赤の代弁者 -10-
その少女――また少女だ――は月ヶ瀬朔耶と言う名前だった。
11歳、昨日の昼過ぎ、学校から帰宅後に発症した。
母親が気づくと同時に、その母親を突き飛ばし逃走。
精神錯乱を疑った母親が特捜に通報して一課が出動。
22時を過ぎて非常線に引っかかった少女を抑制銃を使い確保。
この時に激しく抵抗したため、独房に入れられ一晩を過ごす。
本日になり抑制剤が抜け、落ち着いているのを確認して能力診断テストを行った結果、無能力と判定。
現在に至る。
「帰宅中を襲われたんだわ」
「赤とやらが本当にいるんならね」
接見は約束どおり人の目がある場で行われることになった。
具体的には朝子と真夜のことだ。
朝子は面倒くさがりのくせに、面倒見のいいところがあって、京子はそこを高く評価していた。
「深海透が突然現れるとか無いわよね……」
「さすがに本部内の留置所は無理でしょ」
「でも彼は元々本部に住んでたし、内部構造には詳しいはずだわ。神出鬼没な能力者だもの。何が起きても不思議じゃない」
「まあ、そうかもね」
トールの能力が瞬間移動に達していることを京子は特捜に教えていない。
だから朝子の認識ではトールの能力は視点拡張のみのはずだったが、そこは元特捜司法官というべきか。
状況証拠から彼女はトールの能力の本質にある程度近付いていた。
とは言え、京子自身もトールから能力について何が起きたのかを聞いたわけではない。
ただ能力は単純に分類できたり、理解できる類のものではないということを再認識しただけのことだ。
ごんごんと接見室の扉がノックされた。
「どうぞ」
と、朝子が言う。
扉の向こうからは一人の少女と、二人の特捜隊員が現れた。
確認するまでもなく月ヶ瀬朔耶だ。
ぎゅっと口元が引き絞られている。
まるで仇敵に出会ったかのような目つきだった。
「座って」
朝子が向かいの席を手で示すと、少女は素直に従った。
1課隊員の2名は壁際に待機する。
「緊張しなくてもいいわ。難しい話は一切無し。逃げたことを叱るつもりもないし、罰を与えようってつもりもない。ただいくつか聞きたいことがあるだけなの。いい?」
「…………」
少女はあくまで警戒を崩さずに頷いた。
「御剣さん、どうぞ」
「打ち合わせどおりにお願いね。さあ、それじゃ朔耶ちゃん、私の目を見てくれるかな」
少女の真っ赤な瞳が京子の目に映った。
リビングのソファに座っていた。
テーブルの上に重ねられた外部世界の雑誌や、クッキーの缶。
間違いなく京子自身の家のリビングだ。
「あれ……、なんで?」
まるで記憶がすっぽりと抜け落ちたかのようだった。
いつの間に特捜本部から帰ってきたのだろうか?
「お茶いるかしら?」
柔らかい声に振り返ると、キッチンに見知らぬ女性が立っていた。
背の高いすらりとしたその人は、京子の返事を聞かずにお茶の準備を始める。
「誰……!?」
自分の部屋という空間に突如として現れた異物に、京子の意識は急激に覚醒した。
どう見てもここは京子の部屋だが、そうであるはずがない。
「赤、と言えば伝わるのかしら? この部屋を用意したのは京子さんが居心地がいいだろうと思ったからなのだけど、不用意だったかしらね。ようこそ、また会えると思っていたわ」
空のカップを盆に乗せて女性はリビングにやってくると、テーブルの上にカップを並べた。
途端にその中に紅茶が満たされ、かぐわしい香りが広がる。
「私はあなたに会ったこと無いわ」
「この姿とは初対面ね。だからこの姿で現れたの。京子さんの記憶に無い姿をしていれば、これは京子さんの記憶の混濁などではないと証明できるでしょう?」
「じゃあ、なに……、ここは正真正銘……」
「そうよ。ここは私の意識の中。他人の心の中に土足で踏み入る京子さんへの待遇としてはとてもいいと思うのだけれど、どうなのかしら?」
京子は自分が靴を履いたままであることに気がついた。
無論、それは赤からの暗喩めいた嫌がらせに過ぎない。
だから京子は靴を履いたままでいることにする。
「前回は京子さんみたいな能力を持つ人がいるとは思わなくて、迂闊にも赤そのものと接触させてしまったけれど、これなら平気でしょう? 眩しかったり、混乱したりはしない? そう、大丈夫みたいね」
赤と名乗った女性は京子の返事を待ちはしなかった。
まるで訊ねたことで、もうそのことは解決したと言わんばかりだ。
「こんな部屋まで用意して、あなたは一体どういうつもりなの……」
「もちろん歓迎しているのよ。飲まないの?」
言って赤は紅茶を一口啜った。
「そう、つまりこういう能力なのね。あなたは自分の意識を完全に制御できるんだわ。だから何度識連結しても、押し負けることはないし、自我に緩みがでることもない」
「半分正解で、半分間違い」
そう言って赤はクスクスと笑った。
「不思議、まさか私が人とこんなおしゃべりをできる日がくるとは思わなかった。素敵だわ。とても素敵」
「人とおしゃべりがしたいなら、人前に出てきたらどうなの。無力な子どもばかり狙ってスケープゴートにしてんじゃないわ」
「あらあら、困ったわね。誤解されているみたい。私、誤解されているみたいだわ。意思の伝達における齟齬が発生しているのね。私のことを勘違いしているんだわ。ねえ、京子さん。あなたの思う赤について教えてくださる?」
「ふざけないで、この悪党。あなたは子どもたちを自分の隠れ蓑として使うために無理やり識連結して、その人生を奪っていったんでしょう」
赤はニコニコ微笑んだままで首を横に振った。
「怒ってるのね。私に対して敵意を持っているのね。それはとても素敵なことだけれど、残念ながら京子さんの推測は間違っているわ。それともこの場合は透くんの推測というべきなのかしら? 人間は他人の意見をすぐ自分の意見として取り入れるけれど、その前に自分で考えてみようとは思わないのかしら? そう、考えはするけれど、理屈にあった意見があるとそこで考えるのをやめてしまうのね。不思議だわ。とても不思議」
「こいつ……」
なにか異様な雰囲気があった。
普通の人間ではない。
もちろん自分の意識の中に、他人の部屋をここまで完全に再現できてしまうというだけで、すでに普通ではない。
「2秒が過ぎたわ。時間の感覚を加速しているのだけれど、これくらいが限界みたいね。私ならば過去も未来もひっくるめて現在の中に押し込んでしまえるのだけれど、人間の脳ひとつではここが限界」
「アンタは一体なんなの」
「私は赤。赤という名の発症者と時を共にした何か。最初はもっと漠然としていたわ。存在していたい、し続けていたいという欲求しかなかった。ただそれだけ。こうして他人とおしゃべりができるようになったのはつい最近なのよ。私の総数が20万を越えたあたりから、急激に意識は明確になってきた。ああ、そうそう京子さん。あなたが探している残り10万の感染者だけれど、そのほとんどはアフリカよ。西欧諸国はサバンナの真ん中にかなり大きな農場を作ったみたいね。見てみる?」
「見せて……」
世界がひっくり返った。
ソファから転げると、硬い土の上に落ちた。
赤はいつの間にか京子の隣に立っていて、手には紅茶の入ったカップを持ったままだった。
そういえばあのカップ、どれだけ飲んでも減っている様子が無いなあ、と今更ながらに京子は思った。
「ようそこ、アフリカへ」
赤が言った。
顔を上げて京子は絶句した。
そこは山の上だった。
だが京子の知る山とはまったく違っている。
斜面はなだらかで、木が少ない。
地面は乾いていて、硬い。
そして見渡す限りの平原。
まるで世界の果てまでも見渡せるようだった。
振り返る。
そちらも同じだ。
全身がざわりとした。
「“ここ”は農場の外なのだけど、感染した人の中にここにきたことのある人がいてね。その人の記憶から再構築してみたの。どう? なかなかいい眺めでしょう? 私は外の世界、大好きだわ」
視界がぼやけた。
「ウソ……なんで……」
目元を拭うと、指先が濡れた。
「びっくりして瞬きを忘れているからよ。人間の生理的な反応だわ。あら、でもここでもそういうことってあるのね。不思議だわ」
「この……」
何か言ってやろうと思ったがすぐに京子は諦めた。
それよりも今目の前にある光景を少しでも目に焼き付けておきたかった。
これが幻だとしても、現実とほぼ同等のリアリティを持って目の前に存在していることだけは間違いない。
「絶対境界線の壁が見えるわね? 農場の範囲は右手に見える砂漠から、左手の荒野までの一帯すべて。近隣に近づく街路は封鎖されてるし、上空の通過も禁止されている。対外的には疫病発生のために隔離、って本当のことね」
「意図的にばらまいたのね」
「きっとそうだと思うわ」
「ひどい……」
「そうかしら? そうなのかしら? 私にとってはとても素晴らしいことだわ。だってこうやって旅ができるんですもの」
その言葉で京子はこの女が、外の世界に感染を広めようと画策する赤であるということを思い出した。
そして自身が何のために月ヶ瀬朔耶の意識に入り込んだのかも思い出した。
「あなたの本体はどこ?」
「まだ理解してもらえないのね。残念だわ。とても残念。この心こそが、この意識こそが、この意図こそが、この本能こそが、私の本体。私の実体。私の肉体。私の存在。あえて一番近いものをあげるとすれば、この姿の本来の持ち主でしょうね。なぜなら彼女が赤だったのだから」
「あなたは誰!?」
「私は赤。嘆きの三月を作った女、すべての感染者と繋がっていた発症者の成れの果て。京子さんは私に一番近いところにいるのよ。まだ理解できない? そう、理解できないわよね。悲しいわ。とても悲しい」
「最初に赤を名乗った女は死んだわ。死んだのよ」
「ええ、死んだわ。いなくなった。私ももう彼女を見つけられない。この姿も彼女の記憶ではなく、“彼女を知っていた者”の記憶から再構成しているものだし、声も表情も、喋り方もそう。本当の赤では無い。だから私は赤っぽい何かであって、赤ではないのかもしれないわね。ああ、もしかしたらこの姿こそが京子さんに混乱を与えているのかもしれない。これならどうかしら――京子――」
「――――!?」
思わず京子は目を閉じ、耳を塞いだ。
「やめてっ!」
赤という女は消え、代わりにそこに立っていたのは初老の男性だった。
白髪の混じり始めた髪に、苦悩の刻まれた皺の深い顔、薄汚れた白衣姿で京子を優しく見つめていた。
それは御剣浩介、京子の父だった。
「ごめん……なさい……。そんなにいやだって思わなかったの」
もう違う声。おそるおそる目を開けると、黒埼美奈が立っていた。
「ごめんなさい……」
「この、卑怯もの……」
京子が今一番心を許している相手を知っていて、赤はその姿に変化したのだろう。
事実、美奈が目に涙をためて許しを請うている姿を見ると、京子の感情から怒りは払拭されてしまった。
「きらいになった……?」
「嫌いじゃないわ。好きよ。だいじょうぶ」
言わずにはいられなかった。
そこにいるのが本物の美奈ではないと分かっていても、その姿をしているものに対して、おまえになんてはじめから憎しみしか感じていないなどと口にできるだろうか。
美奈から目を逸らす。
そうしなければまともに言葉を発せそうになかった。
「この……、つまり……、あんたは誰でもないんだ。すべての感染者と繋がった時にその中に溶けてしまって、肉体を失っても思考だけが残響音のように感染者の中に残っている。あんた自身がもはや赤の代弁者でしかないのね」
「ううん。わたしは違うと思う……」
「姿を変えて」
「姿には何の意味もないよ」
「姿を変えて!」
「どうしてそんな姿にこだわるの?」
美奈の姿がぐにゃりとゆがみ、よく見覚えのある姿に変わった。
「ふざけないで!」
「ふざけてなんていないわ」
京子の前には京子が立っていた。
「私は私という存在は全感染者の思考全体の集合意識だと考えている。赤が死んだ後もしばらくは具体的な意識を持つことはできず、単なる方向性しかなかった。けれど感染者の数が増えるに従って私の意識は明確なものとなり、ついに単独の思索を得るに至った。脳を構成するのが細胞体なら、私を構成するのは感染者なの」
「つまり、アンタを消すには感染者を皆殺しにするしかないってことね」
「ある一定数より減れば、思考は鈍るでしょうね。もちろんそれに対しては全力で抵抗するわよ。感染者が死ぬのは私の一部が死ぬことに等しいんだもの」
「アンタの目的はなに?」
「自己拡大。つまり生存本能よ。感染者が増えれば相対的に私は大きくなる。それだけ死ににくくなるわ。今の私が外部世界の人間に首根っこを掴まれているのはアンタだって理解しているでしょ」
「生きるための世界征服ってわけだ」
「この世界で私が生きるためにはそれしかないからよ」
「この――」
「あ、時間切れだわ――」
――暗転。
実際にはファイルホルダーが京子の視界を塞いだだけのことだった。
「10秒よ。御剣さん」
そう、まだ10秒しか経っていないのだ。
頭を振って考えを落ち着ける。
この間にも赤はあの圧縮された時間の中で無限に近い思索を続けているのだろうか?
目の前にいる少女は相変わらず親の仇を見るかのような目でこちらを見据えていた。
分からない。
京子にはどうすればいいのかまったく分からなかった。




