赤の代弁者 -15-
冷たい壁に背中を預け、月ヶ瀬朔耶は携帯電話で子供向けのアニメ番組に見入っていた。
夕食は温めて出来上がりのレトルトだったが、濃い味付けが少女の味覚に強い満足感をもたらした。
赤の意識は調味料が多すぎるのではないかと心配したが、肉体の満足感には抗いようもない。
あまり良くない兆候だと赤は感じた。
肉体との相性が良すぎるというのも問題のようだ。
これまで赤とその肉体との間では精神が常に優位に立っていたが、それは肉体からのフィードバックが少なかったからでもある。
今は肉体の存在感がありすぎて、それに引きずられる。
つまり食欲や睡眠欲が精神の活動を阻害するのである。
それだけではない。
感覚、特に視覚以外の触覚やら嗅覚、味覚は赤にカルチャーショックを与えるには十分のものだった。
しかし何故に?
赤は識っている。
これまでにも何度も肉体を持っていたし、すべての感染者の記憶にもぐりこむこともできる。
人の知りうることはすべて識っているにも関わらず、この月ヶ瀬朔耶を通じた体感はすべて新鮮なものとして赤の意識に書き込まれた。
つまり識っているということと、体験したということの間には容易には超えられない壁があるということだ。
まあ仕方がないか。
赤には脳が無い。
脳の代わりに意識を発生させているのは感染者全体の意識の揺らぎのようなものだ。
だから赤には記憶を書き留めておく場所がない。
赤を知っている人間の記憶から、赤の経歴を辿ることはできるが、自身の記憶というのは今ある肉体の分しかない。
つまり肉体を持つたび毎回同じように感動し、同じように考えているのかもしれない。
誰にもそれを語らずに肉体が破壊された場合、それらの記憶は肉体の記憶ごと葬り去られてしまうからだ。
「もう来たんだ……」
つい口走ってしまったのも、肉体との同調が強すぎるせいだ。
「なにか言ったか?」
「テレビ!」
看守にアニメを邪魔されたことを怒った振りをして、赤は特捜本部内に張り巡らせていた監視網に意識を回した。
笹原美禽・深海透は赤にとって最大の脅威であるから、常にその動向は監視している。
問題はこの二人が今や同一人物であり、その主体である笹原美禽が御堂寺の本家の離れから一歩の外出しないことだ。
赤が深海透に接触するためには笹原美禽を経由する必要があるが、笹原美禽はそれをさせないために意識のほとんどを精神世界に集中し、赤からの接触を遮断しようとしている。
そのため赤は深海透の動向にまでは入り込むことができない。
せいぜい深海透の周りの人間に入り込んで様子を窺うくらいだ。
だが深海透はそのことを知っていて単独行動しか取らない。
人の目に触れることすら稀だ。
まったくもって徹底している。
深海透が笹原美禽に接触を取るのすら、赤を殺した直後のみで、数日もしないうちに失踪する。
内部世界のほぼすべてを把握している赤にとって深海透は、まるで地図の中にぽっかりと空いた黒い穴のような存在だった。
いや穴ならまだいい。
どこが欠けているか分かるからだ。
だが深海透は覗き込んだ地図の裏側から銃弾を放ってくる狂気だった。
しかしその狂気と言えど、特捜本部という厚い防護壁までは通り抜けられなかったらしい。
長瀬練太という男が深海透と接触した。
弓削朝子が配置した特捜隊員の一人だ。
彼は深海透のチームメイトだった遠野水瀬という女性に特別な感情を抱いており、行方不明の彼女の消息を知るために今回の任務を特別なものだと見なしていた。
そのため配置された非常階段で襟章を外し、任務を捨て、深海透から遠野水瀬の情報を引き出そうとした。
なんてことを!
思わず悲鳴を上げそうになって、月ヶ瀬朔耶は慌てて口を塞いだ。
彼に与えられていた任務は見張りであり、深海透を発見したのならば何よりもまずそのことを周知しなければならない。
でなければ何のための警戒網か。
赤の居る独房をきっちりと囲んでいた警戒網に穴ができた。
そしてそれに気づいているのは自分ひとりだ。
これはまずい、非常にまずい。
長瀬練太が深海透を足止めなりなんなりできれば良かったものの、彼はあっという間に倒されてしまった。
何の役にも立っていないどころか、いい足手まといだ。
この留置所の警備は決して緩くはないが、深海透の空間跳躍能力のような能力に対応しているとは言いがたい。
突破は容易ではないが、不可能ではないはずだ。
死ぬのかな……。
月ヶ瀬朔耶は無意識に両の手を擦り合わせるようにして握り込んでいた。
手のひらはじっとりと汗ばんでいて、小刻みに震えている。
死ぬのは怖い。と、赤は初めて思った。
いやもしかすると毎回思っているのかもしれないが、この肉体になってからは初めてだった。
助かる糸口を探して、笹原美禽の記憶を探ると、そこに赤から受けた精神攻撃を見つけた。
以前の赤は笹原美禽に対して直接痛覚に呼びかけるような方法で攻撃を行っていたようだ。
そしてそれは深海透に対して効果的とは言えないものの、少なくとも笹原美禽の自由は奪ってくれる。
赤はすぐさま笹原美禽の記憶を反芻して、その痛み、苦しみを自身に取り込んだ。
そしてそれそのものを美禽の視覚から送り込んだ。
痛みは凄まじく赤の意識をも焼いたが、月ヶ瀬朔耶の肉体を通さないそれは知識としての痛みでしかなく、苦しみ悶え涙した、というだけのことでしかない。
ぶちぶちぶちとイメージが音として聴覚に似た感覚を刺激した。
痛みを嫌った意識が次々と赤との接続から切れていく。人の無意識は痛みを嫌い、それが自身に及ぶよりも早くそこから逃げ出してしまうのだ。
――まずったかな……。
残ったのは痛みを無意識に受け入れている魂たち。
ほとんど孤独に近くなった意識の平原で赤はわずかに残った意識たちの中から特捜本部にいるものを探した。
――違う、違う、違う――。
意識の距離は物理的な距離とは比例しないので、赤の近くにいる意識が実際に赤の近くにいるとは限らない。
いやそういう意味でなら、赤はすべての感染者と等距離の位置におり、この視覚イメージはあくまで赤自身が作り上げている幻想に過ぎないのだが――。
――うるさいよ。そこの意識!
赤は駆けた。
今の赤は劇薬のような痛みを伴っていて、この場に残っている意識らも赤に触れられるとたちまち逃げた。
逃げない意識もいたが、そういう意識はすべてハズレだった。
無限にも等しい時間が過ぎたような気がしたが、赤にしてみれば刹那は無限であり、すべてのことは実のところ同時に行われていた。
つまり捜索開始と同時に赤は発見していたということになる。
発見した後に捜索した意識の総数を無意識に数えたので、ひどく時間がかかった気がしただけだ。
そしてそんな気がしたから走り回ったような気になっただけだ。
赤に残されたラインの中に特捜本部内の発症者が一人いた。
感染者も数名いたが、深海透のことを伝えるためには相手は発症者でなければならない。
感染者と発症者はまったく違う生き物だ。
少なくとも赤から見ればそう見える。
感染者の記憶は読み込めても手が出せない。
規格が違うのだ。
赤はその意識に向けて長瀬練太の視覚から得た深海透の姿を送りつけた。
赤にできるのは視覚を介在した干渉だけだ。
だからその発症者が見せ付けられた映像からその危機を理解できなければならない。
可能性は低いな、とその発症者の記憶を覗いて赤は落胆した。
本当ならばそんなに難しいことではなかった。
赤は月ヶ瀬朔耶として危機が迫っていることを看守に伝えればよかったのだ。
知った理由など赤の所為にしてしまえばいい。
それだけで現地は緊急事態を理解しただろう。
だが精神世界から人と触れ合うことに慣れすぎた赤にはそんな簡単なことも分からなかったのだ。
吉田直樹は突然脳裏に浮かんだその映像が意味するものにしばらく気がつくことができなかった。
何故ならば彼が最後に<映像>を見たのはもう何ヶ月も前のことだったからだ。
<椅子>に座り、手にした<本>を<机>の上において吉田直樹は思案した。
彼の視界はすべからく文字で構成されている。
真っ暗な世界の中に白抜きで書かれた文字が彼の世界のすべてだ。
<椅子>も<本>も<机>も、その文字がそこにあるだけで、その形が見えるわけではない。
かく価値ある言の葉、それが彼の能力に与えられた名前だった。




