空は続くとも郷は遠く -1-
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目に見えるものが全てではない。
だが目に見えるものと見えないものを足してもまだ全てではない。
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「おさきですー」
バイト先のコンビニの制服から着替え、レジのところで挨拶して店を出る。
冷房の効いた涼しすぎる店内から外にでると、わずかに熱気の残滓が香る夜の空気が出迎えてくれる。
爽やかさえ感じるそれは残暑すら終わりつつあることを確かに告げている。
「そうか、夏も終わるんやな……」
白瀬信行は小さくそう呟いて、空を見上げた。
故郷を離れて遠く500キロ以上、空は地球上の何処にでも繋がっているのだから、故郷で見る空も、ここで見る空も同じもののはずだ。
しかしそんなのが嘘であることをもう信行は嫌というほど知っていた。
信行にとって空のイメージとは快晴とは言わないが、青空がそれである。
しかしここに来てからというもの、空のイメージはすっかりどんよりと曇った空に変わってしまった。
離れれば例え空は繋がっていても空の色は変わるのだ。
――信行が空を見上げたとき、私も同じ空を見上げてるで――。
「美咲、元気にしとるかなぁ――」
「誰それ? 妹さん?」
慌てて振り返ると同じシフトで仕事に入っていた南富士子が並んで歩いていた。
すらりと伸びた手足に白いシャツとジーンズをラフに着こなした、――信行の頭に一瞬浮かんだ幻影とは正反対の――ボーイッシュな大学の先輩でもある。
「あ、いや……」
無意識に口にしていたので信行は思わず舌が絡んでしまう。
「ははーん、その狼狽っぷりは彼女だな」
「……ええ、はい」
小突かれたので素直に認める。
元々否定したところで信じちゃくれないだろう。
「ふ~ん、ノブくんにはあんまり女の影が見えなかったけど遠距離だったんだね。同じ大学受けなかったの?」
「いえ、ひとつ下なんで来年ウチを受けるって言ってます」
「ほほーう、けどウチって第一志望にするにはちょーっとだけレベル低いような気がするんだけど、彼女がもっといい大学行っちゃったりしないのかな」
実際のところ信行たちの通う大学は、ちょーっとだけ、というより滑り止めの滑り止め、誰でも入れる大学というところが正しい。
設備が悪いわけではない。
教授陣が悪いわけではない。
経営状態が悪いわけではない。
授業料が高いわけではない。
単に募集数に志望者数が足りることがないだけだ。
「というより、来て欲しくないっていうのが本音なんですけどね……」
ビルの合間から北東の方角、遥か遠くの山間が強い、強い光を発しているのが見える。
「……それはちょっと過敏に過ぎるってもんじゃないかな」
信行の視線を追った富士子は、彼の言いたいことを察してそう言った。
「あの子、美咲って言うんですけど、彼女の頭ならどこでもとは言いませんけど、地元のいい大学だって行けるんですよ」
「そういうノブくんだって頭いいじゃん。前期の成績無理やり見たの忘れた?」
「俺は、その……」
信行はもう一度、北東の光に目を走らせる。
「本当は国防医科大学志望だったんですけどね……」
倍率が高かったわけではない。
成績での足切りや、面接での考査が、異常を越えて厳しいだけだ。
何せ信行の時は募集枠100名に応募23人で、合格したのは7名のみだった。
「ってぇことは赤目研究、だよね。ふーん、それでウチか。妥協したねぇ」
言いにくいことをズバリと言うなあと信行は苦笑した。でもまあそこが富士子のいいところなんだと思う。
「少なくとも一番近い大学だもんね。“あちら側”に」
そう、そうだ。
その通りなのだ。
結局のところ信行が地元を500キロ以上離れてこんな小都市の大学に通うことに決めたのはそれが全ての原因だ。
峠をひとつ越えればそこは封鎖都市煉瓦台。
赤目症ウイルスの蔓延し続ける人工のウイルス培養槽。
今尚現在進行形で活性化を続けるBL-4ウイルス。
20年間、誰一人そのウイルスを死滅させる手段を見つけ出していない史上最悪のウイルスだ。
探検家が未知の領域に踏み込まないでいられないように――白瀬信行はこのウイルスに踏み込まないではいらなれない。
理由はどれだけ考えても解らなかった。
それはいわばまるで遺伝子の命令のようなもので、小学校の日本の歴史で、簡略的にその事実を知ったとき、すでに信行の胸は高鳴ってしまっていたのだ。
むに、と突然頬を突付かれる。
「な、なにするんですか」
「いや、男の顔してたなぁって、そしたらジャマしたくなっちゃった」
「んったく、ワケわかんないですよ」
「まま、そう言わない。ほら、今日は富士子ちゃんのオゴリですよ~」
富士子がコンビニの袋を掲げると缶と缶の当たるがしゃんという音がする。
「って、駅過ぎてますよ!」
「あたし、明日午前休講なのね」
「理由になってません」
「取って食おうってワケじゃないわよ~。彼女と電話するなら静かにしてるし、ちょっと寂しい気持ちを紛らわせてあげようかなっていう優しさが分からない? あーやだやだ、最近の若い子はこれだからダメだよねえ」
「はぁ~、分かりましたよ……」
実のところこういうことはこれまでに一度や二度ではなかった。
富士子が一人でくることもあったし、友達も連れてドンちゃん騒ぎをして周囲の住人の苦情を買ったこともある。
それになにより富士子は信行を誘惑しようとはしない。
というか性的なニュアンスを匂わせることもしない。
随分魅力的な女性だとは思うが、信行に対してなんとも思ってないうえ、警戒心すら抱いていないというのが実情であるようだ。
「でもさー」
不意に空を見上げて富士子が呟いた。
「ノブくんって夏休みもバイトしまくってなかった?」
「してましたねー。仕送りも余裕ないですし、少し貯金しておこうかと」
「彼女とは会ったの?」
「いえ、ほとんどメールだけで……」
電話すらほとんどしていない。
とはいえ、電話をしても信行が一方的に色々喋って、話題が尽きれば無言の時間が過ぎるだけだ。
美咲はメールならこまめにやり取りをしてくれる。
ただ、その内容はいつもとても素っ気無いのだけど。
「それじゃまさかこっち来てから一度も会ってないわけ?」
「そう、ですね」
なにせ新しい生活に追われ、それどころではなかったというのもある。
信行たちの通う大学は、煉瓦台に近いということで志望者の数こそ少ないものの、教育レベルが低いわけではなく、成績の悪いものはばっさりと切られるため、勉学から手を抜くこともできない。
さらに親の仕送りは少なく、生活だけならなんとかなるが、一度でも仕送りが止まれば家賃を払うことすら危ぶまれるという状況は信行にとっては好ましくなかった。
それでまずは生活基盤を作ろうと貯金の額を増やすことに専念しているうちに半年が過ぎ、夏休みも終わりを告げていたのである。
「彼女のほうからこっちにくる、ワケにもいかないか。ノブくんの実家って関西のほうだっけ?」
「ええ、それに受験生ですしね」
「寂しいねー」
「ええ、……え」
何気なく返事をしてから信行は不意に疑問を感じた。
寂しい……?
そんなことを感じたことがあっただろうか。それどころではない、という現実が常に目の前にあったのは事実だ。だが富士子やそれ以外の新しい友人たちに囲まれて日々を過ごす中、寂しいと感じたことが本当にあっただろうか?
「お姉さんが慰めてあげよっか~」
全然色っぽくない声で富士子が笑う。
「全然いらないです。っていうか、いつの間に歩きながら飲んでんですか」
「またまたぁ、遠慮しなくていいのよん」
「もう、本当に勘弁してくださいよ」
無論それが本気でないことは信行にもよく分かっている。
まったく仕方の無い人だなあと、それでもまあ悪い人じゃないし、どちらかというと好意を抱いているのは事実だ。
無論、男女のソレではないけれど。
そんなことを考えながらアパートの階段をカンカンと音を立てて上がっていくと、手前から3番目、信行の部屋の前に黒い塊があった。
最初は一瞬何かの荷物が放置されているのかと思った。
それはぴくりとも動いていなかったからだ。
しかしその黒い塊はゆっくりと――顔をあげて信行と……富士子を見据えた。
以前と変わらない何を考えているのか今一分からない無表情……、艶のある長い黒髪はまるでそれも衣類のひとつのように座り込んだ彼女の体を覆い、その足元には小さいとは言い難いスポーツバッグが無造作に置かれていた。
「……み、さき……」
呟いてから、今のこの状況が客観的にどう見えるかについて気がついた。
夜の十時を回り、男の独り暮らしのアパートに女を連れて帰ってくる。
それもビールを片手に。
「美咲、ちゃう」
信行の言い訳の聞いているのか聞いていないのか、美咲はじぃとそのままの姿勢で二人を見つめたまま動かない。
「あーーっと、えと、その、あたしはノブくんの、つまり白瀬くんの大学のお友達ね、ただのお友達。なーんにもやましいことはないからね」
流石の富士子もすっかり狼狽してしまったようだ。
「あ、え、と、あたしお邪魔みたいだから帰るね。ごめん。美咲ちゃんだっけ、本当になんでもないから、神と仏とアラーに誓って。えと、ビールいる?」
信行は無論首を横に振る。美咲はもちろん、信行も、本当は富士子だって未成年だ。
「そか、そだよね。ホントごめんね。それじゃまた」
「気にせんでええですよ……」
初めて発された美咲の言葉がそれで、振り返り帰ろうとしていた富士子は立ち止まりまた振り返る。
その表情は明らかにほっとしていた。
「そう、よかっ――」
「貴女が信行とどんな関係やとしても、私は信行の女やから……」
微笑みすら浮かびかけていた富士子の表情が凍った。
美咲の表情は怒りも悲しみも浮かべておらず、ただ無表情に事実をありのままに告げたというようにしか見えない。
それからどれくらいの沈黙が流れただろうか。
恐らくはそのままどれほどの時間が経っても美咲は次の言葉を口にはしないだろう。
だから富士子は、ここはできるだけ早く逃げ出すのが得策だなと判断した。
「そう、ね。えっと、だから、おやすみなさい」
今度こそ振り返らずに富士子はカンカンガチャガチャと階段を降り、袋の中のビール缶を打ち鳴らしながら去っていく。
今からならまだ十分電車で帰ることができるだろう。
その背中が見えなくなってから、美咲はゆっくりと、本当にゆっくりと立ち上がり、アパートの二階の廊下のフェンスを掴んで空を見上げた。
信行はその横顔に見とれることしかできない。
ほんの半年と少し、ほんの半年と少し会わなかっただけだ。
美咲はなにも変わってはいない。
その雰囲気も、声も、喋り方も、ただ少しだけ髪が伸びたような気がする。
いつもきっちり揃っていた毛先が今はすこし歪んでいた。
でも、綺麗になった。
それは顔の造形のことではなかったし、化粧をするようになったということでもなかった。
無表情なのはなにも変わらないが、その無表情の中の変化が、明らかに彼女の美しさを以前のものとは変えていた。
「空を見上げてた」
不意に脈絡のないことを言い出すのはいつものことなので信行は黙って聞いた。
美咲の言葉はいきなりすぎるだけで必ずちゃんとした意味がある。
ただ順番が分かりにくいだけだ。
「同じ空を見上げているつもりやった」
美咲の目はじっと夜の空に注がれている。
雲に覆われて星の出ない夜。
月すらも覆われて、空にある光はすべて地上からの反射光だ。
「まさか……空がこんなに違うやなんて……」
信行に振り返った美咲はやはり無表情だった。
けれど美咲はゆっくりと信行に歩み寄り、その胸に体を預けた。
信行はその華奢な体をしっかりと抱いた。
「俺も空を見てたで」
軽いキス――。
その後で美咲は首を横に振った。
「解ってへんかった。こんなに遠いやなんて、遠い……」
この作品の女性陣はどうしてこうも我が強いのか。




