空は続くとも郷は遠く -9-
2019年9月27日。
この日を以ってついに八坂の封鎖は終了する。
つまり感染者と非感染者の選別が完全に完了したということであり、それは予定よりもずっと早かった。
その理由はいくつかあるが、良い理由として最大のものは感染者の数が推測をはるかに下回ったからだ。
非感染者の選別は早い。
感染者が少なければ少ないほど選別が早く終了する道理だ。
最終的な感染者の数は80名。
24日から毎日一日分の感染者を一組として煉瓦台内に送り込んでいたので、全4組ということになる。
初日が31名。
2日目が24名。
3日目が18名。
4日目に7名。
それぞれが別のアパートに割り振られ、意図的が偶然かそれぞれの距離はある程度離され、なおかつその位置を知らされることはなかった。
もちろんこの日の朝すぐに信行がその事実を知るわけも無かった。
彼がおそらくは新規感染者の中で一番早くその事実を知ったのは、今目の前にいる人物の気まぐれである可能性が高い。
「――と、まあそういうわけで予定より早く選別が終わったからね~。スケジュールに空きができちゃったのよね」
通路を先に歩きながら、陽気に説明する女性は自らを黒崎静と名乗った。
見た目は信行自身とさほど年が離れていないように見えるが、この研究施設の責任者だというから驚きだ。
――おっと、説明の順序が狂ってしまった。
信行が何故こんなところにいるかについては、いまいち理由がはっきりしない。
大学編入のためのオリエンテーションと聞いてやってきたのだが、なぜか大学ではなく病院の地下にある研究施設に連れてこられてしまった。
美咲は比較的おとなしく高校編入のオリエンテーションに向かったが、そっちは無事に平凡なオリエンテーションであることを祈るばかりだ。
そして連れてこられたこの研究施設で、年齢不詳のこの女性に引き合わされた。
「訊いてる? 白瀬君」
「え、あ、すみません。設備に目を取られていました」
「あらあらまあまあ、そんなことじゃこの先説明なんてまるで頭に入らないわよ。貴方には期待してるんだからちゃんと聞いていてね」
「ええ、はい、分かりました」
そもそも何故期待されているのかも分からない。
大学の成績でも取り寄せられたのかもしれないが、その中身は期待されるに足るようなものではないはずだ。
尤も赤目症ウイルスにひきつけられているということも知られているのかも知れないが。
だが理由ははっきりしないにせよ、この研究設備にはどうしても目を奪われた。
正直、見知らぬものも多く混じっているが、それらがすべて赤目症ウイルスを研究するためのものであることは明らかだ。
「さて、スケジュールには空きができてしまったけれど、実を言うと人手が足りているわけではないの。今私たちはとても大きな問題に直面していてその問題を解決するためには人手がいくらあっても足りないくらいなの。猫の手も借りたい、だったかしら?」
「私は猫ですか?」
「喩えよ、気を悪くしたならごめんなさい。問題はね、根本的に解決法が見つからないところにあるの。説明しても貴方にすぐに分かってもらうのは無理だと思うし、そこまですぐに理解してもらうのを求めたりもしない。けれど、貴方はこの病気に興味が――それこそ病的なまでに興味があると聞いているわ。そのために八坂の大学を選んだのでしょう?」
警戒するまでもなくすべてお見通しというわけだ。
「そう、ですが……」
「うふふ、二律背反ね。いきなりこんなところに呼び出されて警戒しないわけにはいかない。けれど興味はある。そうでしょう?」
朗らかに黒崎静は笑う。
それはまるで少女のそれで、信行は彼女がここの責任者だということを忘れそうになる。
「貴方はあたしに似ているところがあるわ。興味を持ったことに対して犠牲を厭わない。全てをそのために捨てられる。違う?」
「…………」
確かに興味はあった。
だがまだ警戒が上回っている。
なにしろ突然すぎる。
2日間の何もない平穏な時間の直後にこれである。
警戒せずに何を恐れろというのか。
「まあいいわ。今は出し惜しみしている余裕はないの。君に質問。赤目症ウイルスって何?」
「これはテストか何かですか?」
「質問に答えてくれるのならそう思ってもらっても構わないわ」
黒崎静は微笑んでいる。
「20年前の大災害時突如として出現したウイルスです。人間にのみ感染し、発症すると虹彩が赤く変色します。発症者には幻覚が見えることが多いもののそれ以外にさして実害は無いですが、その潜伏期間の長さからこうして隔離されています」
それ以外に答えようがなく、信行はそう答えた。
教科書どおりの完璧な答え――のはずだった。
しかしそれを聞いた黒崎静はぽかーんと信行の顔を見ながら呆けていたかと思うと、突然一人で頷きだした。
「あー、そっか、そうだったそうだった。そういうことにしたの、あたしらだった。すっかり忘れてたわー。けどそれじゃあ、うーん、でもまあいっか。ねえ君。白瀬君。そういうのじゃなくて、もっとこう概念的な君自身の所感というのかな、イメージとか雰囲気とかそういうのないかな?」
「なんですか、それ」
「たとえばそうね、夜空に青白く浮かび上がる巨大な月。というとなんだか冷たい感じがしない? そんな感じよ」
実際それが冷たい感じがするものだろうか、と信行は疑問に思ったが、それはそれが静の所感というものなのだろう。
「そうですね、なんというか、膜のような。柔らかくて、でも弾力があって、厚い。生命力に満ち溢れていて、熱い……」
いざイメージを言葉にしてみると、意外なほどにすらすらと滑り出した。
「まるで心臓ね」
黒崎静が信行のイメージを補完する。
「というよりは細胞でしょうか。ウイルスですから、細胞とは異なるのは当然理解しているんですが……」
「ううん。細胞内に入り込んだウイルスの活動は確かに君の言うとおり。彼らは普段失っているかのように思える生命活動を突如として再開する。だけどイメージとしては普遍過ぎるわね。ブレイクスルーには成りそうも無いわ」
「ブレイクスルー? 私に何を求めているんですか?」
「ありていに言えば部外者の意見かしら。赤目症ウイルスへの内部の者の持つ偏見とイメージとはまったく違う偏見とイメージを持つ人の意見。何か斬新なアプローチが必要なの」
「偶然の発見を意図的に生み出そうとしてるような感じですか?」
「意図的ならば偶然ではないわ。ブレインストーミングよ。とにかく普通のやり方じゃ<瞳>に余計な負担がかかるばかり。何らかの方法で休ませなきゃいけないのに、世界は24時間動いてる。いっそ一日に8時間くらい時間が止まってくれないかしら」
時間が止まっていれば止まっていたことを認識もできまいだろうに無茶を言う人だ。
「アイリス、って何ですか?」
「ああ、そうね、そういうことも全て説明しなくちゃいけないんだった。ん~~」
黒崎静は腕組みをして、喉を唸らせる。そして長く、長く考えてから簡潔に言った。
「白瀬君、君は魔法を信じる?」
「魔法、ですか……」
何を言われているのか分からない。
魔法というとあれだろうか。
映画やゲームやアニメに出てくるような杖から炎を出したり、死者を呼んだりするような。
「そ、魔法。物を浮かせたり、物体を変質させるような」
信行は自分の持つ魔法のイメージと黒崎静の言うそれが微妙に違うニュアンスを匂わせていることに気づく。
「魔法なんて信じませんけど、……魔法にしか思えないような科学なら信じるかもしれません」
つまりは初めて電話機で誰かと話ができるようになったとき、テレビで別の場所が見られるようになったとき、人々が絶対不可能だと感じていた技術的なブレイクスルーは時として魔法に例えられる。
そういう意味では単純に職人の技術に対する最大級の賞賛として魔法のようだ、という言葉が使われることもあるだろう。
「鼻が利く、というよりは緊張してない? そんなに模範解答しようとしなくていいわよ。もっと単純に、君は魔法を信じる?」
「そういうことなら信じていません。見たことありませんから」
「見たことないから、ときたかぁ。なら赤目症ウイルスは? 見たこと無いでしょう?」
「見たことが無くても、それが存在する証拠は山のようにあります。そもそもそれが存在しなかったら、これだけの設備を使ってここを封鎖し、研究する価値がありません」
「そうね。じゃあ例えば科学的な裏づけ無しに、物が浮いたりすることについてはどう思う?」
「トリックを疑うとかはダメですか?」
「トリックは無いの。まったく、一切、これっぽっちも。それは大前提。だけどそれは重力に逆らって浮いてるとする。君はどうする?」
「どうすると、言われましても……」
起こりえない現実を前提に、仮定を話されても困るだけだ。
「そう……ですね。ここにボールが浮いていたりするとします。トリックは無し、私自身は正常に重力の影響下にあり、地面に足がついている。ボールの上下に手をかざしても何もない。何も起きない。ボールには触れられる。幻覚でもない。……部屋ごと落ちてるとかじゃないですよね?」
「それじゃ君も浮いちゃうわよ。まあそんなものでしょうね。理由付けできない現象を前にした反応としては……。問題は、そうね。そういう現象が世の中にはたくさんありすぎるということ。そしてそれを魔法と一言で片付けてしまうには、あたしたちは疑り深いのね」
「どういうことですか?」
「話しているより実際に見せたほうが早いわね。どうせいずれ知れることだし、中の人間には特に秘密でもなんでもないのよ。フミ、入るわよ」
とある扉をノックして黒崎静は返事を待たずにそこに入った。
信行も仕方なくそれについて入る。
「まだ悩んでるのね。フミ、貴方が見えないということは正解は無いということなの。少し休みなさいと言ったでしょ」
部屋の中は足の踏み場も無い惨状だった。
足元にも机にも、壁にも、天井にまで広がり貼り付けられたそれは全て図面、図面、図面。
信行には何のことかさっぱり分からない図面の束だ。
その中で机に噛り付いて図面を睨み付けているのは、20代後半くらいの女性だ。
厚手のメガネに、ボールペンを口に咥えているのが印象深い。
「う゛~~」
そしてそのメガネから覗く瞳の色は、赤、だった。
「紹介するわ。あたしの研究チームの一員で、発症者の賀田文、フミでいいわ」
普通それを言うのは本人だろうに、静が呼び名まで先に言ってしまう。
「フミ、彼は新規感染者の白瀬信行君よ。聞いてる。ねーぇ? おーい?」
「う゛~~~ん」
賀田文は相変わらず口にボールペンを咥えたまま図面を前に唸り続けている。
その目の前に黒崎静が手をかざしたが、見えている様子はない。
「あー、もう、仕方が無いなぁ」
黒崎静は机の上に広げられた図面の端をつかんだかと思うと、
「えいっ!」
と、図面を引っ張って部屋の端に投げ捨ててしまう。
「え、あ、あ、え、あれ?」
それでようやく正気に戻ったらしい賀田文が目を丸くして顔を上げる。
「あれ? 静さんじゃないですかぁ」
「じゃないですかぁ、じゃないわよ。さっきから何度も呼んでるのに返事しないで。大体、貴方は休憩時間のはずでしょ。どうして仕事してるのよ」
「あー、いやぁ、なんといいますか、図面見てないと落ち着かなくて」
「だからたまには気分転換しろって言ってるでしょ。まったく……。貴方の場合、頑張っても頑張らなくても効率は一緒なんだから、適当にやりなさい」
責任者としてはあんまりな言葉を口にして、黒崎静はその辺の図面を丸めてぽかんと賀田文の頭を叩いた。
「それじゃなんかもっと単純な図面でも探してきますね」
「あ゛ぁ、もうこのコは……」
「それで静さん、その人は?」
「そこに戻るのか……」
黒崎静は手に持った図面を丸めたそれをぐしゃぐしゃに丸める。
「新規感染者の白瀬信行君。外部にいたころから赤目ウイルスに興味があって、自分でいろいろ調べてたみたいだから、何かいいアイデアでもないかと思ったの。だけど、赤目に関する基礎知識があんまりにも無いものだからレクチャーしてるとこ」
その言葉はぐさりと突き刺さる。
信行は自分は自分なりに赤目について調べてきたと思っている。
テレビなどで時折思い出されたように特集される赤目に関する特番などがいかに大衆向けであるかとせせら笑ったりしているし、本屋で片隅に追いやられた本などよりもよっぽど自分のほうが詳しい。
だがそんな信行とろくに話もせずに訳の分からないことばかりを話して黒崎静は信行が何も知らないと決め付けた。
いや、その黒崎静こそがこの研究所の責任者であるのならば、まさしく信行のほうが無知なのだろう。
「それでフミ、貴女のを彼に見せてあげようと思ってきたわけ」
「え゛ー、私のなんて地味ぃでつまんない能力ですよぉ」
「それくらいのほうがいいわ。いきなりうちの美奈に引き合わせたりしたら卒倒するわよ。彼」
「あは。それもそうですね。美奈ちゃんのは分かっててもびっくりしますもん。ん~と、それじゃぁどれがいいかなぁ」
「あみだクジでいいじゃない。あれなら分かりやすいわ」
「そうですねぇ」
賀田文は頷いて、そこらから一枚の図面を引っ張り出してその裏面を表に机に広げる。そしてそこに4本の線を引いた。
それからその一端に1,2,3,4と数字を書く。
「白瀬さん、逆側に数字を1から4、好きな順番に書いて折りたたんでください。くれぐれも私に見えないようにお願いしますね」
そう言って賀田文は背中を向けた。信行は言われるがままに机の上においたままのボールペンを手に、線の逆端に数字を書く。
3,1,2,4、ならびに特に意味はない。
思いついたままだ。
そしてその数字が見えないように図面を折って数字を隠す。
「書けましたか? それじゃ適当にあみだクジになるように線を引いてくださいね」
信行は言われるがままに適当に線と線をつなぐ線を引いていく。
なんとなく見た目的に一般的なあみだクジっぽくなったところで手を止めた。
「できました」
「はぁーい」
賀田文は振り返ると、信行の手からボールペンを奪い取って、さっさっさと2本の線を書き足した。
「はい、でーきましたー」
「え?」
あまりのあっけなさに信行は何がなんだか分からない。
「どうぞ、あけて見てくださいな」
折りたたんだ部分を開くと、そこには信行が書いたままの3,1,2,4がそのまま書かれているだけだ。
「ふ~ん、ふん」
賀田文はその線の一端から、線をなぞって逆に一端に向かう。
1は1に。
2は2に。
3は3に。
4は4に。
あみだクジはまるで正解を知っていたかのように同じ数字へと向かう。
「なんだ、これ……」
「ふふふん、何度やってもいいですよぉ。結果はおんなじですから」
「どういうことです?」
振り返ると黒崎静が苦笑している。
「どういうこともなにも、そういうことよ。彼女はね、回路の綻びが見えるの。破綻している流れ、そしてそれをどう修正すれば正しくなるかが見える」
「見えるもなにも、だって!」
ぱっと見てあみだクジの流れが違った数字に行き着くことを理解し、正しく修正したというのなら分かる。
特異ではあるが、一種の天才だ。
数字を見ただけで答えが分かるような天才が時折世の中には現れる。
しかし今賀田文が見せたのはそう言ったものとは根本的に違っていた。
なぜなら彼女は信行の書いた数字を見ていない。
どの線の先にどの数字があるのかを知らない。
折り目を開けない限り、正解に向かって線を書き足すことなどできるわけがないのである。
「視覚拡張系分析能力とあたしたちは呼んでるわ。赤目症ウイルスによる発症者には必ずこれに類似した症状が発現するの。見えないものが見える。見えるべきものが見えなくなる。あまりにも症状の種類が多すぎて分類しないとやってられないというのもあるわね」
「ちょっと待ってください。それはつまり幻覚ですよね。発症者に見られる視覚異常」
「ええ、そうよ。ただの幻覚。ただし百発百中する妄言は予言と呼ばれるべきでないかしら?」
信行はこめかみを親指で押さえる。そんなことで頭痛は治まりはしなかったが……。
「もう一度、いいですか?」
「何度でもぉ~」
それから信行がそのことを納得するまでに、4枚の図面の裏がびっしりと埋まった。




