地は途絶えしも其は近く -19-
携帯電話がひどく不快な警告音を発した。
弓削朝子特捜司法官は携帯の通話ボタンを押して耳に当てる。
と、同時に通信士がほとんど悲鳴に近い怒鳴り声で状況を伝えてきた。
あまりにも煩いので、朝子は携帯を耳から離して反対を向ける。
「あーあ、面倒くさいなぁ……」
空いている左手を腰に当て、目の前の惨状を仰ぎ見る。
彼女の目の前には半分瓦解した煉瓦台記念病院の入院棟があった。
突如飛んできた土砂の直撃を受けて崩壊したものだ。
いまだあたりには土煙が立ち込めている。
悲鳴やら怒号やらが辺りで飛び交っているが、そこに飛び込んでいく気にはなれなかった。
混乱の中に飛び込むと、優秀な人も、そうでない人も、群集の一人でしかなくなってしまう。
例えば医療の心得のある人が瓦礫をどける作業に引っ張り込まれ、現場を指揮できる能力のある人がただ声の大きな人の指示に従うと言った具合だ。
特捜司法官である彼女は群集のただの一人になるつもりはまったくない。
「姉さん、怪我はない?」
入院棟が崩壊したときに飛んできた破片をすべて叩き落した少女が振り返って言った。
紅い瞳、無色と黒色の二本の剣、動きやすそうなシンプルな服装で、長い髪を頭の後ろで尻尾のようにくくっている。
「大丈夫、ひとつも当たらなかったよ」
「えへへ」
まだ年幼い少女は破顔する。
その頭を撫でて瓦礫の山を見上げた。
「うーん、帰りたい」
「姉さん、携帯出たほうが」
少女に言われて朝子は携帯電話を口に当てた。マイクのほうだけを。
「あー、やだなー。絶対怒ってるんだろうなー」
途端に耳を離してても分かる怒声がスピーカーから漏れ聞こえてくる。
「ほら、やっぱり怒ってる」
「そりゃそうだよ」
「はいはい。こちら弓削朝子ですよー。おかけになった番号は現在電波の届かないエリアにいるようです。発信音の後にご用件をどうぞ」
「――いい加減にしてください! 特級警報が発令されてるんですよっ!」
「見りゃ分かるってば。お堅いなあ、もう。それで、私にどうしろって?」
「――一刻も早く辞令を届けてください。その後、特捜本部に戻り、部隊の指揮を」
「もう緊急事態だしさ、辞令の通知とか確認とかいいじゃん。病院潰れてて、生きてるかもわかんないよ」
「――駄目です。規定の手順通りにしてください。でなければ部隊の指揮権が貴方に移行されません」
「はぁぁぁ、これだからお役所って……」
「――貴方は法と秩序を守る特捜司法官なのですよっ! 人々の規範になる行動をお願いします!」
「そんなご意見があったことも考慮に入れて善処させていただきますっと」
言うだけ言って朝子は通話を切った。
向こうでは顔を真っ赤にした通信士がマイクに向かって怒鳴り散らしているだろう。
以前は自身も通信士だった朝子にはその光景が容易に想像できた。
「もう、姉さんってば……」
発症者の少女、日比谷真夜が心底呆れたように呟いた。
「だって煩いんだもん」
嘆息しつつ胸ポケットに携帯を押し込む。
「とは言え、無視するわけにもいかないなあ」
目の前の瓦礫の山を見上げて、朝子はがっくりと肩を落とした。
「どう探そう?」
「そんなの決まってるでしょ」
朝子は救出作業に当たっている人の中から特捜の制服を探し出して声をかける。
身分証を見せて、現場の責任者のところに連れて行かせた。
昼間に起きた封印隔離施設への襲撃事件で煉瓦台記念病院には臨時本部が設置されていたが、それはすでに解散され、現場に残っていた中でもっとも階級が高かったのは実崎という一課の班長だった。
人の良さそうな若い男性の班長は、御剣京子の捜索という朝子の要請を快く引き受けた。
「人任せね」
「私が行っても効率が悪いもの。のんびりできるときにのんびりしとかなきゃ」
「そういう状況かなぁ」
真夜が言いたいのはつまりこういうことだ。
この煉瓦台記念病院に対する攻撃は非常に強力な発症者の能力によるもので、それに対してすでに特級警報が発令されている。
非常事態下にあって特捜司法官ともあろうものが花壇の縁に腰を下ろして救助活動を眺めているのはどうか?
だが真夜は首を横に振った。
「違うよ。ここも危ないってこと」
「あー、なるほど、でもそれなら大丈夫よ。だって真夜が守ってくれてるんだもん。……そこで私はちょっとうつらうつらしようと思うわけですが」
「いいよ。今のうちに休んでおいて」
真夜が守ってくれているのなら安心だ。
もし彼女が朝子を守りきれなかったとすれば、朝子が起きていても同じ結果になるに違いない。
だから朝子は心から安心して意識を沈めることができた。
真夜に揺り起こされる。
あまり長く眠った気はしなかった。
「どれくらい寝てた?」
「10分くらい」
「そっか、寝足りないけど仕方ない」
眼前には一人の特捜隊員が立っていた。
朝子の倍くらいの年齢だろうが、特捜司法官を前に緊張しているのが分かる。
ちょっと気に入らないことがあれば死刑にされるとでも思っているのかもしれない。
まあ、実際にできないことはない。
だがそんなことをする人間が特捜司法官の資格を取れるわけがないことは簡単に想像がつきそうなものなのだが。
「で、御剣京子は見つかったのね。意識はあるの?」
情報によれば御剣京子の病室は六階にあったはずであり、現在の入院棟の状態を客観的に見るに、無傷でいるということはありえない。
だが手足がもげていようが、心臓が止まっていようが、今の時点で意識があればそれでよい。
法に基づいた辞令の通知さえ済ませれば、御剣京子に用は無かった。
「はい。無傷です、というと語弊がありますが……」
「なに? 報告は正確に」
「そのつまり、観剱課長代理は元々負傷して入院していたわけで、それを無傷と表現するのはいささか誤解を生じかねないと思ったわけです」
「つまりこの攻撃では負傷していないのね?」
「そういうことでしたら、そうです。意識もはっきりしていますし、命に別状もありません」
「分かった。案内して」
何気ない風を装いながら朝子は御剣京子という名前にチェックを入れた。
彼女の能力は視覚拡張系であり、物理的な力は持たない。
その彼女がこの大規模攻撃の渦中にあって無傷で済んだ?
これだけ離れていた朝子でさえ、真夜の陰に隠れなければ破片を浴びていただろうというのに、だ。
その御剣京子は特捜が立てた天幕の中にいた。
パイプ椅子に座り、長机に指先をこつこつと当てている。
かなりの精神的重圧を感じている証拠だ、と朝子は判断する。
「御剣3課課長」
「ああ、弓削特捜司法官。私をお探しだそうですね。どんなご用件でしょう」
御剣京子の視線は朝子の胸あたりに注がれていた。
視線を合わせることで相手の情報を引き出す能力と聞いているが、普段から多用しているというわけではないようだ。
「大した用じゃないわ。単にあなたが3課課長から降格ということを伝えに来ただけだもの」
御剣京子の澄ました顔が凍りついた。
だがそれは極めて短い時間で、彼女は冷静を取り戻した。
「理由を伺っても?」
「負傷によって3課課長としての任務を果たせないと判断されたから。後はその状態なのに色々でしゃばるから煙たがられたのよ。あなた」
「でも、3課には私が必要です! 今、こんなときに!」
「状況の困難さは私も理解してる。けれどこんな時だからこそあなたは治療に専念するべきね。他に何か質問は?」
特捜司法官相手に口論することの無意味さをすぐに悟った御剣京子は浮き上がりかけた腰を再びパイプ椅子に下ろした。
「後任には誰が……」
「私よ。異例ではあるけれど、現状で他に適任者がいないと判断されたからね。めんどうだけどしかたない。文句ある?」
「いいえ。ありません」
「では私から質問。なぜこの惨状の中で怪我一つしなかったわけ?」
「それは偶然ベッドが盾になってくれたからで、本当に紙一重でした……」
「そう。分かったわ。とにかくあなたは退院するまでは休職扱いだからそのつもりで。もっとも入院先は別のどこかにしなきゃいけないわね」
「それよりも現状への対処を……」
「そうね。でももうあなたに口を出す権利は無いわ。そのことは忘れないように。そうそう、何か私に伝えておかなければならないようなことはない?」
「行方不明の外部感染者が外部への脱出を目論んでエリアC21にいるとの情報を得て、遠野水瀬、笹原美禽、深海透の三名が現地に向かっています」
「あらま」
思わず朝子は声をあげた。
「この大規模攻撃の起点がそのあたりね。つまりこれはその戦闘のとばっちりってことかしら」
「分かりません。私の部下にこれほどの攻撃力を持つ発症者はいませんから……」
「なるほど。でもひとつ訂正。もうあなたの部下じゃないわ。私の部下よ」
御剣京子がぐっと手を握りこんだ。
彼女には気の毒に思うが、立場ははっきりさせておかなければならない。
彼女の3課の私物化こそがもっとも懸念されていたことなのだから。
「それで全部?」
「ええ、それだけです」
「分かったわ。では養生してね」
朝子は席を立つと足早に煉瓦台記念病院を離れた。
真っ直ぐに本部へと歩を進める。
「言わなかったね」
数分を過ぎたころ、真夜がぽつりと言った。
「うん。言わなかった。まさか捕捉されているとは思わなかったのか。どちらにせよ彼女が黒崎拳との接触を隠したがっているのは事実ね。要注意だわ」
「本当に裏切るのかな?」
「どうかな。でもあれは仲間のためになら法でも犯すってタイプね。私は可能性は高いと見る」
「面倒なことになるね」
「あー、うん。面倒だね。ホントにヤダヤダ」
そう言って弓削朝子が厄を払おうとでもするかのように手を振った頃、エリアC21の山中で笹原美禽は大きく目を見開いて立ち尽くしていた。
「なんで? どうして?」
それはあまりにも理不尽だった。
理不尽すぎて笑い出しそうだった。
ただ真っ直ぐ逃げるために走っただけだった。
そうすればトールは美禽を待ち続けて、そして結果的に戦いを避けられるだろうと思ったからだった。
だがそれはそんな思いをあざ笑い見せ付けるように、美禽にその凶悪な口を開いていた。
それは力の壁に吹き飛ばされ、どこかに行ってしまったはずのIWS2000だった。




