空は続くとも郷は遠く -20-
「そりゃどうしようもねーな」
足を長机に放り出した格好で黒崎拳はそう言った。
「そんな――」
「調査官は全員の顔写真くらい持ってるだろ。その上で騙しおおせるなんて思わないほうがいいぜ。連中の徹底ぶりは異常なほどだからな。まあ<瞳>の状況もだいたい分かったし、もうあっちに顔を出す必要もないだろ。あいつは疑わしくても招き入れるだろうが、結果的にこちらの情報が駄々漏れるかもしれんからな」
すでに吸殻で一杯の灰皿にまた一本を押し込んで、黒崎拳は新しい一本に火をつけた。
「38人か……」
「29人という考え方もあります……」
もちろん自己欺瞞である。
「範囲が広がってないってのは朗報だが、分析系発症者たちに警告だけは出しておく必要があるな。知っていて伝えなかったと非難されたら言い訳のしようがない」
だがそれが功を奏するとはとても思えなかった。
なにせ黒崎静は寝ている相手に薬を盛って、そのまま廃人にしてしまうことになんの抵抗もないからだ。
「その警告を発症者たちが一斉に立ち上がるきっかけにはできませんか?」
苦し紛れの言葉に黒崎拳が大きくため息をついた。
「いい加減にしろよ。アウトサイダー。お前はここのルールをなにも知らないだけだ。黙って大人しくしとけばいいんだよ」
かちんと来る。
黒崎静の前でずっと我慢していたのがいけなかったのかもしれない。
「でも今のまんまでいいわけない! 発症したからと言って人間扱いされないのは絶対におかしいんだ!」
気がつくと信行は黒崎拳に向けてまくし立てていた。
「それで?」
黒崎拳は机から足を下ろし、かわりに長机に肘をついて手のひらに顎を乗せた。
「お前ならどうするんだ?」
言い出した以上は最後まで言わなければならなかった。それに本当は言いたくてたまらなかったのだ。
「発症者たちで団結するんです。そうすれば管理自治機構だって無視はできない! 特捜が危険な発症者を処理するのは、発症者の力を恐れているからです。だから!」
「ふむ、お前の言うことには一理ある。発症者たちが団結して力を合わせれば、いかに管理自治機構、いかに特捜と言え打ち倒せるだろうな。晴れて俺たち発症者に人権が認められる。特捜はこれまでのように危険かもしれなくても発症者を一方的に処理することはできなくなり、記念病院の研究も人道に基づいて行われるだろう。俺たちは大手を振って町を歩けるようになり、<瞳>の監視にも怯えないですむようになる」
「そうですよ!」
「だが一方で発症者による死者の数はどっと増えるだろう。絶対境界線侵犯の危険度も増す。特捜は現状でも手一杯だ。これ以上になると煉瓦台の治安は崩壊する。でもまあ治安なんて俺にしてみればどうでもいいことだ。問題はその次に起こることだな」
「その次?」
「根本的な話だ。なぜ俺たちは隔離されている?」
「それは赤目症に感染しているから……」
「そうだ。そして感染者を隔離しておくために<壁>やら<絶対境界線>なんていうバカげたものが作られた。だがそれらを作った時には予測していなかったことがある。それは発症者のもつ異様な能力だ」
「あ……」
「<掴む手>の破壊能力なら絶対境界線の地雷原をなぎ払うことは容易だ。いいか、お前の恋人は片手で世界を滅ぼせるんだ。他にも絶対境界線を越えうる能力はいくつもあった。管理自治機構が、いやその後ろにいる外部世界が真に恐れているのはそれだ。だから彼らは発症者が団結して立ち上がるなんてことを決して認めない。発症者を一方的に処理できない環境なんてもんは絶対に認めない。それをすれば自分らの世界が破滅する可能性があるからだ。だからもし、発症者が立ち上がったとしても、その後に待ち受けているのは外部世界からの徹底的な報復さ。そしてそれは一方的で徹底的なものになるだろうな。ミサイルとか、場合によっては核、だ」
ぼろっと燃え尽きた煙草の灰の塊が落ちた。
もうフィルターしか残っていないそれを黒崎拳は灰皿の中に詰め込んだ。
「俺たちはまるで手を洗うのと変わらないように除菌される。そのことを受け入れて、許されうる範囲で生きてるんだ」
「だから誰かが殺されても気にも留めないんですね。自分自身がそうなっても仕方がないから――、でもそんなのっ! 絶対に間違ってる!」
信行は手のひらを長机に叩き付けた。
灰皿がひっくり返って灰とフィルターがばらばらと舞った。
黒崎拳がじっと信行を見詰めた。
「お前に何が分かる。アウトサイダー」
その異様な迫力に一瞬気圧されかけたが、それを信行は気合でねじ伏せた。
「アウトサイダーだから分かることもある! 希望論は棄てる。性善説も忘れる。けど外の世界には外の世界の理屈があるんだ!」
「言ってみろ」
「偽善だ!」
ぽかんと黒崎拳が呆気にとられた顔になった。
それが見られただけでも言い合いに価値はあったと思う。
「命は価値のあるものだ。権利は守られるべきだ。そういう前提で外の世界は成り立っている。誰一人それを信じていなくても、――そういうことになっている――んだ。だから誰かの命を救うための行動に対しては、ただ否定的であるだけで、社会的な信頼は失墜する」
「それで?」
黒崎拳がわずかに身を乗り出した。
「公表するんです。外の世界に。中で発症者がどんな目にあわされているのかを。大々的に公表してしまえば、政府はそれを無視できない。もちろん核を落として封殺するなんてことをすれば国際的な非難は免れない」
「だが知らないかもしれないが、この煉瓦台には妨害電波が何重にもかかってて外との連絡は一切できない。どうやって外の世界にそれを伝える?」
「通信機がないわけじゃないですよね?」
「まぁな。だが妨害電波のもとで使えるのは管理自治機構が管理してるものだけで、それだって中での通信にしか使えん」
「いいえ、旧式のものでいいんです。妨害電波は内部世界にそってぎりぎりの範囲に展開されています。外まで妨害電波が漏れると通信法に触れるためです」
「おい、お前、まさか」
「絶対境界線を越えます。この町を出ます。そして必要なことを伝えたら戻ってきます。俺は大学で煉瓦台の通信を傍受する非合法サークルに所属していました。連中ならこちら側から出る電波に耳を傾けているはずなんです」
「だがどうやって絶対境界線を越える?」
「美咲の力を借ります」
「本末転倒だ。あのお嬢ちゃんを守るために逃げ出してきたんじゃなかったのか?」
「でもそれが必要だからです。美咲なら分かってくれます」
黒崎拳はまた缶ケースから煙草を一本取り出した。
それからそれに火をつけようとして、しばし逡巡した後で結局火をつけた。
「なるほど。なるほどな。お前がアレに気に入られたワケが分かったぜ。そっくりなのな」
黒崎拳は散らばった灰はそのままに灰皿を表向きに直してそこに今吸っている煙草の灰を落とした。
「いいぜ。道具は貸してやる。地図もやろう。だが返せよ。小僧」
こうして白瀬信行は煉瓦台市からの脱出を決めた。
煉瓦台市から逃げ出すわけではない。
ただ伝えるため、そのために彼は行くのだ。
道は困難なものになるだろう。
何度も後悔することになるだろう。
だが自身が為すべきことを見つけた高揚で、信行はまだそのことにまでは頭が回っていなかった。
だから気がついていなかった。
彼もまた、自身の目的のためならば何を犠牲にすることも躊躇わぬ人間であるということに。
今日はここまで!
そして「空は続くとも郷は遠く」も今回までとなります。
次回からは「地は途絶えしも其は近く」の続きになります。




