赤の代弁者 -13-
「本当にそれで終わるの?」
それはこの事件の解決策としてはあまりにも単純すぎる気がしてならなかった。
なぜならもう数え切れないほど――実際には三桁にも遠い――赤は殺されてきたというのに、ただ抑制剤を投与して殺せば終わるだなんて。
「あら、終わるなんて言ってないわよ」
黒埼静が流し目をよこした。
「終わる可能性があるだけだわ。それもどちらかと言えば分が悪いわよ。だって赤が感染者を襲って従にしているという可能性のほうがよほど高いもの。ただね――、それをすれば終わる可能性があるということに変わりはないわけよ。そこが重要なの」
「そうね。そうだった。忘れないようにする」
「それで、やるの? やらないの?」
笑顔をこれっぽっちも絶やすことなく黒埼静は京子に訊ねた。
「……可能性があるというだけで人の命を奪えるわけがないでしょ」
「でも透くんが殺しに来るんでしょ? 止められるの? 止められなかったらどうするの? ――どうせなら抑制剤だけでも打っておけば?」
「それは、確かに……」
現実的な判断だと言えた。
月ヶ瀬朔耶が抑制剤に対して拒絶反応を示さないことはすでに分かっているし、無能力者であるからそれによって生活に変化を及ぼすということもない。
もちろん少女が殺されないように努力はする。
だがその上で防ぎきれなかった時のために保険をかけておくのは当然のことだと言えた。
少女を守りきれればそれでいいし、もし守りきれなかったとしても抑制剤で赤が復活するかどうかを確かめられる。
……ちょっと、待ってよ?
京子は自分が今考えたことを反芻した。
「――られる。ですって……」
「なぁに?」
つまり今、京子は少女を守ると言ったくせに、彼女が死んだ時の勘定を始めたのだ。
守ってどうするのかすらまだはっきりしていないのに。
「……らしいわよね。本当にアンタらしい」
自分の手を汚すことなく、どの目が出ても損をしないように手を打っておくというのは、実に黒埼静らしい。
「あらまあ、なにかいけなかったかしら?」
「いけなかないわ。全然悪くはないのよ」
この場合は別にそれで誰かを陥れるというわけではない。
全体の利益を考えてもそうするべきだろう。
単にやり方がいけ好かないだけでしかない。
「ありがとう。助言に感謝するわ」
「ううん。こちらこそありがとうを言わなくちゃね。外の感染者のことはもう気にしなくてもいいわよ。こちらで手を打っておくもの」
「それなら教えたかいがあったってもんだわ」
無論、黒埼静が外部世界を感染漏れから守るために積極的に支援を行うなんてことはないだろう。
だがそれでも国連が事態に対処しきれなくなって泣きついてきたときにできるだけ支援を高く売りつけるための用意は始めるに違いない。
それだけでも京子が一人でできることよりはずっと有効のはずだった。
雪は止まなかった。
雪原迷彩の代わりの白いシートの下で、透は紙巻煙草に火をつけた。
深く吸って息を止めた。
酸欠でちりちりと細胞が死んでいく。
“やめなよ。体に悪いよ”
透は何も答えずに、ゆっくりと吐けるだけ息を吐いた。
がさりとシートの上から雪が落ちた。
「問題ない。視界はほとんど無いし、臭いを気にするような状況でもない」
“そういうことじゃないよ”
咥え煙草で顔を上げる。
シートと屋上の隙間から特捜本部の建物が見えた。
夕刻に差し掛かり、空の色は黒から漆黒に移り変わりつつある。
管理自治機構本部でもあったその建物には現在、煉瓦台自治政府本部という名前がついている。
実際には国連の間接統治政府だ。
――政治ごっこだな。
頭が日本政府から国連に移り変わっただけで、内部で実務を担っている人間は変わっていない。
結局のところこれは赤目症という特異な力を巡る政戦というわけだ。
“だからふーさんとかが戦ってるんでしょ”
「そういうことだな」
本当の意味で内部世界の人々のための政府を作るためには特捜のように内部世界の治安維持だけでは足りない。
外圧を跳ね飛ばす武力が必要なのだ。
「でもまあそれは御堂寺の仕事だよ。俺らのじゃない」
“そうなのかなあ”
「そうさ。……そろそろ時間だ。行こう」
雪の中に煙草を突っ込んで、シートを跳ね上げると、降り積もった雪が舞った。
ばさりと風に揺れるシートをマントのように体に巻きつける。
「美禽、頼んだ」
“はいはい”
雪の積もった屋上を走り、その縁を強く蹴った。
降りしきる雪の中空に透の体は放り出される。
活性化。
世界すべてを覆う平面が展開する。
透の足元より下の世界はその存在を失う。
その平面から突き出しているのは、それを越える高さを持つ建物だけだ。
上へ!
平面を蹴り、再活性、ただし角度をつける。
30度ほどの勾配に平面を展開しその上を駆ける。
もしこの時誰かが空を見上げていれば、雪空を駆けていく白い影が見えただろう。
見えたとしてもきっと気のせいとしか思わないだろうし、誰かに話したところで誰も信じないに違いない。
透は空に駆け上った。
十分な高さを得たところで、平面が消える。
“ここからなら届くでしょ”
「ああ、十分だ」
透の視界には特捜本部の屋上が見えている。
1キロ先だというのにバカみたいに大きい。
こんなものを作る労力があればもっと多くの市民の住居を再建できたろうに。
「そう言えばさ」
“ん、なに?”
「いや、なんでもない」
“そっか、でもまあ分かってるよ”
「そうか」
すとん、と透は特捜本部屋上に降り立った。
マント代わりのシートを放す。
山からの風に乗ってシートは雪空の中に消えた。




