嫌な女
41歳の主婦、岸田景子はテーブルの上に置いた10面体のサイコロを見ていた。
「私が、支配者ねぇ…」
溜息すらも出ないのは馬鹿馬鹿しいからではなく、あまりにも現実感が薄いからだろうか。
20歳で結婚してから、一度たりとも仕事をせず、ずっと家事に専念してきた所謂、専業主婦だ。
息子が今年から地方の大学に通い出し、夫と2人、特にこれといった問題もなく、平凡な人生を送ってきたわけで、まさか、自分にこんな異常事態が降り掛かってくるとは思ってもみなかった。
刺激が欲しいという願いも抱いた事がなかった。
すでに、サイコロは1つだけになっている。
試しに投げてみて、投げたサイコロが消えてしまってから、臆病風に吹かれてしまった。
最初の数字は、8だった。
8は末広がりで良いのかもしれないなんて、勝手な想像だろうか。
1個目を投げて、2個目を捨てるなんて事は出来ないのだろうか。
「駄目、そんな事を言ったら、きっと殺されてしまうわ…」
あの奇妙な奴に殺されるのは、ほぼ確実だろう。
ああいうタイプは自分の意にそぐわない存在に対し、容赦がない。
まだ、死ねない。
息子が成人するまでは、いや、息子が大学を卒業するまで、いや、息子が結婚するまで、いや、孫の顔を見るまで。
どれくらい生きなければならないか、それは分からない。
ただ、召喚士にならず、それだけ生きる事は許されないだろう。
だったら、答えは決まっているのだ、最初から。
右手を伸ばし、サイコロを掴む。
叩き付けるようにサイコロを投げる。
床に当たり、高く撥ね、転がった先で出た数字は1だった。
サイコロが消え、床に傷が残り、現れたのは自分よりも年上の女性だった。
ボサボサの長い髪は燃えるように赤く、貪婪な鈍い光を放つ琥珀の瞳が睨め付けるようにこちらを見やってくる。
「アンタがアタシの主人ってわけかい?」
「そういう事になるみたいですね」
舌打ちの後、溜息を吐き出した。
「カミムの坊やももうちょっと考えて欲しいものだね。こんな非戦闘員を守りながら戦えだなんて、無茶を言うもんじゃないよ」
「カミムって誰ですか?」
「あの性別不詳の案内人さ。アンタもアタシを召喚したって事はすでに面識があるんだろうさ」
この女性も巻き込まれたというわけだろうか。
それにしても、一目見ただけで自分が戦いに関わっていない人生を送っていると見抜かれたのは、まあ、当然なのかもしれない。
まともに喧嘩すらもした事が無いような人生だった。
「私に従うのは嫌ですか?私を守りたくはないですか?」
「嫌だけどねぇ、守らなくちゃしょうがないってのは聞いてる。守ってはやるから、自分が守られてるって立場だと自覚してちょうだいよ」
それにしても、カミムが言っていた大小様々な好意とやらをこの女性は本当に抱いてくれているのだろうか、とてもそうは思えなかった。
「アンタ、名前は?」
「岸田景子です。貴方は?」
「ヴァレリーさ、『赤天の宝彩』ヴァレリー」
「ヴァレリーさん、お互いに意に添わない事になりましたが、協力して頑張りませんか?私だってそうですが、貴方だって負けたくなんてないんでしょ?」
「フンッ、いいわ。このヴァレリー様を召喚したんだ、負けはない、勝者になる事だけを考えていなさいな!」
ヴァレリーは嫌な女だ。
だが、これだけの言葉を吐くのだから、強くはあるのだろう。
とにかく、それを利用し、召喚王になれば良い。
そうした後、気に喰わないなら、それなりの手を打てば良い。
そう、召喚王になるまでの辛抱だ…。