赤の代弁者 -21-
月ヶ瀬朔耶を最後に無能力者の出現は止まり、当然それに呼応して連続殺人事件も止まった。
特捜は依然として深海透を事件の容疑者として追っていたが、その所在を掴めないままに捜査陣の規模は縮小に向かっている。
こうして無能力者連続殺害事件は何も解決しないままに終結を迎えようとしていた。
そして月ヶ瀬朔耶の死と同時に姿を消した人物が一人いる。
弓削朝子はロッカーの上に置かれている彼女が残した私物の入ったダンボールを眺めながらため息をついた。
そこには衣類や化粧品から、単なるメモの切れ端まで詰め込まれてある。
すべて彼女が私物化していた応接室に残っていたものだ。
「もう捨ててもいいもんかなあ」
「文句は言わないと思うけど」
ファイルにまとめる捜査資料の確認をしている真夜が朝子に答えた。
「う~ん、もうしばらくは置いとくか」
「結局、姉さんの言うとおりになったね」
「ん? なにが?」
「御剣京子は裏切るって」
「そんなこと言ったっけ?」
朝子は腕を組んで考えてみたが覚えが無い。
どうせまた真夜の前で姉ぶってそれっぽいことを言っただけに違いないから、少々むずがゆい。
「うん、あの人は仲間のためになら法を破るタイプだって言った」
「ふむ……」
どうやら思いつきで言ったにしては割りと良い線を突いていたのではないかと朝子は思った。
だがこの場合仲間とは誰を指すのだろうか。
深海透は違う気がした。
御剣京子が深海透に対して、彼を死地に追いやったという引け目を持っているのは間違いない。
しかし彼女は今回の事件に対する解決法で深海透と対立していたはずだ。
「よく考えたら御剣京子は別に法を破ってはいないんじゃないかな。行方をくらましただけで」
「行方をくらますのって十分違法だよ」
まあ厳密に法律を適用するとそういうことになるのかもしれない。
「ん~、でも私たちが動くようなことでもないでしょ」
「またそうやってめんどくさがる」
「だって面倒だもん」
机の上に突っ伏すとマウスに手が当たってスクリーンセーバーが解除された。
モニターには無数の顔写真と彼らのプロフィールなどが映っていた。
煉瓦台自治政府発足に伴う代議員選挙の立候補者一覧である。
ホイールを使って画面をスクロールさせる。
36名の枠に立候補者が224名。
想定していたよりずっと多く、選挙にまつわる警備等はすべて特捜にお鉢が回ってきた。
――ああ、面倒だなあ。
しかし手を抜くわけにもいかない。
これは内部世界が始まって以来、最初の本物の選挙だからだ。
やれるだけはやっておかないと何かあったときに言い訳が立たない。
スクロールしていく画面の中に見知った顔を見つけて手が止まった。
「まあいい方向には向かってる気がするなあ」
「なにが?」
「私の人生が」
モニターには優しげで大人しげな微笑みを浮かべる女性の写真が映っていた。
誰が見てもそこで一瞬画面を止めてしまうようなそんな美貌だ。
御堂寺静。
その横にはそう書かれていた。
御堂寺沙弥という女性がベッドに座っているだけで、その病室はまるで異国の寝室であるかのように華やかになった。
優しい笑みをたたえ、その柔らかい雰囲気を持つ女性はベッドの脇で林檎を相手にナイフを振るう女性を見つめている。
「ほぉら、できた」
そう言って黒埼静はくし型に切られた林檎と、長細く一続きになった林檎の皮を自慢げに差し出した。
「すごいすごい」
まるで童女のように目を輝かせて沙弥は静からその皿を受け取った。
「刃物の扱いくらいだものぉ。私が自慢できるのって」
そう言って静は手の中の果物ナイフをむき出しのままでくるくると回して見せた。
「そんなことないわ。お姉ちゃんは私の自慢のお姉ちゃんだもの」
「ホント、貴女には敵わないわねぇ」
刃をタオルで拭うと、静はそれを鞘に収めた。
「数え切れないくらい酷い目に合わせてきたと思うんだけど」
「あの人が必要だったからでしょ?」
まるでなんでもないことのように沙弥は言った。
「私なんかよりもお姉ちゃんの方があの人を必要としてたの、分かってるよ」
「研究のためだけどね」
「……ウソ吐きね」
沙弥は微笑んで言った。
「ウソじゃないわ。実はねぇ、黒埼の名前を返すつもりなのよ」
「そうなの? あの人、嫌がるんじゃないかしら?」
「それは無いわねぇ」
思わず静は苦笑してしまう。
「でもどうしてなの? あの人の子どもだっているんでしょう?」
「御堂寺に戻ったほうがね、都合が良くなったのよ。国連が内部世界の自治を認める方向で動いてるんだけど、内側で対立の火種が残っていてはいけないと言われてねぇ。私が御堂寺に戻って解決するわ」
「そう、争いを終わらせるのね」
「とは言ってもねぇ、緊張の結果よ」
静はもう一度苦笑した。
国連から自治という譲歩を引き出せたのは、御剣京子から得たもう一つの隔離世界の情報と、美奈が<かく価値ある言の葉>から聞き出した地下通路の情報によってだった。
これらの情報をネットを通じてばらまくぞ、と脅したというほうが近い。
アフリカの隔離世界は国連主導によるものだったし、地下通路のほうは寝耳に水であったようだ。
こちらは出たいと思えば出られるんだぞ、という態度を示すことで、かつての日本政府のような“いざという時は皆殺し”という方針を示すことのできない国連は、内部世界に対して内部世界内での緊張緩和を条件に自治を認めざるを得なかった。
「そういうわけで妙な諍いが残るのは宜しくないからね。貴女とも和解しにきたのよ」
「あら、私はお姉ちゃんとケンカしてたんだ?」
「ケンカとはちょっと違うかも。ねえ、退院できたら家に戻ってこない?」
「あの人も?」
「拳がねぇ、いいと言えば」
言うことはないだろうけれど、もし、万が一、拳がそうしてもいいというのならそれもいいのかもしれなかった。
「それじゃ、また来るわぁ。拳にも伝えておいてね~。貴女たちが籍を入れたいと思っているのなら私に遠慮することはないからって」
「――お姉ちゃん」
席を立って病室を出ようとした静を沙弥が呼び止めた。
「あの人はお姉ちゃんのことちゃんと愛してるわ」
「まさか。私に気を使うことなんてないのよぉ」
そう言って静は沙弥の病室を後にすると、廊下でスカートをぎゅっと掴んで立ちすくんだ。
壁に背中を預けて天井を見つめる。
思うことが多すぎて頭の中がパンクしそうになる。
「まさかこんなに人間らしい感情が残ってるとは」
思ったままが言葉になって静の耳に届いた。
顔を上げるとよく見知った顔がそこにあった。
「京子ちゃん……」
「まさか、私もあなたがこんなに人間らしい人だとは思っていなかったわ。ああ、私というのは御剣京子のことね」
「だろうと思ったわぁ。赤の代弁者さん」
いつもの笑みを浮かべて、静は京子を促して歩き出した。
二人は病院を後にして雪解けの始まった町を本部施設に向かう。
昼過ぎの新市街は人通りも多かったが、誰も二人に注意を払わない。
視線を向けることはあるのだが、その直後に正面を向いて元の用事を思い出すのだ。
そしてそのときには誰を見たかなどすっかり忘れてしまっている。
「まずおめでとうと言っておく」
「なに?」
「代議員選挙。あなたは当選で間違いない。得票率はぶっちぎりでトップ。初代議長も狙えるでしょう」
「それは良かったわぁ。実を言うとちょっと不安だったもの。御堂寺の跡取り娘だと知られたらやっぱり印象悪いじゃない」
「特捜関係者からはあまり良くは思われてないようね。でもこうなると分かってたから彼女を3課に無理やりねじ込んだんでしょ」
「聞かなくても分かってるくせにぃ」
御剣京子の意識が大きくため息をついたので、彼女の肉体もそれに従った。
「それで私は、どうなるの?」
「あなたの主体はどちらかというと赤に寄っているわねぇ。御剣京子をまるで他人のように感じているんでしょう?」
「ええ」
京子は頷いた。
「けれど肉体的には一切変化の兆候はないしぃ、<瞳>もあなたを以前と変わらない個体として識別している。実際のところあなたは100%御剣京子だと断言できるわぁ」
「では私は御剣京子?」
「そうよぉ。でも私の知っている京子ちゃんではないわね~」
「どういうこと?」
「人は変わるわ。あなたにべったりだった透くんが今やあなたを追う刺客となったように。あれほど黒埼に拘っていた私が御堂寺に戻ったように。経験と環境が絶対だと思っていた自身の理すら変えてしまう。もちろん変わらない人もいるけれど、そういう人は稀ね。人は意見を変えるものよ。あなたもそう。ちょっと人とは違う経験を多く積んでしまっただけ」
「じゃあわたしは?」
京子の手が静の腕を掴んだ。
「わたしは誰なの?」
ぎゅっと思いつめた表情は京子が静に見せたことのないものだった。
弱く、脆く、そして幼く見える。
京子が取り込んだ月ヶ瀬朔耶の記憶を元に構築された人格パターンだ。
「御剣京子よ。夢が無くてごめんなさいねぇ。たとえあなたに月ヶ瀬朔耶としての記憶があるんだとしても、今あなたがしている経験は御剣京子としてのものなのよ~」
「あらあら、では私も京子さんなのね。御剣京子なのね」
続いて現れたのは大本となった<赤>と呼ばれていた女性の行動パターンだった。
人格パターンといわないのは本人の記憶を元にしたものではないからだ。
<赤>を知っている他人の記憶を元に、<赤>ならこうするであろうという行動を抽出したものだ。
「も~、からかってるんでしょ」
月ヶ瀬朔耶の場合と違い、行動パターンでしかない<赤>はそれを模倣しようとする意識の流れがなければ表には出てこない。つまり御剣京子がそうしようと思わない限り現れない。
「私が言いたいのはね、つまりこういうことよ。たとえすべての感染者の記憶を拾い上げて、元の御剣京子の記憶がすべてなくなってしまっても、そこにいるあなたは御剣京子であるということ。その肉体が死ぬまではね」
「実に現実主義的な意見をありがとう」
「どういたしましてー」
「では私は御剣京子であるとして、赤の意識についてなにか分かったことは?」
「オフレコでいいかしら?」
「オフレコって」
京子が苦笑する。
「他言無用。聞かなかったことにして。仮説に過ぎないけれど、私が言ったとなれば冗談じゃなくなるから」
「なるほど議長としての自覚十分ということね」
「まず分かっている事実の再確認をするわね。赤目症ウイルスはヒトに感染するとその人の遺伝子構造を書き換えてしまう。これによって感染者は厳密にはヒト、つまりホモサピエンスとは言えなくなってしまうわ~」
「公表はされてるけど誰も目を向けない真実ってやつね」
「認められないわよねぇ。元の遺伝子情報が失われてしまう以上治療は不可だし、ウイルスを変異させてヒト遺伝子構造に戻す実験もしてみたけれどダメだったわ~。完全に失われたものは復元できない。とにかく私たち感染者は全員が外部世界のヒトとはまったく違う生き物であるということ。いい~?」
「ええ」
「公表されてるけれど誰も目を向けない真実その2にいくわよ。この感染者の持つゲノムは現在解析が進んでいるどのゲノムとも類似していない。つまり私たちは現在ゲノム解析が進んでいるすべての生き物から見て仲間とは言えない。この意味が分かるぅ?」
「サルの仲間ですらなくなった、ということでしょ」
「そう。人類とは言っても結局はサルの一種よねぇ。ところが感染者はそうじゃない。それどころか、どの分類にも当てはまらない。今のところはね」
「得体の知れない生き物ね」
「まったくねー。自分のことでなければその一言で済ませられるのにねぇ」
「それこそまったくだわ」
「残念ながら私たちこそが当事者だものねぇ。さて講義の続きよ。まずこの新種の生き物をレッドアイと呼ぶことにするわ」
「大半は赤目じゃないのに?」
「大半は赤目じゃないのに。それとも相互連結群体生物とか言ったほうがいいかしらぁ?」
「レッドアイでいいです」
「よろしい。あなたがまさに実践しているように感染者はすべて何らかの手段で繋がっているわ。私はフェロモンのような伝達物質があるのだと思ってるのだけど、まだ見つかってないわ。そうだと仮定して当然その伝達物質の空中散布濃度には偏りが出てくるわよね。その偏りこそが<赤>が意識だとか、思考だとか呼んでいるものの正体じゃないかしら。怖がっているレッドアイの数が多ければ、恐怖を伝える伝達物質が濃くなって<赤>は恐怖を感じる、というように――。赤は記憶を保持できないと言っていたわね」
「ええ、だから今は私の記憶容量を貸しているわ」
「それじゃ赤は単体でいるとき怖いとは感じても何が怖いとか、そういうことまでは分からないわよねぇ。そこにあるのは単なる代謝反応のようなものよ。だから赤は誰かの肉体を得て初めて活動を始められる。正確には記憶を格納できる場所を得て初めて知性が出現するのよ」
「つまり意識など呼べる代物ではないのね」
「とは言っても一度記憶装置を得れば、そのすべての感染者の記憶にアクセスできるという能力によってすぐさま他人が記憶している自己のありようを集めてきて<赤>を再構築してしまうんでしょうけどねぇ」
「そしてその記憶の中の<赤>が外に出ようとしていたから、私は自分が外に出なければならないものだと考えた」
「そ、まさにそれ。自身の確固たる記憶を持たない<赤>にとって自身の行動パターンから外れるのは自己否定に他ならないんだわ。そんなことできるわけがないわよね」
「それじゃこの内部世界から出て行きたいと思っていたのは大元の<赤>で、感染者の意思の総体がそちらに偏っているというわけではないのね?」
「その答えは選挙で出るでしょうね。みんなの意思を取りまとめるのにするのが選挙なんだもの」
「そうか」
そう呟いて御剣京子はじっと押し黙った。
「御堂寺で透くんを見つけたら赤の代弁者を殺しても何の意味もないと伝えておくわ。それで納得してくれたらいいけどねぇ」
「――はい、そうします! ってタイプだったけど。昔は。でも今は違うわね。自分のしていることで世界が救われていると本気でそう思い込んでる」
「赤は透くんの思考は読めないんじゃなかったの?」
「京子がやった」
なるほど。
機会を見つけて直接目を覗き込んだのだろう。
今のところ深海透が京子=赤の代弁者だと気づいた様子は無い。
彼らが追っているのは無能力者だから当然御剣京子が赤の代弁者になっているとは気づかない。
とはいえ、
「バレたら殺されてるところよぉ」
「分かってる。二度とやるつもりはないわ」
「お願いね。また連続殺人が始まったりしたら流石に隠しおおせないわよ」
「でも私が死ねばまた新たな赤の代弁者が生まれるわ。それはどうしようもないこと」
「それについて案があるわ。京子ちゃん、あなたはこれから<赤>を名乗って生きなさい」
「正真正銘の<赤>になれ、と?」
「いいえ、赤が誰かの意識に固着して記憶容量に自身のあり方を刻み付けるときに、<赤>と呼ばれていた誰かがこの内部世界を守るために尽力していたとなればどうなるかしら。あなたの残りの人生を使えば以前の赤のあり方なんて十分に払拭できる。違う?」
「つまり赤の信じている自分の生き方を根本から変えてしまうのね」
「そう、赤が死ぬたび記憶をリセットし、他人の記憶にどう残ったかでその行動方針が決まるというのなら、赤は正しく生きたという記憶を他人の中に多く残せばいい」
「考えておくわ」
本部施設の建物が見えてきて京子は足を止めた。
能力を使えば気づかれず中に侵入することも簡単だったがそうする意味はない。
京子はその場で振り返った。
静は足を止めた。
振り返らない。
「これからどうするつもり?」
「とりあえずは死ぬまで生きるわ。それが約束だからね」
雲の合間から太陽が顔を覗かせた。
光の柱が幾本も地上に降り注ぎ、内部世界を照らした。
溶けて泥と混じり茶色に変わった雪を踏みしめて二人の女性はそれぞれ別の方向に向けて歩き出した。
二人の道は違えどもこの先何度も交差することになるだろう。
ぶつかるのか寄り添うのかはその時になってみなければ分からない。
ただ一つだけ間違いが無いのは、冬が終わろうとしているということだけだった。
これにて本編は終了です。
明日からはちょっとした後日談的ストーリーを。




