が貫いていた。

 唖然としたのは朝子だけではなく、それも同じだった。

 少女を見ていたはずの目が自らの腹から伸びたものを凝視していた。

 それからゆっくりとそれは背後を振り返った。

 そこに母がいた。

 朝子の母は朝子が見たことも無いような、鬼の形相で、それの背中にそこらの瓦礫から拾い上げたのであろう曲がった鉄の棒を突き刺していた。

 母の姿を見た瞬間、なぜか朝子は安心してしまって目の前で起きている全てのことを忘れてしまった。


「お花が咲きかけてたの」


 少女の口から漏れたそんな言葉を母とそれはどんな思いで聞いたのだろうか。

 母はにっこりと笑った。


「そう、良かったわね」


 そう言って朝子の母は娘を抱きしめた。

 温もりが少女を包んだ。


 ざくざく、ざぶざぶ。

 熱い温もりが頭から朝子を包む。

 頭から、肩から、降り注ぐそれは赤く、熱い。


 ざくざく、ざぶざぶ。

 ざぶざぶ、ざーざー。

 意識はとおく、記憶はどこまでも不確かに巡る。


 ざぶざぶ、ざぶざぶ。

 そう、何もかもが焼けている。

 体の感覚はほとんど無い。瓦礫にもたれるように倒れていて、その肩口の辺りに生ぬるい水が止まることを知らないように注がれている。


 ――私は――、生きている。


 少し咳き込むと、口の中に血の味が滲んだ。

 左手が焼けるように熱くて、持ち上げて見ると、手首が青く滲んでいる。


 ――内出血しているだけだ。折れてはいない。


 正吾があまりに強く掴むものだから、その指の跡がくっきり残ってしまっている。

 意識はまだはっきりしないが、不意に熱いものがこみ上げてきて、視界がぼやけ、揺らいた。


 ――どうして――。


 思わず両手で顔を覆う。

 体の節々が痛んだが、それも些細なことだった。


 ――どうして、私なんかのために命をかけるかな……。


 あの時、正吾は本気だった。

 正吾は本気だった。

 本気で自分が落ちてもこの手を離す気は無かった。

 一番辛いのは胸の痛み。


 ――どうして――。


 朝子の意識は再び断たれ、とおい、とおい混濁する記憶の海に落ちる。

 ざぶざぶ、ざぶざぶ。

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