かくも脆き -4-
自分って運が無いなあ。と、御剣京子は何度も思ったことをまた思った。
着込んだ防弾チョッキは京子の体格には少しばかり大きく、体を動かすとずれて体にまとわりつく。
うーん、これだけ動きにくくしてまで着る意味があるだろうか。
かくも脆きの破壊能力は過去の能力者の中でも群を抜いている。
まあ掴む手に比べればまだまともなほうだけど。
それでも防弾チョッキがその破壊を一瞬でも抑えてくれるなんてことを期待することに意味があるとは思えない。
場所は1課の状況説明室で、3課のそれの倍ほどに広く、またそこが隊員で一杯になっていた。
2個小隊というところだろうか。
赤目だけを集めた3課と比べ、未発症者――この言い方はあまり好まれない――で構成される1課や2課の構成人数は圧倒的に多い。
その奥端っこの方で京子は防弾チョッキを体に合わせながら1課課長による状況説明に耳を澄ませる。
「過去3度の接触で発症者の能力が届く範囲は10メートル前後であろうと推測される」
あらまあ、いつの間にか3度目の接触があったらしい。
京子の下に報告が来てないのはいつものアレだ。
しかし10メートルか。
手の届く範囲より広いであろうことは閃光手榴弾が無効化されることから大体想像できていたが、10メートルは予想よりも随分広い。
――赤目の能力の厄介なところは威力と距離が反比例したりしないところね。
その最たるものが掴む手事件だったと言える。
視界全域に及ぶ物理干渉能力。
それも光学補助での距離延長さえ可能であった。
それに比べれば随分と弱い能力だ。
物体破壊能力では掴む手を越えているけれど……。
「効果は分解、焦点は不明だが、とにかく発症者から20メートル以内に接近することを禁じる」
そこが争点だ、と京子は思う。
20メートルより離れたところからどうやって発症者を止めるのか。
京子にはいくつか案があったがあえて口には出さない。
3課では作戦の立案から指揮までこなす京子だが、1課においてはよそ者に過ぎない。
よそ者がうまくやっていくための術は、とにかく大人しくしていることだ。
それに京子の頭にあるプランでは、京子自身の目的である発症者との接触が困難になる。
危険を承知で前線に出てきたのだから、それは避けたかった。
「目標の現在位置はここ。機構から3キロ地点まで迫っている」
――思ったより早い。
思わず舌打ちしそうになって京子はそれを抑えなければいけなかった。
距離だけで言うならばトールの狙撃可能範囲にすでに入ったことになる。
地図を見る限りはまだトールから目標を狙撃することはできないだろうが、トールの能力を以てすれば発見は可能かもしれない。
――頼むから先走って機構を離れたりしないでよ。
と、そう心の中で祈る。
最低限、殺さずに捕獲しようとしたという体裁だけでも整えておかなければいけない。
宮勤めの辛いところ。
なにせトールと美禽が力を合わせれば、このビルの多い市街地も途端に絶好の狩場と貸す。
ビルとビルを渡り歩きながら視界外から壁をぶち抜いて狙撃可能だ。
とはいっても、機構からの狙撃である限りこの発症者を殺せるかどうかは五分五分であろうと思う。
それはトールと亮一がもし正面から戦えば、ということと同じ意味に近い。
お互いに十分な装備があり、トールの最大射程である3キロより遠くから、スタートしても、真正面からなら亮一に軍配があがるだろう。
決してトールより亮一のほうが強いということにはならないが、状況を限定すれば事情は変わる。
「目標ははぼ直線的に機構を目指しており、途中の建物を分解しながら進んでいる。こちらはそれを逆手に取り、目標が進行ルートに取るであろう建物で待ち伏せ、催涙ガスを使用する」
あちゃあ、と、京子は思わず顔をしかめてから、慌ててその表情を消した。
ガス類の使用は対赤目では非常に有効な手段であるから、1課がそれを使用することは十分考えられた。しかしそれでは京子の出番はほとんどない。そうでないことを京子は祈っていたのだ。
まあ仕方ない。
発症者と有効な接触を持てる機会を窺うか、場合によっては作り出すしかないだろう。
最悪は諦めるということになる。
その後のガス使用によるこの作戦の詳細を京子は頭の中に刻み付ける。
どうやら京子の役割は通常と変わらず作戦の補助及び、失敗時の捨て駒というところのようだった。
異論はない。
発症者である赤目は最も危険な役割を押し付けられるものだ。
状況説明が終わり、足早に隊員たちが状況説明室を出て行く中、京子もそれに紛れるように出て行く。
あまり時間は残されていない。
下手をすればもうトールが狙撃を終えているという可能性さえある。
駐車場に向かおうと、他の隊員たちに倣って階段を駆け下りようとしたときだった。
「――京子ちゃん」
声をかけられて思わず立ち止まり、それから聞こえない振りをして一気に階段を駆け下りていればよかったと後悔した。
振り返ると予想通りの人物が心配そうな顔つきで立っていた。
「是非とも生きて捕らえて欲しいけど、無理はしないでね」
――私が死んだら小躍りして解剖に取り掛かるつもりでしょうに。
一瞬そう思ってから、今回もし京子が死ぬようなことがあれば解剖の手間もないほどにバラバラになって、この女に対する嫌がらせくらいにはなるかもしれない、とそう思い直した。
この白衣を着た女性は黒崎静。
管理自治機構の研究員だ。
赤目症――つまり私たち全員が感染しているこの病気――に関してなら、外部を含めて最も詳しいひとりであると断言できる。
何せその知識量ゆえに一度は自ら意図的に発症者を作り出すという罪を犯したことさえ赦されてしまっている。
京子にしてみれば古い知り合いということになるだろう。
決していい意味での知り合いとはとても言い難いが……。
何よりこの女の顔を見ると京子はどうしても黒崎拳のことを思い出さないわけにはいかない。
じわりと口の中に苦いものが広がる。
けれどそれをほんの少しでも顔に出せば目の前にいる女を喜ばせるだけだろう。
京子は微笑みすら浮かべて見せた。
「ええ、でも最善の努力を尽くします」
「期待しているわ」
静は花のような笑みを見せる。
ああ、ちくしょう。
まったく、なんでこの女はこんなに可憐に見えるんだ。
女の京子から見ても思わず守ってあげたいとか思いたくなるオーラを発している。
もう三十路だろうに。
そこを言ってやればこの微笑みを少しは崩せるんだろうか。
しかし京子はとてもそれを試してみる気にはなれなかった。
「時間が無いので行きます」
これ以上この女の前にいるとどうにかなってしまいそうだった。
京子は静の返事を待たずに振り返り、階段を駆け下りる。
その背中に、
「気をつけてね」
と、本当に心から心配していそうな声が降ってきた。
――ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう。
どうしてこのタイミングで顔を見せに出てきやがるのだ。
完全に冷静さを失った頭で自分の車に滑り込む。
1課の連中はもう出てしまったようだ。
急いで追いかけなくてはならない。
思い切りアクセルを踏み込むと、タイヤを軋ませて車は駐車場を飛び出した。
幸い避難警報が発令されているおかげで、本部周辺の道に車は無く、心の中のもやもやしたものを思い切りアクセルにぶつけてもさして問題は無さそうだった。
信号を無視して一気に作戦域を目指す。
ふと機構屋上にいるはずのトールたちから、この暴走とも呼ぶべき運転を見られただろうか、という考えが頭をよぎった。
それが功を奏したか、かっかと煮えたぎっていた頭がようやくまともな温度を取り戻し始める。
――そう、どうして静がわざわざ待ち伏せていたのか。
偶然はありえない。
管理自治機構の研究施設は特捜本部とは別の建物だ。
お陰でこの4年間ほとんど顔も会わせずにやってこれた。
それなのに静が本部にいたということは本部に何かの用事があったか、わざわざ京子に顔を見せる何かの理由があったということだ。
――まさか本当に心配してきたわけじゃないわよね。
一瞬浮かんだその疑念は、どちらかというと気持ち悪かったので切り捨てる。
それにもしあの女がついに他人の心配を覚えたというのなら今夜はパーティを開かなければならないだろう。
うえ、考えただけで気持ち悪い。
もし静が誰かを心配するようなことがあるとすれば、それによって自分に不利益が及ぶようなときだけだろう。
まあ心配そうな顔をすることで相手の気を引ける、という心配の仕方もよくやっていたようだったが。
――ああ、くそっ。
あの女のことで煩わされること自体が気に入らない。
今は忘れてしまおうと決意してハンドルを右に切る。
タイヤが負荷に抗議の悲鳴をあげた。
――!!
あ、っと思った時にはもう遅かった。
目の前に人影、避難してなかった民間人か、それとも作戦展開中の1課隊員か、どちらにしてもぶつかる!
思わず目を閉じて京子は次の衝撃を待った。
しかしその衝撃はいつまで経ってもやってこない。
恐る恐る目を開ける。
それは時間にして1秒にも満たなかっただろう。
もし、2秒以上だったら京子の命が無かったに違いない。
付け加えていうならば、この車がもし左ハンドルの輸入車でなくて、右ハンドルであったとしても京子の命は無かった。
車の右半分が消滅していた。
それはもう綺麗さっぱりと。
状態の異常さに気づくよりも早く体が動いた。
シートベルトを外し――その間に一瞬ブレーキを踏んだけど、すでに油圧は無くなっていた――両足をシートにかけると、車から飛び降りる。
できるだけ背中から落ちるように、両手両足を丸め体を抱え込んだ。
幸い車の速度はその時点でかなり落ちていて、予定通り背中から落ちた京子はアスファルトの上をしばらく転がると、なんとか止まった。
まず頭を打ってないことを確認して、手足の状態を見る。
手も足も擦り傷だらけだが、機能損傷ということはない。
痛みさえ堪えれば何の問題もなさそうだ。
半分だけになった車がバランスを崩し、その辺の壁面に当たって物凄い音を立てる。
――ああ、ちくしょう。あの車を手に入れるのに随分苦心したというのに。
しかし防弾チョッキは着てきたのは正解だった。
こんな使われ方をするとは誰も思わなかっただろうけれど。
それから誰も京子が特捜の制服を着たままであることに何も言わなかったことにようやく気づく。
誰か指摘してくれても良さそうなものなのに。
ぼやいても仕方がない。
タイトスカートを左右で引き裂いて、少しは動きやすくする。
そしてそれから京子は顔をあげた。
果たして、それはそこにいた。
自分の身に起きたことを考えれば当然のことだった。
USPを引き抜きその背中に向けて照準を合わせる。
距離は50メートル弱というところか。
接触から随分と行き過ぎたものだ。
背後から見ても発症者の状態は異常だった。
右腕はすっぽり失われ、そのくせそこからあるべき出血が少しもない。
どうやら本当にまっすぐ機構を目指しているようで、その進行方向を逆に追えば、まるでなにか鋭利過ぎる刃物で切り取ったかのように建物に穴が開いていた。
「止まりなさい。後藤田住康!」
止まるわけがない。
それでも止まってくれ。と、わずかな願いに賭けた。
結局一番いいのは彼が能力を制御できるようになることだ。
確かにかくも脆きは強力な能力だが――今まさに京子が体験したように!――それ故に制御できればこれまたない戦力にもなり得る。
願いは通じた。
発症者、後藤田住康は足を止めた。
そしてゆっくりと振り返り、
その真っ赤に染まった瞳が、真っ直ぐに京子の瞳を貫いた。
異能の跋扈する世界なので細かい物理考証などは知ったことじゃないのだ!