空は続くとも郷は遠く -10-
2019年9月28日。
「落ち着いた?」
「ええ、なんとか……」
結局、信行が赤目症発症者の視覚異常が単なる異常ではなく、なんらかの視覚拡張であることを心から認めるのに丸一晩の時間を要した。
賀田文だけではなく他の発症者とも数人面会した。
まあ実のところはまだ納得したわけではなく、そういうことにしておいてもいいかな、といった感じだ。
徹夜で付き合わされた黒崎静はうんざりした様子で休憩室のソファーに横になっている。
「そろそろ本題に入るわよ」
あくびがひとつ合間に入る。
「私たちは<瞳>と呼んでいるひとつのシステムを運用している。これは千里眼型の発症者による煉瓦台の監視によって成り立っているの。けれど重大な事故があって現在その能力は以前の十分の一にも発揮できていない。あふ……、これをね、早急に改善しろと言われてるのだけど、どうすればいいと思う?」
「担当者の人数を増やす」
「千里眼型自体は発症者の中で珍しくはないけれど、<瞳>で実用できるレベルにあるのはほとんどいないの」
「能力の強化」
「病状の進行というべきね。なんらかの要因で能力が変化することがあるのは確認されているけれど、まだ研究中で意図的にそれをするのは無理ね」
「運用の改善」
「検討中。千里眼とはいっても皆同一の症状を示しているわけではないから、なんらかのシステムに当てはめて運用するのは難しいのよね」
「う~ん」
信行は唇を噛んだ。
そもそも発症者の能力とやらについてもまだ飲み込めていないのに、こんな話をされても理解が追いつくわけが無い。
「たとえば分散処理とか……」
「なにそれ?」
「ええと、コンピューターで大きなデータを処理するときの手法のひとつなんですけど――」
例えば遺伝子解析、例えば気象予測などの膨大な処理能力を必要とするとき、それを一台の電算機で行うのではなく、問題を分割し、いくつかの電算機で処理するという手法だ。
この手法でなら一部の電算機が故障などによって処理不能に陥っても、他の電算機がそれを引き継ぐことで致命的な障害を負うことを避けられる。
「あー、なるほどね。千里眼は観測だけに集中して、分析解析は他にやらせるってことになるのかな。ってもコンピューターと違って能力によって得られた情報を他人受け渡すためのメディアが存在しないのよね」
そう言いながらも黒崎静はソファの上にあぐらをかいて座りなおした。
「でも情報伝達手段さえどうにかなれば、千里眼への負担は大幅に減るのかしら。そりゃできるっちゃできるけど……」
そう言って黒崎静は親指の爪を噛んだ。
「ねえ白瀬君、君は赤目症に関心があるのよね?」
「ええ、はい」
「思ってたのと随分違ったと思うんだけど、それは今でも変わらない?」
自分の心に問いかけてみると、答えは驚くほど変わりなかった。
「はい。今でもです」
「それじゃあ<瞳>のところに行きましょう」
煉瓦台記念病院は実態はともかく外から見ると普通の総合病院だ。
大災害前の総合病院を使っているのだから当然のことだとも言える。
地下には研究施設が集中していて、さらにその地下、一般の研究員ですら立ち入りを禁じられた区域にそれはあった。
「これが……<瞳>?」
それは見たことも無い機械だった。
学校の体育館ほどの大きさの空間に、無数の柱が並んでいる。
柱1つ1つはケーブルなどで、互いに、そして中央の巨大な機械に接続されている。
足元のケーブルを踏まないように気をつけながら、信行は柱の一本に触れてみた。
暖かい。
エアコンによって部屋の温度が調整されているから、というわけではないようだ。
明らかに柱そのものが微量な熱を放っている。
それとわずかな振動。
柱はまるで生きているように音の無い唸りを上げている。
「そう、最初は単なる個人の能力に頼らざるを得なかった煉瓦台監視はここまでシステム化することに成功したわ。けれど現在稼動しているのはすべての柱の三分の一というところね」
「でも千里眼がどうとか……」
「ええ、そうよ。その中にいるわ」
事も無げに静はそう言った。
「え……」
言葉の意味を飲み込むのにとても長い時間がかかる。
「この、中に? 人が?」
「人じゃないわ。言ってなかったかしら? 赤目症は発症すると身体構造が完全に再構成されて、人とは違う種の生き物になるの。だから発症者は厳密にヒトではないわ」
「え、でも、だって……」
昨夜かかりきりになって信行に能力の実演をしてみせた賀田文は発症者であるにも関わらず、その異様な能力を除いてはまったくのヒトに見えた。
そしてまた静も彼女を普通の人間として扱っていたではないか。
「ん、そうか。そういうの割り切れないわよね。私たちだって何年もかけて慣れていったんだもの。でも……、慣れてもらうわ。あなたはもうここまで踏み込んだのだから」
振り返った。黒崎静はにこにこと優しい笑みを浮かべていた。




