赤の代弁者 -7-
抑制剤は打たないことにした。
薬の抜けた思考は透明そのもので、それは例えるなら清水のせせらぎだ。
それと比べると抑制剤が入っている思考は嵐の後の濁流に近い。
これまでよくあんな状態に耐えていたものだと、自分の忍耐力に感心する。
人間とはどんな状態でもそれが続けば慣れてしまうものらしい。
結局、炊いたご飯と味噌汁は漬物と一緒に美奈の朝食になった。
京子自身は硬く焼き上げた食パンを切ってバターを塗ってハムを乗せて食べた。
別に作り直さなかったのは風呂から上がった美奈と一緒に食事を摂りたかったからである。
他人と食事をする機会は珍しくない。
職場の昼食は一人になる方が難しかったし、夕食も誰かしらと一緒になることが多かった。
だが朝食となると話は別だ。
京子には生活を共にする家族は独りもいなかったし、ごく短い期間、例え一夜でも誰かと褥を共にすることもなかった。
だから作戦行動中を除いて誰かと一緒に朝食を口にしたという経験はほとんどない。
自宅で、となるとさらに稀少だ。
ゼロではないが、ゼロに近い。
その貴重な経験の相手が黒埼美奈だというのは、運命の奇天烈さを呪うしかあるまい。
だがそれもそう悪くないと京子は思い始めていた。
「……なんで仕事やめたの?」
「辞めてないわよ。お休みをもらっただけ」
「……事件のこと調べるなら特捜のほうが便利」
「まあね。でも便利だから真相に近づけるというものでもないわ。特に組織に所属するっていうのは、制限を受けることだもの。場合によっては真相に近付かせてもらえないこともある」
「……よく、わからない……」
「例えば特捜の偉い人が悪いことしてたりすると、捕まえようとしても捕まえちゃダメって上司に言われたりするわけ」
「……でもその人は悪い人なんだよね」
「そうね」
「だったら捕まえなきゃ」
「うん。本当はね。でも特捜にいたらまず無理なのよ」
「……どうして? 捕まえなきゃいけないのに捕まえちゃダメって変」
「捕まえちゃってもいいけど、その後特捜をやめさせられるかもしれない。やめさせられなくても居辛くはなるわ。身内を売るってのはそういうことだもの」
「……でも私なら捕まえるよ。だってママが一番しちゃいけないことは、“しなきゃいけないとと思ったことをしないこと”だって言ってた。お勉強もお片づけも、お手伝いもそう。心のどこかでやったほうがいいって思ったことはやらなきゃダメなんだって」
「そうかもね。でもそれはとても難しいことなのよ」
「だから犯人を教えてくれないのね?」
京子は苦笑でその返事に代えた。
食事の後、弓削朝子に連絡を取り、また新たな無能力者が現れたらすぐに連絡をもらえるように取り付ける。
接見は監視の元、という条件付きで約束を得た。
ついでに声を低くして苦情。
「こんなにべったり張り付かれたら、そっちの目的だって達成できないでしょうに」
「――ごめんごめん。細かい方針はチームに任せてあるからなんとかよろしく」
まったく、誰も彼も好き勝手やっている。
それは京子自身も例外ではない。
管理自治機構があったころはもう少し指揮系統がしっかりしていたような気がする。
現在は国連統治下とは言っても以前のように内部世界に評議員がいるという建前すら存在しない間接統治だ。
実権は内部世界の官僚が握っているが、その官僚とて国連によって全情報が開示されているため強権は振るえない。
結果、社会の効率は著しく下がっている。
外部世界からの流入物資が増えたため、結果的に回転が維持できているだけだ。
近いうちに社会体制に何らかの変化が必要だと思われた。
とは言ってもまあ選挙でも無い限りは京子には関係のない話だ。
――関係が無い、か。
この事件に対する弓削朝子の態度もそれが原因かもしれない。
真剣さが足りていないのだ。
そのうち誰かが解決するだろうと考えている。
京子が伝えた無能力者の本質についてもそれほど興味を持っていないようだった。
だが京子はそういうわけにはいかない。
この連続殺人の犯人はトールである。
少なくとも最後の一件に関しては間違いない。
であれば放置するわけにはいかない。
しかし一方で殺された側も気にかかる。
単なる発症者ではなく<識連結ルータ>と京子が仮定したそれが正解であれば、それは究極の<瞳>だからだ。
――黒埼静がまたなにかをやらかしたか?
いいや、違う。
彼女なら実験体を“故意でなく”逃がすようなヘマはしない。
それと<瞳>の完成形とでも言うべき能力がそこにあって見逃すようなこともしない。
つまり黒埼静は<識連結ルータ>の存在に気がついていない。
しかも、だ。
<識連結ルータ>との接触によって京子は外部世界に10万の感染者が発生している可能性に気がついた。
――あれ、これって……。
外部での事故が実際に発生しているとして、当事者である国がそれを隠蔽しているとして、国連が気がついていないとして……。
京子は首を横に振った。
仮定項目が多すぎる。役に立つ情報とは言いがたい。
「そういやネットで調べろって言われたっけ」
内部世界では稀少品のパソコンを立ち上げる。
携帯電話が使えないこともなかったが、本格的に調べものをするには力不足は否めない。
検索サイトで“煉瓦台”と打ち込むと100万件を越える結果が出力された。
いくらなんでも多すぎる。
wiki型百科事典サイトを使ってみてもいまいち要を得ない。
仕方なく匿名掲示板を利用することにする。
情報の精度はともかく、量と早さなら他の追随を許さない。
問題は利用者が知りうる情報までしか交換できないので、深さが足りないところだろう。
だが黒埼静の口調からすればここで十分のはずだった。
黒埼静の言っていた状況の変化というのが何を指しているのかはすぐに分かった。
情報解放後も公的には認められていない発症者の能力について、隠しおおせない状況に入りつつあるのだ。
すでに能力に関するまとめサイトなども登場し、推論と願望によって大量の情報が集積されていた。
特捜のデータベースとは比べられないが、内部世界で撮影されたと思われる映像も含まれている。
そして個人レベルでは“感染したい”という意見や、国際レベルにおいては軍事転用の可能性が示唆されている。
そして万が一爆発的流行によって世界中に感染が広がった場合、発症者の研究で20年のアドバンテージを持つこの国が軍事大国になる可能性が示されていた。
つまり赤目症は国際競争力の問題を孕んでいたのである。
この国が他の国に20年先駆けて核を開発していたようなものだ。
それは生まれたときから内部世界で情報封鎖を受け生きてきた京子のような第二世代には無い発想だった。
その20年を作り出すためにこの国がしてきた諜報活動は苛烈だったに違いない。
内部世界に対する偏執狂めいた隔離はその一環だったというわけだ。
他国はこの国が赤目症を徹底的に隔離する方針に疑問は抱いただろうが、この異能の力については知りえなかったのだろう。
しかし白瀬信行が内部世界の情報を外に漏らしてしまった。
先進国で疫病隔離された人々が保護されず迫害されているという内容のそれは、現地の朽ちていく町並みの映像と合わさって世界に衝撃を与えたに違いない。
結果、国連常任理事国は世界的世論を後押しする形で煉瓦台市の主権を得、そこから発症者に関する情報を引き上げ始めた。
そして異能の力について知り、自国の機関を使って研究を進めたくなったということなのだろう。
京子は額に指を当てた。
これまで外の世界を犠牲にしまいと必死になってきたのはなんだったのか。
外部世界の国々はウイルスを手に入れるために奔走し、人々は異能となるため感染したがっている。
だとすればどうして流出を止められるというのか。
京子は電源をつけたままラップトップを閉じた。
すっと横からマグカップが差し出される。
受け取ると薄茶色の液体、ミルクティーだった。
一口啜ると粘っこいほどの甘さが口の中に広がった。
牛乳で煮出したロイヤルミルクティーにたっぷり砂糖が入っている。
「ありがとう。でも甘すぎない?」
「……頭を使った後は甘いものがいい」
「そっか、気を使ってくれたのね」
美奈は返事をせずに自分のマグカップに口をつけた。
時計を見ると12時を回っていた。
昼ごはんを用意しなくてはならない。
立ち上がるとキッチンからいい匂いがしている。
「……スパゲッティの用意してるけど、よかった?」
「もういっそここに住んで……」
フライパンの上ではミートソースがじぅじぅと音を立て、その隣には水が一杯になった寸胴鍋が火にかかっている。
ボウルが出ているところを見るに、それで水を張ったのだろう。
キッチンには踏み台代わりにスツールが置かれていた。
集中すると周りが見えなくなるのは京子の悪い癖だ。
「ごめんね。全然気づかなかった。後は私がやるね」
「ううん。最後までする」
「そう? それじゃお願いしようかな」
せっかくなので最後まで甘えることにする。
その間にこっそり寝室に身を潜めた。
携帯電話を取り出してメモリーから番号を呼び出す。
「――あんだよ。貴重な昼休みくらい寝かせろ」
不機嫌そうな声。だが構わずに京子は用件を告げた。
「拳、あなた美奈ちゃんと会う気ある?」
今日はここまで!




