赤の代弁者 -18-
電灯が一斉に消えたのはまさに月ヶ瀬朔耶の腕に注射の針を突き刺そうとしたそのときだった。
びくりと朔耶が腕を引いて、その姿が闇の中に消えた。
狭い独房だというのに明かりが消えると距離感は薄れ、闇の中はまるで無限の広がりを持っているかのようだった。
慌てて左手で壁を探り身を寄せた。
「大丈夫よ。落ち着いて」
自分が落ち着いているかに関してはまったく自信が無かった。
2、3、4秒……、5秒が過ぎても非常電源に切り替わらない。
つまり3系統ある電源がすべてダウンしたということになる。
冬場は雪の重みで電線が切れることが稀にあり、停電自体には慣れっこになっていたが、3系統同時となるとただ事ではない。
偶発的な事故でそれが起こる可能性は極端に低い。
つまりこれは人為的なものだ。
目の前が真っ暗になった。いやすでに暗かったのだが。
携帯電話を取り出すと、独房の中が仄かに照らし出された。
独房の隅で月ヶ瀬朔耶は身を縮ませて震えている。
アンテナは圏外になっていた。
それはそうだ。
電源が落ちたときに施設内の受信アンテナも使えなくなっている。
「……れがきた……」
震える唇がそんな言葉を紡いだ。
「かれがきた……、彼が来た……」
それが誰を指しているかなんてわざわざ訊く必要も無い。
「見えてるのね!」
「助けて――」
「助けるわ。トールはどこに」
「もう、そこまで」
そう言って朔耶は京子の腕にしがみついた。
携帯が落ちて、影が揺れる。
どこかでどすんと人の倒れる音がした。
左手には少女、右手には抑制剤。
マグライトの灯りが廊下を舐めるように照らし出すと、その中に身をかがめた人影が浮かび上がった。
「誰だ! 所属を言え」
「撃つな。見りゃわかんだろ、特捜だよ! 1課だ」
特捜の制服を着た男は胸ポケットから身分証を提示しつつ両手をあげ無害であることを示す。
「そりゃよかった。一体なにが起きてんだ」
マグライトの光が身分証に当てられ、ホログラムが小さな虹を作った。
身分証を確認するためにゆっくりと男に近付いていく。
「さあな。また雪で電線でも切れたんじゃないか? 暖房も切れるからやなんだよな。停電」
肩をすくめる男に呼びかける。
「すぐ直るさ。目が覚めたころには明るくなってる」
透はマグライトを振り下ろして男の頭に叩きつけた。
すっかり油断していたところに重い一撃を食らって特捜の男は壁にもたれるように倒れた。
マグライトを男の体に乗せるように落とし、空いた左手でスタンガンを抜くと男に押し当てる。
まったく油断してくれて助かった。
よもや侵入者から声をかけてくるとは思いもしなかったのだろう。
でなければ右手の銃を使わなければいけなかったかもしれない。
8階に入って最初の男を無力化してから3分と少し過ぎた。
あまり時間の猶予は無い。
殺さないように出力を下げたスタンガンの効果はもって5分というところだ。
これで無力化したのは4人目だった。
ここまではバラバラに出会っているから対処できているが、何人かでまとめてこられると厄介だ。
できれば暗いままで通り過ぎてしまいたいところである。
さらにしばらく進むとようやく留置施設の入り口についた。
通路の角からそっと覗くと、やはりそこには複数の人影がマグライトで辺りを照らしながら警戒している。
さらに入り口は太い格子がかかっており、強行突破するのは難しそうだ。
受付を守っている何人かを倒して鍵を手に入れる必要がある。
――となると、やるしかないか。
ずきずきと頭が痛むこの状況ではあまりやりたくなかったが仕方ない。
透はポケットから拳銃の弾丸を数発抜くと、タイミングを計って廊下の向こう側に向けて投げた。
――カカン――という乾いた音とともにマグライトの光が一斉にそちらに向く。
その瞬間を狙って透は格子の奥に向けてマグライトを照らした。
暗闇に閉ざされていたその向こう側が見えた。
見えると同時に視点を飛ばし、その視点に実体化する。
すぐにマグライトを消して、廊下の死角に飛び込んだ。
入り口を窺うと今の今まで透がいた角もライトで照らされていた。
一瞬の光を見逃さなかったのだろう。
だがもうそこには透はいない。
「んぐ――」
強烈な眩暈と痛みに透は口元を押さえて呻き声と吐き気を飲み込んだ。
ここで声を漏らして見つかるわけにはいかない。
音を立てないように足早に先に進む。
いくら煉瓦台全域を扱う留置施設だと言っても広さはそれほどでもない。
最大収容数も20名ほどだ。
その一番奥に留置施設としては異例の独房がある。
危険な発症者を扱う特捜ならではの施設だ。
急襲が間に合っていればまだ赤の代弁者はそこにいるはずだ。
そして代弁者を殺せば痛みはとりあえず治まる。
そしたらここを脱出してまた赤を探す。
いつもどおりだ。
いつもと変わりない。
「おい、大丈夫か?」
ライトで照らされる。
しまったと思ってももう遅い。
透は壁にもたれるように倒れ込んだ。
「しっかりしろ、おい」
演技ではない苦悶の仕草に男が駆け寄ってくる。
透はその腕を掴んで投げ飛ばした。スタンガンを押し当てて無力化する。
「どいつもこいつも平和ボケしやがって……」
ありがたくもあり、困った話でもある。
だがとにもかくにも、これで終わりだ。
目の前の扉に取り付いて引くと想定外なことに鍵はかかっていなかった。
銃で抜くつもりだったのに拍子抜けする。
そしてその独房の中に向けて透はマグライトのスイッチを入れた。
部屋の隅で膝を抱えた少女が見える。
間違いない。
赤の代弁者だ。
哀れな赤の犠牲者だ。
これでやっと痛みからは解放される。
透はマグライトを向けたままで右手の拳銃の引き金を引こうとして、
ドン――、
と、体に重い衝撃が走り、独房の外に突き飛ばされた。
だが予期していなかったとは言え、透は引き金を引いた。
ほとんど反射的に2度。
リノリウムの床に背中から落下して、後頭部を強かに打ちつける。
呼吸ができないのは胸にいいタックルを食らったからだ。
手元を離れて床を転がったマグライトがぐるぐると回って透にぶつかり馬乗りになって動きを封じている誰かを照らし出した。
「きょ……う、こ、さん」
目の前に突きつけられたのは注射針だった。
恐ろしいほどの手際の良さで拳銃を奪われ、弾丸を抜かれる。
そして透に馬乗りになったままで京子は振り返った。
「朔耶ちゃん、だいじょう――」
その顔が凍りつくのを透は見た。京子が慌てて透の上から独房の中に駆け込む。
――やったのか?
いや、まだだ。
なぜなら痛みがまだ消えていない。
赤の代弁者は生きている、まだ。
透は京子が投げ捨てた拳銃を拾い、弾丸を込めなおした。
そしてマグライトを拾い、独房の奥に向けた。
少女が血の色に彩られていた。
白かったワンピースが今は真っ赤に染まっている。
傷は胸と腹のようだった。
まだ生きているが致命傷だ。
もう数分も持つまい。
「やだ、いたい、いたいよ……」
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
「たすけて、たすけてママ……」
「私のせいだ……」
必要ないけれど、とどめをさそうと透は思った。
この現実を受け止めるには京子はあまりにも脆く見えた。
だから辛い現実はさっさと終わらせるべきだ。
「止められたのにっ!」
しかし銃を向けようとした途端、京子が少女をかばうように抱きしめて、透は銃口のやりばを失ってしまう。
「私の目を見て――」
京子がなにをしようとしているのか透には分からなかった。
「私の目を見て――」
なぜなら透は京子の能力の真の部分を知らなかった。
「あなたが赤だろうが、赤の代弁者だろうが、関係ない。月ヶ瀬朔耶が殺されるのを私は見過ごした。一瞬迷った。これで終わるかもしれないからって、あなたが死ねばそれで終わるかもしれないからって」
透は一歩京子に近付こうとして、注射器を踏みつけた。
空のそれがパキンと音を立てて割れた。
「私にはあなたの死に責任がある」
「そんなものあるわけがない」
少女を殺したのは透だ。
それだけは履き違えてはいけない事実だ。
でなければ何のために透が自分の手を汚しているというのか。
「私は間違ってた」
「京子さんは間違ってない」
「私は正しい選択をしたつもりだった」
「それでいい!」
だが京子は透の言葉など聞こえないように独白を続ける。
「でも心が正しいと言ってくれない。私は私のやり方であなたを救うわ。だから、おいで――」
数秒の空白があった。
透は銃を構えたままそれをどこに向ければいいか分からずに立ち尽くしていた。
やがて京子はゆっくりと立ち上がり、振り返った。
伏目がちな紅い瞳がライトの照らされて輝いた。
その足元でさっきまで荒い呼吸を続けていた少女が事切れていた。
――死んでる――。
だがそんなことはありえなかった。
透はもう一度少女をしっかりと確認した。
出血は致死量を上回っており、独房の床を血で染め上げていた。
幼い体はぴくりと動くこともなく、呼吸している様子もない。
黒い瞳は濁って沈みもはや何も映していない。
――バカな、なら何故――。
痛みが消えないのか!
「トール……」
京子が言った。
「早く逃げなさい。早く!」
事ここに至って透は気がついた。
すでに任務は終わっている。
今は一刻でも早く特捜本部施設を脱出しなければ捕まってしまい、連続殺人犯として裁かれるだけだ。
透は弾かれたように走り出した。
痛みは消えなかった。
「ごめんね……」
残された京子は少女の遺体に向けて呟いた。
「こうするしか思いつかなかったの。え、ママに会いたい? そう、じゃあ今度会いに行こうね。遠くから見守るくらいはできるよ。うん、あなたの力を借りてもいいかもしれない。でも――」
暗闇の中で京子は両手で自分の顔に触れた。
「私は……御剣京子?」




