赤の代弁者 -3-
その少女は布団の中で絵本を読んでいた。
ぼろぼろになったそれは、2匹のねずみが主人公のもので、京子も子どものころに同じ絵本を読んだ記憶があった。
そこは北旧市街の一角にある集合住宅の一室だった。
少女の名は七瀬奈菜――。
京子は弓削朝子に渡された資料の内容を反芻した。
七瀬奈菜、7歳、3日前に発症し、両親が目隠しして病院に搬送。
抑制剤投与前のテストにおいて、無能力であることが確認される。
視覚異常も無し。
抑制剤に対して強い拒絶反応を示し、投薬は中止。
両親が引き取り今に至る。
――無能力、という言葉が気にかかっていた。
京子が知る限り能力を持たない発症者は一人もいない。
発症とは瞳の色が変わることでなく、なんらかの能力を得ることだとそう思っていた。
「こんにちは、奈菜ちゃん」
「おばちゃん、だれ?」
「私は御剣京子、赤い目の人のお手伝いをしているの」
あながちウソでもなかった。少なくとも今は。
弓削朝子が京子に与えた身分証によると、京子は発症者の生活を支援するNPOの職員ということになっている。
それっぽく見せるためにわざわざ制服からスーツに着替えすらしたのだ。
「3日経ったけど、なにも変なことは起きてないかな?」
「ううん。なにもないよ」
それから京子はいくつか軽いテストを少女にしてみたが、やはり少女には何の能力の兆候も見られなかった。
だがだからと言って簡単に能力が無いと決め付けることはできない。
<我は拒絶す>が危険が迫ったときのみ発動すると言ったように、限定条件でしか発動しない能力もあるのだ。
だが簡易能力診断テストは確認されてる発症者能力の87%を判断できる。
残りの13%もなんらかの兆候は読み取れる。ということになっている。
まあ、前者を86%にするか、後者を12%にするかは京子に決められる部分ではない。
京子は判断を保留した。
その事こそが弓削朝子に御剣京子を頼らせたのだ。
おそらく少女は病院でもっと複雑なテストも受けたはずだ。
その結果で無能力と診断されたのであれば、簡易テストなどになんの意味があろう。
それでも一応やってみたのは京子が自分の目で事実を確かめたかったからに過ぎない。
――それで私の能力の出番というわけだ。
京子の能力は目の合った相手の視覚に侵入するというものだ。
――ということになっている。
だから京子ならば少なくとも少女が視覚拡張系の能力を持っているかどうかの判断は下せる。
そして京子自身の常識に照らし合わせれば3日間もの間、普通に生活していて何も起きない物理干渉能力など存在しない。
だから視覚拡張でないのなら少女は無能力を言えるかもしれない。
あくまで仮に、ではあるが。
まあやるだけはやってみよう。
無能力の発症者が本当にいるというのなら、京子にとってもそれは興味深かった。
「それじゃ最後に奈菜ちゃんの目を見せてね」
絵本の続きが気になるらしい少女にこちらを向かせ、その紅い瞳を覗き込む。
即座に京子の能力は発動した。
――閃光――。
目を開けていられないのに、目が閉じられない。
京子はパニックに陥った。
本当ならば少女の顔を覗き込む自分の顔が見えるはずだった。
そこが自分の能力の一番嫌いなところだった。
なぜ? 何故? どうして?
意識を焼く光の粒子は、そのひとつひとつがひどく重たく感じた。
前も後ろも上も下も、すべての方向から押し寄せてくる。
242,744の光。
わたし/ぼく/きみ/われわれ――。
意識が混濁して、慌てて京子は能力を中断しようとした。
京子の能力は目線が合っていなければ発動しない。
よってただ目蓋を下ろすだけで能力は解除される。
だが体が意識に従わない。
まずい、まずい、まずい!
京子の能力は視覚への侵入ではない。
瞳を覗き込んだ対象の意識そのものに侵入し、支配する。
結果として視界も得られるが、そこに五感や、記憶もついてくる。
問題なのはそれを客観ではなく主観で体感してしまうところだ。
つまり長時間侵入すると京子の人生に相手の人生が付与されてしまう。
京子という個性が失われてしまう。
これまで京子はその侵入を手際よくこなしてきた。
視線を合わせるのは常に数秒、どんなに長くても10秒を越えないように制約をかけることで、自我の喪失を防いできた。
それでももう十分なほどに他人の人生をおっかぶっている。
それなのにこれは――、その数万倍の膨大な――、記憶と、意識と、五感とが、飽和する――。
押しつぶされかけたとき、手首に鋭い痛みが走って、それをきっかけに京子は意識を取り戻した。
腕時計に仕込んだタイマー仕掛けの針が飛び出したのだ。
万が一の時のためのものだったが、それに救われた。
時計の外周部分をひねって針を戻す。
5ミリの針でも長すぎたと後悔したがもう遅い。
少女の形をした何かが京子を見つめていた。
「おばちゃん、どうしたの?」
「なんでもないわ。……なんでもないのよ」
時間を確認する振りをしながら、時計と手首の間にハンカチを押し込んで出血を止める。
続いて意味ありげに鞄の中を探りながら、京子は必死に今起きたことを考えていた。
無能力者、無能力者だって!?
とんでもない!
242,744という数字がどこから出てきたのか、京子は必死に自分の記憶を探ってみたが、どこにも見当たらない。
だが京子はそれが感染者の総数だと確信していた。
しかしその確信を自分に与えてくれる要素が見つからない。
現在、国連主導で行われている内部世界の人口調査では12万6千人が確認されたところだ。
御堂寺への立ち入りはまだ行われていないとは言え、後10万人も内部世界に潜んでいるということはまず考えられない。
にも関わらず確信は揺るがない。
ではつまりあの光の総数が242,744であると知っている意識に京子が侵入したのだ。
そうとしか考えられない。
そしてそれは今目の前にいる少女なのだ。
生かしておけない。
元特捜3課課長としての本能がそう囁いた。
これは危険な存在だ。
絶対境界線が破られるとかそういう意味ではなく、内部世界そのものが危機に晒されていると京子は感じた。
庶務課に異動になって銃を携帯していないのが悔やまれた。
だが7歳の童女ならば両手でも十分だ。
枕を顔に押し付けて窒息させれば、声を上げさせることもなく命を断てる。
――私は、なにを――。
枕に向けて伸ばしかけた手を京子は呆然と眺めた。
一瞬で膨らんだ殺意は、その湧き上がったのと同じくらい早く消えた。
激しい後悔が京子を襲った。
それはこんな少女に対し明確な殺意を抱いたことと、そして心の奥底ではいまだそうすべきだと確信しているのにそうできないことにだった。
「そんなところ、らしくていいですよ」
聞き覚えのある声に顔をあげる。
そこにはトールがいた。
都市迷彩服に身を包んで、大口径の回転式拳銃を手にしている。
躊躇無く引き金は引かれた。
――バン!
少女の頭部が熟れた果実のように弾けた。
布団の、絵本の、少女の体の上に血が脳漿が飛び散った。
ごとりと少女の体は仰向けに倒れ、そのまま動かなくなった。
「トール!」
振り返った時、トールはもうどこにもいなかった。
ただ硝煙の臭いだけが彼がここにいた証拠だった。
銃声に驚いた少女の母親が慌てて駆けつけてきて扉を開けた。
悲鳴があがり、母親はその場に崩れ落ちた。
「落ち着いて、落ち着いて……」
そう呟く京子自身も混乱していた。
それでもなんとか母親を落ち着けようと手を伸ばす。
その手を少女の母親は振り払った。
「殺さないで――」
恐怖で引きつった表情に、ようやく京子は自分が少女を殺したと思われていることに気がついた。
――あ、これまずい……。
逃げるべきか迷う。
だがその判断はすでに手遅れだった。
扉が荒々しく叩かれた。
銃声と悲鳴でご近所が集まってきたらしい。
無理に逃げればより状況は悪くなる。
幸い京子は銃を持っていない。
凶器を持っていないことが分かれば、なんとか弁明もできるだろう。
母親は扉が叩かれていることにも気づけずに、震える体で京子から離れようとしていた。
「落ち着いて、危害は加えないから」
無駄だと知りつつ母親にそう告げて、京子は自ら扉の鍵を開けに向かった。
背後では少女の母親が弾かれたように起き上がり少女の部屋に飛び込んで亡骸にすがりついて、慟哭した。
なぜ、こんなことに。




