それは夢物語の如く
結局、一睡も出来なかった。
部屋を真っ暗にして、さあ、寝ようかと思ったわけだったが、そんな事あるわけもないのに、誰かがサイコロを盗んでしまわないかと思ったり、寝相が悪くて勝手に掴んで投げてしまったりしないかと考えたり、迷走してしまったのだ。
仕方なく、明かりを点けたまま寝ようとしたのだが、今度はサイコロから目が離せなくなってしまい、目を閉じられずにいて、では、天井でも見ていようかと思っても、自然と視線がサイコロに戻ってしまうのだ。
徹夜明けでも仕事は出来るのかもしれないが、相坂は少なくともやった事がないし、自信がなかったので休んでしまう事にした。
正直、仮病なんて使った事がないどころか、病欠すらも初めてだったので緊張した。
しどろもどろになりながら、冷房をガンガンに掛けた部屋で汗を流しながら伝えると、案外、向こうは普通の様子で、有給扱いにしておきますよと言ってくれた。
ホッとしたのも束の間、また気になってしまうのはサイコロだ。
考えてみれば、左手のサイコロだけを投げてしまうのは別に構わないのではないだろうか。
左手でサイコロを摘むと、小刻みに震えてしまうのが情けない。
「やれやれ、ここでこんなに怯えてたら…」
呟いた瞬間、人差指と親指の間で震えていたサイコロがするりと抜け落ち、転がる。
「6…か」
投げてしまったサイコロが消える、残されたサイコロは1つ。
こうなってしまって、ようやく決める事が出来た。
残されたサイコロを右手で掴み、宙に放り投げてキャッチする、宙に放り投げてキャッチする、宙に放り投げてキャッチできずに落とした、3度目でミスった。
「2…」
さあ、どんな化物が出てくるかと身構えたが、2つ目のサイコロが消えて現れたのは10代の少女だった。
まるで日本人にしか見えないその少女は、果たして何が出来るのだろうか。
「あ、あの…」
思えば、こんな年齢の少女と会話を交わすなんて、何年振り、いや、何十年振りだろうか。
「初めまして。私は、北柳杏奈といいます。貴方の名前を教えてもらえますか?」
「あ、え、あっ、ああ、名前、名前ね、相坂和吉です…」
何故、自分はこんなにも緊張しているのだろうか。
毎年、春に入ってくる新入社員達よりもさらに若いであろう少女に対して、情けない話だ。
「カミムさんに話は聞いています。貴方が死んだら、私も死んでしまうそうですね。だから、精一杯、全力で貴方を守りますね」
カミムさんとは誰だろうかという事より、少女の名前が、北柳杏奈という名前が、どう考えても日本人で、本当にこの娘を戦わせたりしなければならないのかと憂鬱になる。
「和吉さんと呼んでも良いですか?」
「あっ、はい…、えっと、じゃあ…」
杏奈さんで良いのだろうか、或いは北柳さんか、仲良くなる必要があるというのは、こういう意味だったのだろうか。
「杏奈と呼んで下さい」
「杏奈…」
「はい、和吉さん」
「あ、やっぱり、杏奈さんで…。人を呼び捨てにするのは、ちょっと慣れてないから…」
「はい、和吉さん」
微笑を浮かべて応じる杏奈に、相坂は本気で戸惑っていた。
「あの、杏奈さんみたいな女の子が、その、本当に戦ったりなんて、出来るんですか?」
杏奈が笑顔で一回転して見せる。
短いスカートから覗く太ももが眩しい。
ただ、それに興奮するには、もう10年くらいは若さが欲しいところだった。
すでに、相坂は何も感じないというか、そういう事もあるかという程度になっていた。
「こんな女の子が守るなんて言っても、不安になってしまいますよね?でも、大丈夫ですよ。私だって、自分の世界では誰にも負けないくらいの自信があったんですから」
杏奈は胸を張っていたが、女の子が無理して虚勢を張っているようにしか見えない。
「杏奈さんが誰かと殴り合ったりしている姿が想像できないんですが…」
「私も殴り合いは得意じゃないです。でも、私には風がありますから」
「風…?」
「はい、風ですよ、和吉さん。私、風使いなんで、風を自在に操る事が出来るんです!」
風を自在に操るとは、扇風機みたいな事なのだろうか。
そういえば、今年は出していない。
出した方が良いだろうか、使うだろうか。
「でも、扇風機で戦うって、あの回転している羽で叩くみたいなイメージですか?」
「えっと…、口で説明するのって難しいですね。一緒に飛んでみませんか?」
「飛ぶって…?」
飛ぶという言葉で想像できたのは、道義上、あまりよろしくない事ばかりだった。
ベランダに続く掃き出し窓を開け放つ杏奈に対し、冷房の事を考えた相坂は何か少し恥ずかしい。
「行きましょう、和吉さん」
「え、行くって…」
呆けた顔をしているであろう自覚はあったが、とりあえず、杏奈の方に近付く。
「しっかりと私を抱きしめて欲しいんです、危ないですから」
正直、相坂みたいな男が杏奈を抱きしめる方が、社会的にはよっぽど危ないだろう。
そして、普通に生きて平凡に死にたい相坂にとって、その境界線は犯し難かった。
「分かりました。じゃあ、私が」
腕に抱きつかれて動揺したのは、杏奈の大きな胸が柔らかかったせいか、杏奈の顔があまりにも近くに来たせいか、杏奈が発する少女特有の香りが鼻をくすぐったせいか、そのどれかではなく、その全てをも超越して、頭と心が灼熱に焦がれ壊れていく。
と、次の瞬間、周囲に風が巻き起こり、杏奈が、そして、相坂も部屋の中で浮かんでいた。
慌てながらも、腕に抱きつかれている状態で暴れてはいけないという思いがあって、だから、視線だけが彷徨い、部屋の中の物が何一つとして風の影響を受けていないのを認め、ようやく理解した。
「これが、風を操る…って」
開け放たれた掃き出し窓からベランダへ、そして、外に出た。
高層マンションなんかに住んでいるわけではなかったが、団地の3階から抜け出して、空を飛んでいる。
「空を…飛んでる」
それは、幼い頃に思い描いた夢物語のようで、もう、腕に感じる杏奈の何もかもよりも、その事に相坂は浮かれてしまっていた…。